火事や地震などの災害が発生した際、私たちは川をどのように利用することができるのでしょうか。 「使いながら守る水循環」を考える里川文化塾では、今回、非常時における川の利用法に注目しました。地域形成史を専門に全国の川を視察している難波匡甫さんを水先案内人に招き、日本橋川・神田川・隅田川・小名木川を船で巡り、非常時における川の利用について考えるワークショップを行ないました。
法政大学サスティナビリティ研究教育機構研究員
難波 匡甫 なんば きょうすけ
芝浦工業大学卒業、法政大学大学院修士課程修了、Lueur場所と空間の研究所所長。専門は地域形成史。
著書『江戸東京を支えた舟運の路』、共著『里川の可能性 利水・治水・守水を共有する』、『東京エコシティ』ほか。
乗船フィールドワークの前に、今回の行程(隅田川・日本橋川・神田川・小名木川)に関して「非常時における川」というテーマで、難波さんにお話いただきました。
まず、私なりに「里川」についての考えを述べたいと思います。
現在の東京では防災施設が充実し、大規模な洪水や内水は発生しないようになりました。また、川から取水した上水道が整っているため、水に苦労することもありません。このように水害が減少しつつ、川からの恩恵を受けているにもかかわらず、地域住民の川に対する意識は低い状況にあります。
こうした現状において、厳密に定義されていない「里川」という言葉を提唱することで、「自分にとっての里川とは何か」「自分たちが住む街にとっての里川とは何か」を考え、結果として人の川に対する距離感を狭めることにつながると考えています。
非常時における川の利用を考えるうえで、乗船フィールドワークで巡る江戸東京の川についての話をしたいと思います。
江戸では、掘割をつくりながら埋めたてにより町を拡張した経緯があります。
江戸時代以前は、現在の丸の内辺りまで海岸線があり、日比谷入江と呼ばれていました。江戸城が築城すると、神田山を掘削しその土砂で日比谷入江が埋められました。
現在の日本橋は"内陸"というイメージがあるかもしれませんが、江戸時代には湊と呼ぶに相応しい場所であったため、魚市場や荷揚げ場など江戸の物流の中心地として発展しました。
江戸への物資供給には、全国的な舟運網が不可欠でした。東北からの荷物は、「内川廻し」と呼ばれた、銚子から利根川を上り、江戸川、新川、小名木川を経由する航路を通って江戸の町に運ばれました。こうした舟運網は、「利根川東遷」と呼ばれる利根川の流れを銚子に変更することで実現されました。また、日本橋周辺で舟運の安全性を確保するためには、平川を隅田川に直接流すための神田川開削や、平川上流を埋めるなどの整備が必要とされました。
江戸のまちづくりは、舟運利用を考慮しながら進められた一面が強いといえます。
また、当時の治水は、「ここは水害を起こしてはいけない所」「ここは水害時には氾濫する所」という考え方が明確で、そこに暮らす人々は地域の状況を心得ていて、洪水への備えを自らも行っていました。
幕末になると埋め立てが進み、江戸城や日本橋等は内陸化しましたが、それでも舟運の機能は残りました。明治以降、隅田川や小名木川沿いに近代的な工場が立地した理由は、大名屋敷などの広大な敷地が確保できたことに加え、舟運による物流の利便性が高かったからです。ただし、立地した工場からは大量の地下水が汲み上げられた。そのため、現在の江東区辺りでは地盤沈下が起こり、洪水が日常的に発生するまでになったため、高潮対策として防潮堤の整備が進められました。
鉄道による物流が始まった当初は、鉄道網が未発達のため、鉄道と舟運の間には、補完する関係が成立していました。その関係が変わったのは、第二次世界大戦を終え、鉄道網が整備された高度経済成長期の昭和30〜40年代です。
当時、工場からの廃水により川が汚れ、さらに、物流の中心が舟運から鉄道に代わったため、人にとっての川の利用価値が失われました。そのうえ、地盤沈下の進展にともない防潮堤が徐々に高くなることで、人と川とは、心理的にも物理的にも隔たりが大きくなりました。
2010年、内閣府の中央防災会議において、巨大洪水が東京を襲った際の被害予測が報告されました。この報告の内容を受けて、NHKスペシャル「首都水没」が放送され(2010年9月1日)、人々の注目を集めました。この番組では、荒川の水位が上昇し堤防が破堤した後、多くの人が逃げ遅れるといった想定や、丸の内などでも被害に遭う様子が映し出されました。
どんなに予測を行なっていても、日頃から備えをしておかないと、非常時には何の役にも立ちません。
荒川と旧中川を結ぶ荒川ロックゲートと荒川河川敷において、2011年7月23〜24日、水害以外の災害時における避難場所としての利活用を検証する社会実験が開催されました。この社会実験では、船によるロックゲート(閘門)開閉の体験や、ロープワークの講習が行われたほか、ロックゲート付近の河川敷にテントを張り一夜を過ごすキャンプ体験も実施されました。
