里川文化塾

第6回里川文化塾 龍と亀 投げかけ

中華世界において、いかに黄河の占める意味合いが大きいかを物語る言葉に治黄(ちこう)があります。治黄すなわち黄河の治水に奔走した潘季馴(はん きじゅん)と陳★(ちん こう)、■輔(きん ぽ)の治水術を紹介しています。

蜂屋邦夫さんの投げかけ1

明清の治黄問題

 治黄(ちこう)という言葉は、黄河の治水を指す言葉です。こういう用語が、中国にはちゃんとあるんですね。黄河は、とにかく暴れ川で、河道が何度も変わっています。だいたいは、下流は北東のほうに流れるのが普通の道筋でしたが、東南のほうに流れて淮河(わいが)と合流してしまった時期もあります。

 明代と清代は、だいたい黄河の下流は南に流れ淮河に合流するという道筋でした。1397年(明の洪武30)から1431年(宣徳6)には10回も氾濫を起こし、1565年(嘉靖44)には、とうとう堤防が決壊してしまいました。島谷先生がお話された明代は、黄河の歴史でいうと困難な問題を抱えている時期でもあったわけです。

 これは、隋の時代に完成した黄河と長江を結ぶ大運河が、洪水によって使えなくなってしまった、という問題でもあります。運河が使えないと、江南の米や農産物が北のほうに届かないという切羽詰まった状況になります。そのときに潘季馴(はん きじゅん 1521〜1595)という人が責任者となって黄河を治めたのです。黄河があふれて河道が変わり淮河に流れ込むようになったのですが、その際、川筋が幾つも分かれ、分散して淮河に入るという状況でした。そうなると流れの勢いが弱くなりますから、運ばれてきた土砂が堆積しやすくなります。そのため天井川となって氾濫が起きるとなかなか解決できないという状況になってしまうのです。

 それで潘季馴は分散した河道をまとめました。中国人はスローガンのように書くのが上手なんですが、それを「築堤束水、以水攻沙(堤を築いて水を束ね、水を以て沙を攻める)」と言っています。しっかりした堤防をつくって河道を1本にまとめ、水の勢いで土砂を流しさる方式です。

 潘季馴は、しっかりした堤防をつくるために、いくつかのスタイルを考案しています。昔からある、河に沿った普通の堤防は縷堤(ろうてい)といいます。また離れた所に遥堤(ようてい)をつくりました。そして縷堤と遥堤の間を格堤という堤防で仕切りました。格堤は河に直交する角度のものです。こうした間仕切りをつくっておけば、もしも縷堤が決壊しても格堤にぶつかり、縷堤に適宜作ってある減水★(ばい)【土+貝】から、また河に戻り、氾濫水が長距離にわたって河の外に別の流れをつくることが防げます。

 潘季馴はまた、河の流れが強く当たる箇所に二重堤防として月堤という半月形の堤防をつくりました。このように四つの堤防をつくって、黄河が氾濫しないように治水を行ないました。

 潘季馴は、上流や中流の状況まで考えた治水対策をしなくてはならない、という優れた提言をした人なんですが、政府にとっては水運の機能さえ回復すればいいわけで、潘季馴の提言は聞き入れられることはありませんでした。

 潘季馴の黄河改修は、結局、中途半端で終わったことになります。潘季馴の事業の後は、堤防の維持もなおざりにされました。黄河が分散して淮河に流入していたならば、それほど大きな力はかからなかったでしょうが、1本化したため水流が強く、堤防の手入れもろくになされないのでは、結局、黄河はまた氾濫して元の状態に戻ってしまったのです。四種の堤防の図は、昔の私の論文から取りましたが、潘季馴の『河防一覧』の図に基づいています。

 清代には、陳★【三水+黄】(ちん こう 1637〜1688)という河川技術者が活躍しました。彼は、1677年(康熙16)に河道総督に就任した■【革+斤】輔(きん ぽ 1633〜1692)の下で働きました。

 潘季馴は河道を合わせる方法を取りましたが、陳★は増水時には分流させて水の勢いを殺ぎ、平時は合流させて沙を攻める、という方策を編み出しました。さらに陳★は、測水法を発明しました。上流、中流、下流の流れをちゃんと観察して、流量と流速の調節をして全体のバランスを取りました。陳★の方策は彼の『河防述言』に載っています(『■【革+斤】文襄公治河方略』所収)。

 しかし、明代と同じように政府はあくまでも運河が無事に機能すればいいのですから、治水のための経費を惜しみました。経費がなくては治水事業はできませんから、陳★は■輔と相談して、治水によって安定した土地に農民を住まわせ、新田を開発させました。これが見事に当たって、一面が素晴らしい畑になったといいます。

 こうなると、今度はそこに群がる悪い官僚たちが登場します。彼らは、■輔らは民衆を煽動して黄河を我が物顔に私物化している、と訴えました。■輔たちも上奏して闘ったのですが、結局、多勢に無勢で負けてしまいました。目先の利益しか考えない官僚たちは治水の問題など眼中にありませんから、しばらくすると、黄河はまた暴れ河に戻ってしまいました。

