唱歌「春の小川」のモデルとして有名になった河骨川(こうほねがわ)は、渋谷川の一支流。歌詞に描かれたのどかな小川の風景は、山の手に広がる無数の谷筋を流れる小河川の典型的な姿でした。都市河川の暗渠化の背景にはさまざまな歴史的経緯があり、型通りの理由では説明がつきません。単に暗渠の蓋を開ければ都市河川の復活ができるわけではなく、背後にある事情と現状を正しく知ることが必要とされます。 第4回里川文化塾では、暗渠化河川の典型と見られている渋谷川を例に取り、実際に歩いてみることで、都市河川を里川にする糸口を見出そうと試みました。
東京大学総括プロジェクト機構
「水の知」総括寄付講座特任助教
中村 晋一郎(なかむら しんいちろう)さん
芝浦工業大学卒業、東京大学大学院修士課程終了。
専門は近代治水計画史および都市における河川再生論。
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館学芸員
田原 光泰(たはら みつやす)さん
東京都渋谷区生まれ。学習院大学大学院博士前期課程修了。
著書『「春の小川」はなぜ消えたか』(之潮2011)。
里川文化塾第4回は、「『春の小川』の流れをめぐるフィールドワーク」と題し、2012年2月5日(日)10:00〜17:00に開催されました。
開会に先立ち、水の文化センター長の宮崎真次から「情報発信の場を増やしたい、という思いで今年度からスタートした里川文化塾も、今回で4回を数えます。使いながら守る水の流れ、という里川の概念を普及させようとしています。懐かしい故郷の川に限定せず、都市河川や下水道も里川としてみていこうとしていますので、今日の渋谷川のお話には、とても期待しております」という挨拶がありました。
講師に中村晋一郎さん(東京大学総括プロジェクト機構「水の知」総括寄付講座特任助教)、ゲストに田原光泰さん(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館学芸員)をお迎えして、まずは〈ハロー貸し会議室Shibuya〉でレクチャーとガイダンスから始めました。
田原さんは生まれも育ちも渋谷で、職場の白根記念渋谷区郷土博物館・文学館まで徒歩通勤という筋金入りの地元人です。渋谷川への愛着が嵩じて、『「春の小川」はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史』(之潮 2011)を昨年5月に上梓されました。
「渋谷川ー古川は、全長約10kmで、天現寺橋より下流は古川と呼ばれ、渋谷川の上流部は穏田川とか余水川などと呼ばれていました。天現寺橋が境となったのは、ここがかつての東京市の内外の境界だったからです。
今でこそ大都会の中を流れる渋谷川ですが、江戸期の地図をみると、渋谷川は江戸と郊外の境界、古川は江戸の市街地内を流れていて、違う性質の地域を流れていたことがわかります」
「別名、余水川と呼ばれたのは玉川上水の余り水を流していたからで、渋谷川に多摩川の鮎が泳いでいた時代もあります。谷が浅い源流部では、大名の別荘に取り込まれ、庭園づくりに利用されました。水源の一つは新宿御苑の中にある玉藻池。江戸時代に高遠藩内藤家の中屋敷だった場所が1879年(明治12)宮内省(現・宮内庁)の管理になり、のちに新宿御苑となりました。水源を庭園に持つというのは、山の手の河川の一つの特徴です。
玉藻池は敷地が今も変わらず庭園として利用されたことから残されましたが、広島藩浅野家の下屋敷にあった鐙(あぶみ)の池は、表参道をつくる際に埋め立てられてしまいました。
天龍寺の弁天池からの流れも、玉藻池に入っていました。ですから、渋谷川の水源は、玉川上水と玉藻池、天龍寺の弁天池が主なものとなります」
「古川になる天現寺橋から下流は舟運利用もあって、川幅が広く、流れも緩やかです。それに引き換え上流部は、谷戸の中に幾筋もの小さな流れがあって、田んぼに使う用水路・排水路として利用されました。地図は省略されることがあるので、川筋が1本の線で描かれてしまう場合がありますが、実際は細い谷戸の中にも複数の水路がつくられて、1本は排水路、他方は用水路として使われることが多かったんです。