実際に荒川河川敷で避難生活をしてみると、普段は気づかないことが発見でき、非常時への備えの大切さを痛感しました。
現在、都会で生活する人は川と関わることが少なく、川の素晴らしさを実感できる機会がほとんどありません。同様に、川の怖さを知る機会がないのが実情です。
これまで、人と川の関わりを考える際、「川に対する防災対策」や「観光資源としての川利用」といったように、川の怖さを知ることと川を楽しむことが別々に扱われてきました。今後の東京、特に江東内部河川(墨田区、江東区)では、これら両方を常に一緒に意識し、さまざまな場面で川の利活用法を考えていくことが望ましいと思っています。それが「里川」の考え方にもつながり、また、"非常時に川を活用する"を発想する第一歩であると思います。
この後の乗船フィールドワークでは、この両方の視点から、実際に東京の川を眺め、非常時における川の利活用について考えていただければと思います。
難波さんのオリエンテーションを受けた後、日本橋橋詰に新設された船着場から乗船し、船でフィールドワークに出発しました。
難波さんからアドバイスをいただいた視点は以下の3つです。
私たちが乗船した日本橋乗船場の他に、東京には国や東京都、各区がそれぞれ管理する船着場があります。ただし、ほとんどの船着場は「防災船着場」として管理されていることから、平常時には使用許可を得ることはできません。普段利用できない船着場を、非常時に有効利用できるのかといった疑問を、船に関わる多くの人が抱いています。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震によって、東京都内の交通機関が麻痺した際、防災船着場が利活用されたとの話は聞いていません。日本橋乗船場のように、日常的に利用が許される船着場が増えれば、利活用についての様々な規則も整い、非常時における有効利用の環境が整うのではないでしょうか。
隅田川河口にある相生橋は、深川と佃を結ぶ橋です。関東大震災の時、火災に追われた深川の人々が相生橋を渡って佃に逃げようとした際、佃の人々が深川からの避難者を佃に入れませんでした。今考えると、非情と感じられる話ですが、災害時における群集はパニック状態にあり、その存在そのものが凶器となります。そのため、当時の佃の人々が執った行動は、必ずしも非難されるものではないといえましょう。
東北地方太平洋沖地震において、東京は比較的被害が小さかったため、人々がパニックに陥ることはありませんでしたが、仮に、大きな被害に襲われていたと考えると、隅田川や荒川に架かる橋において、群衆の行動を制御する必要があったと思います。例えば、沿道のマンションやオフィスなどへ無断で入り込もうとするパニックに陥った群集と、その建物に群集を入れまいとする住人や従業員との間で、争いが生じることが考えられるからです。
非常時、避難所としての施設利用を決定している企業もあり、江東区ではそうした大手5社と協定を締結しています。平常時に非常時の対応策を検討しておくことはとても重要だと思います。
小名木川にかかる萬年橋周辺は、江東区景観計画において景観重点地区に指定されています。隅田川の両岸には高い防潮堤がありますが、小名木川は水門によって守られていることから、防潮堤がなく、街から川を眺めることができます。
その小名木川両岸の耐震工事の際、高橋より東側では松が植えられましたが、その様子を見た住民から「松だけでは寂しい」との声が寄せられ、高橋の西側では桜が植えられ、今では春になると満開の花が川を彩ります。
このように住民の意見が耐震護岸整備に反映された高橋周辺では、現在でも送り火・迎え火や灯篭流しの風習が残っていて、他の地域よりは住民の川に対する距離感は近いように感じられます。
1657年(明暦3)に江戸で発生した「明暦の大火」後、江戸の各所には火除目的に広小路が設けられました。商売上手な江戸商人は、防災目的でつくられた広小路に見世物小屋などを建てる許しを得て、広小路を盛り場に変えてしまいました。その代表が、両国広小路です。防災目的の施設を、平常時に別目的で活用する知恵は、実は江戸時代から存在していたわけです。
現在に目を移せば、隅田川テラスは今でこそイベントとしてカフェが開かれ、また釣りを楽しむなど、人々が集える場所になっていますが、元は護岸の耐震補強を目的につくられた施設でした。この隅田川テラスは、水害以外の非常時には救援物資の集積所や周辺住民の一時避難場所として活用できる可能性もあり、社会実験などの実証を通して実現していただきたいものです。
今回の乗船フィールドワークの行程には、来年完成する東京スカイツリーの眺望ポイントが多く、水上の新たな観光名所になっています。観光目的であっても乗船する機会が増えれば、川への関心を深めてもらうことにつながるのではないでしょうか。