また、1909年(明治42)の1万分の1地形図を見ると、川沿いの分流の上や岸に建物が描かれています。これは水車小屋。当時、流域で生産された米や麦の精米・精麦に水車が活用されていました。現在、東急東横線ホーム下の東横のれん街になっている辺りにあった水車小屋でも、明治30〜40年代までは水を堰上げて水車を回していたんですよ」
「水源の一つに玉川上水がある、と言いましたが、三田用水からも水が入っています。1909年(明治42)の1万分の1地形図を見ると、今の渋谷区立鍋島松濤公園の池から上流にのびる川の先端は、途中で西側台地に向かって進路を変えています。この不自然な進路の先に直角に交わる直線状の水路が三田用水です。
複雑な地形の中で川の水を利用するために、安定的な水の供給を求めて、台地上を流れる上水・用水から水を引いたのです。こうした分水は水田の用水としてだけでなく、水車や大名庭園の池にも使われました」
「ところが明治になると東側台地から宅地化が始まります。末端の用水路は不要になって、埋め立て地が払い下げられるようになりました。一般的に『1964年(昭和39)の東京オリンピック開催を境に、河川の暗渠化が進んだ』と言われますが、実際には川の消滅の時期と理由はさまざまです。例えば、大正時代初期、千駄ヶ谷駅前の現・東京体育館の場所に屋敷を構えていた徳川宗家により千駄ヶ谷三丁目付近の支流沿いで、大規模宅地開発が行なわれ、河川は直線化され、昭和初期には一部が蓋をされています」
「宅地化が進むと、地下浸透させることで一時的に水を蓄えることができた田畑や森林が姿を消します。また、舗装されることで、地面の保水力はいっそう低下してしまいます。谷が深く、複雑に屈曲した支流を多く持つ渋谷川では、そうした要因による水害が多発するようになりました。そのために、大正に入ると水路を直線化する河川改修が進みます。古川では1925年(大正14)に、渋谷川の宮益橋から現・天現寺橋付近までの区間では1931年(昭和6)に改修工事が行なわれました。これにより、渋谷川はコンクリート三面張りの川になってしまいました。渋谷駅から上流の区間でも、1935年(昭和10)以降、改修工事が進められました」
「大正時代以降、宇田川でも渋谷川本川との合流付近(宮益橋)での水害が多発し、渋谷川からの逆流を防ぐために、宇田川を途中から分流させ、新たな水路を建設する計画が立てられました。しかし、そのころ既に渋谷駅周辺は地価が高騰していたため、新たな河川用地の取得が難しく、道路下に暗渠で水路がつくられることになりました。今、西武百貨店のA館とB館の間の道路の下に、宇田川の新設水路が流れています」
「河川を利用すれば、谷間の高低差がそのまま生かせます。ですから、河川を下水道として利用していこう、という計画が出されたのは必然だったのかもしれません。 1916年(大正5)の東京都市計画郊外下水道ではすでに多くの川が下水道として利用することが予定されていました。図で赤くなっているところが、明らかに河川を利用したとわかっている下水道です。ただし、この計画はなかなか実現しませんでした。ですから、1964年(昭和39)の東京オリンピックの際の暗渠化は、何十年も経ってそれがようやく完全に実現したということになります。ただし、図に描かれているように、大正時代の下水道計画では、渋谷川本流は蓋をする計画ではありませんでした。現在のように下水道の千駄ヶ谷幹線として蓋をされる計画に変更されたのは、戦後、1950年(昭和25)の東京特別都市計画下水道のときです」
「現在は清流復活事業で、並木橋付近から落合水再生センターの処理水が入れられていますから、そこより下流には水があるんですが、稲荷橋から並木橋の間にはほとんど水が流れていません。
渋谷川の水は、いったいどこにいったのか。稲荷橋の所から暗渠になった川を遡ると、渋谷川と宇田川の合流地点からもっと上流、現在の宮下公園の辺りから先では、下水道幹線としての渋谷川(千駄ヶ谷幹線)に、汚水も湧水も一緒になって流れています。稲荷橋で開渠になった渋谷川に、その水が流れてこないのは、コンクリートの堰で渋谷川下流部と分流されて、明治通りの下を通り芝浦水再生センターに運ばれるからです。ただし、大雨のときは下水道幹線に収容しきれない汚水が、コンクリートの堰を越えて渋谷川〜古川に流れ出します」
田原さんのガイダンスに続き、中村さんに、下水道化された渋谷川の複雑な時代背景についてお話いただきました。渋谷川の現状は、田原さんからご説明いただいたように、かなり複雑です。中村さんは、「もしも、この渋谷川を再生することができるならば、ほかの都市河川でも再生ができるのではないか」という野望を持っているといいます。
渋谷川はさまざまな切り口を持つ川ですが、中村さんには高度経済成長期に山の手の河川が一気に暗渠化したきっかけになった〈36答申〉からお話を始めていただきました。
「1909年(明治42)の地図と比較すると、78%の川がなくなっています。専門用語では、なくなった川のことを廃止河川といいますが、廃止河川には暗渠化と埋め立ての二通りあります。「暗渠化」は河川に蓋をすること、「埋め立て」は河川の中に管を埋めてその中に水を流す方法です」
「1961年(昭和36)10月に、〈東京都都市計画河川下水道調査特別委員会〉が開かれました。委員長の伊藤剛から東京都知事の東龍太郎へ調査報告書が提出され、それに則って東京都の中小河川の暗渠化を進めることが決定しました。ここで出された答申は一般に〈36答申〉と呼ばれています。私はこの委員会の議事録から、当時のエンジニアや関係者が、どういう考えの下で山の手の河川を暗渠化するに至ったか、ということについて研究を行ないました。」
「〈36答申〉は7項目からなるのですが、重要なのは1番と3番。1番では16河川が下水道幹線(暗渠)として利用する(一部もしくは全部)と指定され、渋谷川と古川もその中に含まれています。3番では、舟運などで特に必要な場合を除き、覆蓋することとし、詳細については技術的、経済的な面から検討して決定すること、とあります。図1を見ると、黄色の部分は暗渠になる予定だったのですが、現在は開渠になっています。その理由は、のちほど述べます」
「この議事録の中から、暗渠化を決定した重要な発言を抽出しました。当時の首都整備局長であった山田正男は、〈36答申〉における河川暗渠化の理由について、
『ふだん水の流れない、降雨時だけ水が流れる川、こういうものは私は市街地の中にあるべきではないと思うんです』と言っています。また、当時の下水道本部長は、『現在の渋谷川の流量と申しますのが、結局は家庭なり、工場の排水でございますから、(中略)現在流れている水そのものはいわば下水でございまして、(中略)現在は100%河川に放流されているというのが現在でございます』と述べています。これら発言から、①河川に水源がない ②河川へ汚水が流れ込んでいた、という渋谷川の当時の状況が理解できます」
「山の手台地は洪積台地で水が浸透しやすく、元来地表にはほとんど水がない地質です。それにもかかわらず渋谷川に水が豊富に流れていたのは、玉川上水からの水が入っていたからというのが一番の理由です。しかし、どれほどの水を玉川上水から取水していたのかは明らかになっていません。また、渋谷川流域に、湧水でできた池があるように、当時でもそれなりの湧水があったと考えられ、なぜ当時のエンジニアたちが、渋谷川に水源がないと判断したのか疑問です」
「東京都区部の人口と下水道普及率の関係を表わしたグラフを見ると、〈36答申〉当時は人口がピークに達しているにもかかわらず、下水道普及率は2割程度に留まっています。ですから、もう1点の検証課題である『河川へ汚水が流れ込んでいた』という点に関しては、事実だったと考えられます」
「また、議事録からは、当時、極端な河川観があったことが読み取れます。その一つとして、山田正男の発言を引用します。『(中略)最終段階としては、それは川でなければ全部下水である性質のもので、(中略)中川放水路とか、東京の場合せいぜい隅田川、荒川放水路級以外は(中略)下水管にすべき性質のものだ』。つまり、中小河川はすべて下水道である、と言っています。こういう極端な川への意識は首都高速道路経過地の土地利用状況にも表われています。同じ時期に建設された首都高の36%が河川の上につくられています。つまり、当時は、河川は水辺空間としては見られておらず、単なる用地としてしかとらえられていないことが、この数字からも伺えます。このような、当時の極端な河川観が、河川の暗渠化の判断に含まれたことは注視すべき点です」