東北地方太平洋沖地震の影響で発生した福島の原子力発電所事故は、想定外の津波が押し寄せたため、非常時に使用する電源が津波で水に浸かってしまったことが原因でした。
隅田川や荒川の流域では、排水システムが整備さていますが、近年、東京の排水システムで想定されている雨量(50mm/h)を超えるゲリラ豪雨も珍しくありません。
そのため中央防災会議では、こうした排水システムが機能しない場合の被害状況も想定し、その対策のあり方が検討されています。
洪水の際、川で危険をもたらすものとして、山から流れてくる丸太があります。近年、林業での採算性が低いことから、間伐材が山の中に放置される場合が少なくありません。そのため、大型台風により間伐材が川に流れ出し、橋桁や護岸、さらには係留されている船を壊すなどの被害が発生します。今年9月に訪れた新潟県三条市では、台風15号の爪痕として、橋桁で止まっている丸太を目にしました。山での管理状況は、その山を流れる川の下流域における安全性と関連していることを忘れてはいけないと思います。
神田川から日本橋川が分岐する後楽橋付近には、川に突き出した不思議な形の施設があります。これはゴミ集積所です。ここに集められたゴミは、台船に載せられ、東京湾の最終処理場まで運ばれます。大量の物資を安価に運ぶ手段としては、今なお陸送より舟運が優れている点や、物流手段を分散することで、道路の交通渋滞が緩和できるといった点を改めて考えさせられる施設です。
乗船フィールドワークを終え、ミツカンフォーラムに戻ってからは、参加者全員でフィールドワークの感想や非常時における川の利用について話し合いを行ないました。
具体的には、船上から見て印象に残った場所や気になった場所を各人発表していただき、その情報を共有するため、白地図に写真や付箋を貼り込みました。いろいろな感想がありましたが、皆さんからの感想は次のように要約することができました。
「こんなキレイな景観だったとは知らなかった」という感想が多く寄せられました。特に、JR御茶ノ水駅の聖橋をくぐると緑豊かな景色が広がり、駅のプラットフォームから見る印象とは全く別ものだったようです。また、小名木川の扇橋閘門付近の景色においても、美しいとの感想が多くありました。ただ、残念ながらこうした川辺の景観を楽しむことができるカフェやレストランなどがほとんど存在せず、せっかくの川の良さを楽しむことができないとの感想もありました。
また、「隅田川は水がきれいになってきたが、神田川や日本橋川の水は汚いため、カフェができてもコーヒーを飲む気分になれない」、「萬年橋近くに隅田川テラスのような場所があったが、ここは何も使われていなかった」、「隅田川も大阪の川と比べたら、まだまだ水辺の賑わいが足りない」といった感想もあり、川辺が賑わいの場所になるための課題も挙げられました。
防潮堤が高いため、人が川に近づきにくいと感じた人が多くいました。その中には、「防潮堤の高さは景観を損なうだけではなく、水害以外の災害時に川を活用する機会が失われてしまう」「陸から川が見えなくなることが、人々の川に対する意識の弱さにつながっている」という感想もありました。
また、「隅田川沿いの建物は川に向いており、その景観を享受しているが、神田川沿いの建物は川に背を向けている」という指摘もありました。非常時のことを考え、「川の景観という利益を享受できている隅田川沿いの高層ビルに勤務・在住している人には、非常時にはその還元として、避難者を快く受け入れてもらいたい」という意見もありました。
プログラムのまとめとして、進行を務めた中庭が総括を行ないました。
「共有地としてみんなで利用している場所を里山と呼ぶように、川もみんなで使い『里川化』しないと意味がありません。これを防災の文脈に当てはめるならば、平時から川を使い続けていると、いざ災害が起きた時に川を使って被害を抑えることができるかもしれません。そのような観点から川を見ると、もしかしたら、平時の使い方が災害時には被害を増幅してしまうような可能性もあるわけです。神田川には船が不法係留されている場所がありましたが、あれらは水害時に災害を増幅させる危険性があるのか、無いのか?平時から、常に川の具体的な利用について情報を明示し考えることが必要だと思います」。
水先案内人の難波さんに、全体のまとめをお願いしました。
「皆さんが川に関する感想を述べられた中に、"応援する"という言葉がありました。これまでは、住民と公の関係において、一方的に住民側が公に要求することが多かったと思います。お互いに応援し合いながら、地域の安全性や快適性を高めていく関係性を、両者の間に築くことができれば素晴らしいと思いました。」
今回の里川づくりワークショップは、東京における川の現状を理解するとともに、非常時における川の利用は、普段から川に親しむことが大切であることに改めて気づかされる、よい機会になりました。
※本報告は、難波匡甫さんの報告を元に、事務局がとりまとめたものです。