「では、当時の渋谷川は法的にいうとどのような位置づけだったのでしょうか。1947年(昭和22)で都市河川(四谷〜一の橋)と運河(中之橋から下流)として認められた渋谷川は、1950年(昭和25)四谷〜宮下橋が下水道幹線となったことで、昭和36年当時は、渋谷川が川なのか下水道なのかはっきりしない存在になっていました。その法的認識をはっきりさせたのが〈36答申〉なんです」
「下水道は、自然流下で処理場まで汚水を流した方が効率的であり経済的で、日本のほとんどの下水道が自然流下方式で汚水を処理場に運んでいます。ですので、中小河川を下水道に転用した場合、河川の勾配が緩くなる地点からは,自然流下で処理場まで汚水を流すことができず、そこからは標高の高い所に下水管を敷いて処理場まで汚水を流す必要が出てきます。そうすると、上流から流れてきた水はすべてその下水管のほうに流れてしまい、その地点から下流はまったく水が流れない河川、つまり〈残存河川〉が発生します。委員会の中で最も問題となったのは、この〈残存河川〉をどうするかという点でした。つまり、水が流れていない河川が河川と言えるのか? という問題です。委員会の中では,残存河川の処理の方法として三つの案が提案され、その中で残存河川を暗渠化して雨水渠として利用することが決定されました。この決定の下、下流側の暗渠化工事が開始された矢先、築地川埋め立て計画に対しての住民反対運動が起こりました。この暗渠化反対運動を受けて、当時の建設省と東京都が協議して『原則として中小河川の新たな埋め立ては行なわない』という方針が出されました。渋谷川下流も、36答申では暗渠化されるはずでしたが、この築地川埋め立て反対運動によって、開渠が守られたといえます」
「現在の渋谷川下流には、水が流れています。宮下公園辺りで下水道が芝浦水再生センターに分流されているために、本来であれば宮下橋より下流には水が流れていないはずなのに、なぜ水があるのか。それは、東京都の清流復活事業として、並木橋付近から落合水再生センターの処理水を流しているからです」
「現在、いったん暗渠化された河川を再生しようという動きが、あちらこちらで出ています。その象徴的なケースが韓国のチョンゲチョンです。チョンゲチョンも、高度経済成長期に首都ソウルの人口増加と交通量の増加のために1954年(昭和29)から20年かけて、暗渠化及び高速道路が建設されました。それを現韓国大統領のイ・ミョンバク大統領がソウル市長時代に、大規模な河川再生事業として実施しました(2003年〈平成15〉〜2005年〈平成17〉)。チョンゲチョンも渋谷川と一緒で、水源がない。それで近くを流れる漢江の水や地下鉄から出る湧水を流しています」
「チョンゲチョンでは、このほかにもさまざまな工夫があります。洪水時に増えた水を受け止める〈洪水用水路〉もあります。ちなみに、〈洪水用水路〉は2005年(平成17)には1年間で33回活用されています」
「都市にある川として、河川管理者は安全の確保も求められます。そのため24時間の監視体制がとられています。また、ボランティアスタッフによるメンテナンスも行き届き、景観に配慮された橋や施設も設けられており、水辺空間としては大変素晴らしい事例だと思います。しかし、このような手法で再生された河川が本当に河川と呼べるのか? 私は疑問に思います」
「では、渋谷川を再生するにはどうしたらいいのか。私は、河川再生に向けたいくつかのヒントがあると思っています。
まず一つ目が、下水道方式の問題です。渋谷川の上流部は暗渠化され合流式下水道となっています。下水道形式には二通りあって、合流式下水道ともう一つは分流式下水道です。合流式下水道の長所は、工期が短いこととコストが安く済むこと、そして下水道敷設のスペースが不要、ということです。ですから、分流式下水道はそれと比較してなかなか都市部では採用されにくかったわけです。また、合流式下水道だと、雨水や湧水も汚水と一緒に流れてしまうという、大きな問題もあります」
「二つ目は、現在、渋谷川に流れている水は、渋谷川流域に降った雨だけではなくて、生活用水としていろいろな河川から引っ張ってきているということです。それを正しく認識する必要があります。つまり渋谷川の目の前の汚水渠をどうするかと考えるだけではなくて、他流域を含めた大きな水システムの中で、渋谷川がどういう位置にあるのかということを意識して見ないと、渋谷川を再生するのは難しいのです。
また、問題を解決して河川再生に真摯に向き合おうと思ったら、まずは降雨をどう利用していくかも鍵になると思います。今は下水と一緒にして、全部流してしまっているわけですから。これを有効利用したら、どれぐらいの生活用水、河川へ流す維持用水をまかなえるのかという、正確な評価をしなくてはなりません。
また、地下水・湧水も、結構あるはずなんです。しかし、その量は誰も把握していません。そもそも、目の前で起きている現状への理解がまだまだ足りないということです。だからまず、その地道な評価から始める必要があります。
渡部春奈さんや私の同僚である村上道夫さんたちの研究は、以上のようなことを示唆する上で、重要な成果だということで紹介します」
「この図は、降水等の自然な水循環系と、都市活動による人為的な水循環系を比較できるように、取水量や排水量などを都市面積で割ってmm/year単位で表示されています。
この図をみると、1467mmの降雨があり、そのうち438mmが蒸発し、906mmが雨水流出となっています。つまり、渋谷川の場合もおおよそこれだけの量がそのまま下水道へと流れてしまっているわけです。それにも関らず、ほかの流域から1810mmの水を持ってきて私のたちの水を補っている。渋谷川流域の場合、多摩川や利根川などから水をもってきています。渡部さんたちは東京だけでなく、ほかの都市についても同様の研究をされています。私たちは、このような現状をまず認識して、その上で都市河川をどう再生するかについて議論しなくてはならない、と思います」
「都市河川再生をどう考えるか、という私の考えを申し上げて、みなさんが渋谷川を歩いたあとに感想をうかがいたいと思います。
①川は、人(社会)と自然の結節点です。現在の河川の姿は『長い歴史を通して河川に加えられてきた人間の行為が積分されたもの』(高橋裕さん)ですから、人間活動が濃密に繰り広げられてきた都市の中の川は、より一層、その積分値が大きいはずです。その結果として、都市河川をめぐる水循環は、目の前の川の姿だけでは収まらなくなっています。
②水は高い所から低い所に流れます。元来、その川が持っていた地形を読み解くことが川の理解には不可欠で、それの地形的特徴を生かすことが持続可能な河川再生の第一歩、と考えます。
この二つの視点を頭に置きながら、実際にフィールドに出て川の姿を見て頂けると、より一層、渋谷川への理解が深まると思います」
昼を挟んで、いよいよ実際の川を体感するフィールドワークです。
落合水再生センターの処理水が流れ込む渋谷川の並木橋から出発し、下水道化して暗渠になる稲荷橋を通り、支流の宇田川新水路を遡って、水源の一つである松濤公園へ。そこから再び宇田川の上流を目指し、途中で支流の河骨川に折れて、第2会場である国立オリンピック記念青少年総合センターに到着。万歩計は1万2000歩を越え、一行は心地よい疲労感に包まれていました。
小休憩ののち、当センター客員主幹研究員の中庭光彦の司会で、情報交流会を行ないました。参加者全員に簡単な自己紹介と1〜2分ずつの感想・コメントを述べてもらいましたが、渋谷川をはじめとする、都市河川の未来についての貴重な意見が出されましたので、中村さんと田原さんの回答と併せて紹介します。
・渋谷川は暗渠河川の象徴のような存在で、NG河川と決めつけていたが、見方が変わった。
・灌漑用水としても、水車の動力としても、活用された川だったことがわかった。
・地形を見ると、谷戸の川であり、人間の手を加えようがない部分が多い。
・相当深く浸食しているが、これほど小さい川がこんなにも深い谷を浸食するものなのだろうか。不思議に感じた。
・春の小川を取り戻そう、という掛け声がノスタルジックなところで留まってしまう恐れを感じてきたが、今日は現実を知ることができてよかった。
・渋谷川一帯を、どうしたら再生できるか、具体的な目標が提示できるようになったらいい。
(中)河川の再生には流域住民の合意形成が大切だが、渋谷川の場合、川の両岸が商業施設に囲まれているので、渋谷川沿いの人々の多くが、そこに住んでいるわけではないし、そして何より他の川と比べて年齢層が若い。一般河川とは違う特殊な事情がある。
(田)渋谷川がメディアで取り上げられるようになって、事実と違う紹介のされ方をすることが気になる。これから川を考えていく上では、正確に川をとらえる必要があると思って本まで書いてしまった。
・韓国のチョンゲチョンも、かつては、たくさんの小河川からの流入があった。今、それらはすべて埋められてしまって消えている。チョンゲチョンを今日のやり方で検証したり、東アジアの都市河川の比較研究も面白いのではないか。
・暗渠になるのに、ずいぶん多様な理由と時代背景があることを知り、驚いた。三田用水の場合、周りが宅地化したことで、水の汚染を恐れた用水利用者の日本ビールが蓋をしたことが暗渠化の主な理由。しかし、これ以前に既に7カ所で蓋をされていたことがわかっている。その理由を調べてみたい、と改めて思った。
・36答申のころは、自分の住んでいる所に近かった隅田川も、大きなどぶ川と化していた。今日は、単純に蓋を開ければいいというわけにいかないことがわかった。
(田)河川回復の素材である渋谷川自体が、どのような経緯で今の姿になったのかを、正しく知る必要がある。どのように蓋を閉じていったかと同じように、どのように蓋を開けていくかという手順が大切。
(田)子どものころから、唯一身近にあった川なので、自分にとっては一番リアルな川である。暗渠だということが当たり前だったから、稲荷橋の所で開渠になって姿を現す渋谷川を見て、「川の上流というのはこんなもの(蓋をされている)だ」と思ってきた。どんな川がベストな里川か、というのではなく、自分の思い出が一番リアルな里川なのではないか。
・設計事務所で仕事をしているが、雨水排水、雑排水、汚水排水は分けて設計する、ということが厳しく求められる。それなのに下水道が合流式になって、ごっちゃにされているというのが、ちょっと信じられない思いだ。今からでも分流式にしようという計画はあるのだろうか。
・親水空間を広げていく環境用水の話だと思って来たが、渋谷川のことは、要は河川の問題ではなくて下水道の問題なんだ、ということがよくわかった。
・川、と表現しているが、蓋を開けて中身を見て臭いを嗅いだら、「これは川ではなく下水なんだ」とわかるはず。そこを知って、そこから議論を始めないと、孫子の世代、100年後の子孫に対して申し訳ないと思う。
・実施された当時はベストチョイスだった〈合流式下水道〉だったのだろうが、今の時代にあってはワーストな話になっている。すぐにはできなかったのだろうが、〈分流式下水道〉にしてくれていれば、東京湾にゴミのボウルが流れ着くこともなかった。今からでも、100年後を見据えて長期ビジョンをつくっていかなくては。
・広域下水道には問題がある、と仲間たちと言い続けてきた。生放流だから、洪水時には処理場のキャパシティを超えて、汚水と雨が混じってあふれてしまう。目黒川が氾濫したときも、五反田の商店街にこの汚水があふれた。経済効率だけではなく、衛生上の問題なども含め、解決していかなくてはならない。
・「長い時間がかかっても、方向転換をしていこう」という合意形成が必要。
・チョンゲチョンの再生は、川の再生ではなく、ある意味、人工的な公園づくりだったと思う。本来の川の機能とは何か、ということを考えないといけないとわかって、勉強になった。
・本来の川の機能に、〈下水道的な機能〉を加えてもいいのだろうか。疑問に思う。
(中)実際に東京都区部の一部、そして多摩地域では分流式下水道が採用されているし、最近では合流式下水道改良の試みも始まっている。
・1950年代のことを覚えている世代として、小さい支川クラスの流れがたくさん残っていて、それらが汚れていって蓋をされた、ということも実際に見てきている。郊外の水路の再生を考えたとき、今日は象徴的な存在の渋谷川から多くのことを教えられた。
・川が、時代ごとの人とのかかわりで姿を変えていくことを知り、興味深く思った。
・時代背景によって、姿を変える川の歴史を知り、都市を見る視点が少し変わった。
・土地の歴史を知る、ということの大切さを痛感した。今後は、見えないものをどう伝えていくかが課題となるのではないか。
・都市河川再生といっても、そのプロセスが大事。韓国のチョンゲチョンのように、あまりに短期間にやってしまうと歪みが生じる恐れもあるのでは。
・里川は〈健全な水循環〉をしている水の流れ、とはいうものの、そこに人がどうかかわるかによって、事情が変わっていくのではないか。
・人口減少に伴って、河川の姿を何らかの形に変えることが必要である。そう考えた人が主張していけば、政策転換をして本来の姿に戻していけるんだな、と実感した。
・松濤地域の宅地開発は、当時の農村地帯に新たな河川の利用を促した。つまり農村に住まうという田園都市の思想を持つことで、土地と水の利用が変えられたと思う。
・チョンゲチョンは高速道路の高架を取り払って、川を再生したそうだが、いったい幾らぐらいのコストがかかったのだろうか。下世話な話だが、気になった。
・〈箱庭的な水路再生〉という事例では、北沢川と烏山川がある。元の河川を下水化して暗渠化した上に、水路をつくって落合水再生センターからの処理水を流している。チョンゲチョンまでいかなくとも、日本にもこうした事例が身近にある。
・都知事選で、東京の川の再生を公約にするようになったら素晴らしい。
・練馬の白子川の改修に際し、どうしたら良いかという話を東京理科大学の鈴木信宏研究室が行ない、具体的な絵に描いた。理屈は同じなので、渋谷川でも頑張ってほしい。
・川を下水道化して、暗渠の上に処理水を流し緑道にした例をよく見かける。親水空間として、不動産価値も上がっているようだが、渋谷川ではそういう計画はないのか。
・地元に高度処理水を流している川があるが、息子と友だちがその水を飲んでしまったことがある。キャンプに行ったときに、山奥の川の水などを一緒に飲んできたので、息子にとっては見た目にきれいな水は飲める水だと判断したのだと思う。やはり、お腹を壊した。やはり、川を本質的に変えていかないと、子どもたちの水や川への認識が歪んだものになってしまう気がする。
・3・11以降防災意識が高まったが、そこで気づいたのは〈ハード〉と〈ソフト〉がまったく分離されているということ。川の再生もハード面に視点が向きがちだが、実はソフトこそが大切だということがわかった。
・仕事で住宅づくりにかかわるうちに、外構(外回り)の大切さを意識して里山に興味を持ち、そこから里川につながった。スイッチを入れると電気がつくとか、蛇口をひねると水が出る、という〈当たり前〉なことを、根本から考え直さなくてはいけない時代になった気がする。
(中)目指すべき完成形をどこに設定するかが、難しい。まずは水源をどうするか。今は落合浄水場の処理水を持ってきているのだが、湧水が意外とたくさんあるので、それをうまく利用できないか。合流式の下水道に流れ込んでいる湧水をどのように分離して、自然の状態での水循環をいかに回復するか。それができたら、本当の意味での河川再生(河川の機能の回復)なのかな、と思う。
(田)川だけを見るのではなく、地域全体の活動の中で川の個性を検証していくことが必要。
(中)チョンゲチョン再生事業に幾らかかったか、正確な数字はすぐに上げられないが、このときのソウル市長はチョンゲチョン再生を公約に掲げて当選した。多額のお金がかかるとわかった上で、市民がこの人を選んでいる、という点が興味深い。
この意見に対して、会場から「結果的には周辺の地価が上がって、治安もよくなった。トータルで考えれば、もとを取っているのではないか」という意見が出された。
(中)河川の機能を考えたときに、表流水が地下に浸透することも、水循環を成立させる上でも必需であると考えている。護岸はともかく川底は地下浸透できるように土に戻していく。それが実現されることも、河川の再生にとって重要なのではないだろうか。
・東京の山の手に素晴らしい川がたくさんあったのは、湧水のお蔭。その湧水が今どうなっているかについて、調べてみたい。
・渋谷川の水源の一つが湧水、もう一つが玉川上水とうかがった。もし蓋を開けるという話になった場合は、このことも視野に入れたほうがいいのでは、と思う。
・玉川上水の水が結構入っていたようだが、どの程度、入っていたのか。
(中)当時のエンジニアがなぜ水源がないと言っていたかは、大きな疑問だ。玉川上水の水を再び渋谷川に落とすのも、渋谷川再生の有効な手段かもしれない。
(田)当時、玉川上水はとても貴重で、しばしば取水制限もされていた。そんな玉川上水を、大量に入れることは不可能だったと考えるので、それほど入れていなかったのではないか。
・中村さんが提示された「東京の水循環」に、大変共感した。東京ではこんなに雨が降っているのに、利用されていない。非常にもったいないことだ。
・自分が蛇口をひねって使う分、流す分しか考えたことがなかったが、〈水のネットワーク〉という新たな発想をいただき、視野が広がった。
・〈水の行方〉を考えないと、川の在り方は根本的には変わらないと思った。
(中)やはり、河川再生を考えるには本川だけでなく、水路や小さな小川の役割も理解しなくてはいけないと思う。周辺の水のネットワークの中での渋谷川であり宇田川であったわけだから。
(中)36答申当時、上水がまず敷設されて、下水道はなかった。したがって、使った水はそのまま川に流れていたから、恐らく、川はひどい状況だっただろう。それを見た当時のエンジニアが、「これはほとんど下水だろう」と判断したのではないか、という仮説を立てている。したがって、渋谷川の再生を考えるには、ほかの流域の水資源開発がどうだったのかとか、水利用と絡めて考えないといけない。
・川をメインに歩くことが、こんなに面白いとは思わなかった。まち歩き・川歩きを流行らせたいと思う。
・普段何気なく歩いている道の下に、川が流れていると知っただけで、気持ちが変わった。そういう事実を知った上でまち歩きをしたら、まちを見る上で新しい価値を生み出すのではないか。
・昭和60年代(1985年〜)に築地川埋め立て反対運動を行なった当事者として、この運動が期せずして渋谷川の開渠部分を守ったことを知り、うれしく思った。
・里川というと地方の美しい川、と限定して思われがちだ。中村さんと田原さんが生まれたときには、渋谷川は既に汚くてひどい状況だったと思うのだが。都市河川の象徴のような渋谷川に、お二人がなぜ興味を持ったのか。不思議に思った。
(田)今までは、川といえば下町の川が中心だった気がする。山の手の川にきちんと触れている川の本も見かけない。これを機会に、山の手の川にも注目してほしい。
(田)「なぜ川が好きになったか」という質問は何度もされるが、なぜ好きかを説明するのは難しい。川に興味を持ったきっかけは、川の痕跡を道路に見出したことかもしれない。高校一年生のときに、初めて一眼レフのカメラを買って、はじめの1本目のフィルムで撮ったのが渋谷川。渋谷川の上流から下流に向かって、橋を一つひとつ撮っていった。玉川上水や目黒川、神田川にも足を延ばしたので、渋谷川だけに興味があったわけではないと思う。
最後に、中村さんから都市河川再生の試金石ともなり得る渋谷川のこれからについて、考えを話していただきました。
「渋谷川にほかの流域から水を持ってきたことによって流域内の汚水が増えて、それによって当時のエンジニアが『渋谷川に流れている水はすべて汚水だ』と思ったのではないか、というのが私の仮説です。私たちの生活が、〈ほかの流域から水を持ってくることで成り立っている〉ということをまず強く認識する必要があると思います。当時は、首都東京の経済成長を支えるために、水資源開発もそうした発想で進められてきたわけです。しかし、果たしてその発想がこれから先も同じように通用するのかというと、これから人口が減少しますしライフスタイルも変わっていますから、私は通用しないのではないかと考えています。ですから、目の前の川だけではなくて、流域を越えた水循環、そして人と水のつき合い方を考え直すきっかけとして、渋谷川は重要な問題提起をしていると思います」
渋谷川の再生は、暗渠の蓋を開ければ済む問題ではなく、広域な水収支、下水道処理といった多くの問題を含んでいることを教えられた一日でした。私たち一人ひとりが根本から考え直して、「川との暮らし方」の舵取りを変えることが、渋谷川をはじめとする都市河川再生の鍵を握っていると気づかされました。
(文責:水の文化センター編集部)