  • 図10

    図10
    出典/『河川レビュー』68号(新公論社 1989年発行)「古代中国の『水』の思想」に掲載した『河防一覧』(潘季馴)をもとに編集部で作図

  • 図11

    図11
    出典/『河川レビュー』68号(新公論社 1989年発行)「古代中国の『水』の思想」に掲載した『河防一覧』(潘季馴)をもとに編集部で作図

  • 図10
  • 図11

島谷幸宏さんの投げかけ1

蜂屋さんの発表から、荒川の横堤は潘季馴が考案した横堤と同じ働きを持つものだ、という気づきがうながされました。また、2011年(平成23)に起きたタイの大規模な水害に対する対応にも、水のエネルギーを分散する〈亀技術〉の発想が見直されていることが紹介されました。

黄河の格堤が荒川の横堤に

 今の蜂屋先生のお話をうかがって、いくつかわかりました。潘季馴が考案した格堤は、関東にある荒川にもありますね。荒川に横堤という堤防があるんですが、まったくそっくりです。

荒川の横堤
北吉見から戸田市の彩湖南端部間で、左岸(さいたま市側)に14、右岸(志木市側)に12、計26カ所に築かれた。最初に完成した3カ所は、1929年(昭和4)着工。
近代治水以前、堤防は洪水から守らなければならない村などを囲むように築いた。荒川中流域には大規模な雑木林を水害防備林とした歴史があり、地域全体が遊水機能を果たしていた。横堤は、川を直線化し連続堤を築いたことで低下した遊水機能を補うためにつくられたといえる。

 横堤の骨格は江戸時代につくられているのではないでしょうか。きっと、蜂屋先生が提示された絵図を見たのでしょう。

 武田信玄の霞堤も、機能としては、格堤が斜めになって端が開いたものとみることができます。急流なので、あふれた水をいったん抜いて戻さないとならないので開けているのです。この絵図を見た人間が、日本の自分の領地に合ったやり方に応用していったのではないか、という気がしてきます。

 また月堤も日本にありますね。日本では月堤と言いません。遊水地と言っています。月堤はまさに遊水地の機能を果たしているんです。成富兵庫もたくさんつくっています。加藤清正がつくった桑鶴(くわづる)の轡塘(くつわども)も月堤からの発想でしょう。これも一部開口部がある。霞堤と一緒です。

桑鶴の轡塘
加藤清正が多用した洪水軽減方法で、河道内遊水装置としての役割も果たす。桑鶴の轡塘は、緑川と御船川の合流部に築造され、河川は平常時は本塘の中を流れ、増水したときに遊水池が水を蓄え、周辺への出水を押さえる。

 名治水家といわれる武将たちは、大変優秀です。当時は城をつくったり、堀をつくったりということを毎日のようにしていましたから、こういう図版を見てものすごくイメージが湧いたんだと思います。今の技術者よりもずっと想像力が膨らんだだろうと思います。日本につくられた治水施設とあまりに似ているのでビックリしました。

 もう一つ、ビックリしたのは、中国に行くとだいたい400年前からの水利データがある、と言われます。「中国4000年の歴史の内のたった400年だよ」と言われるんです。蜂屋先生のお話をうかがうと清代からデータを取っていたということなので、誇張でもなんでもなく本当のことだとわかりました。

 なるほど、この時代から営々と計り続けていたわけですね。「水位計を見せてくれ」というと連れて行ってくれます。倒れそうになっていたりして、全然正確じゃなかったりするんですが。

 お話をうかがっていくと、必ずしもすべてが〈疏方式〉というわけではなく、状況に応じて組み合わせていたということもよくわかりました。

 もう一つわかったのは、「水を持って沙を攻める」という発想です。日本でもそうですが、水と沙が一体として考えられている。スナという字も、石偏ではなくてサンズイを使っているというのは、水が減るとすなが溜まる、ということを表わしているんでしょうか。考え過ぎでしょうか。とにかく、いろいろ触発されます。

(蜂屋)
 私は荒川の生まれなんですが、子どものころ「ここは非常に水が出る所で、昭和の初めごろまでは大変だったんだ。しかし赤羽のちょっと手前の岩淵に水門をつくったことから水害がなくなったんだ」と聞かされて育ちました。
 荒川は、今は隅田川と名前を変えて、荒川放水路を荒川と呼ぶようになりましたから、荒川区が荒川に面していない、ということになってしまいました。

図12

図12

タイの大洪水

 タイで大きな洪水が起きたことは、みなさんもご存知だと思います。タイでは王様が「治水はモンキーチークのやり方で行ないなさい」と指令を出しました。猿は頬っぺたの中に食べものをたくさん溜め込むらしいです。ですから早く流す治水ではなくて、流域全体でゆっくり水を溜めるような治水をしなさい、という意味です。それでチャオプラヤー川全部に大きな堤防をつくってしまうのではなくて、洪水を流域全体に薄く流す、というやり方に転換しました。ウォーターウェイ、水の道といって、水深数十cmで幅何kmもあるようなあふれさせ方をするそうです。

 オランダと日本のどちらが支援するか、という話でしたが、被害を受けたのはほとんど日本の企業だったので、日本が災害復旧をしています。

 工業団地は輪中堤防(守りたい所を囲むタイプの堤防)をつくって、川の流れはエネルギーを分散させるようにしています。こうした発想も、今まで近代河川工学的なやり方から、一歩、転換した感じがします。

蜂屋邦夫さんの投げかけ2

中国では2500年前の水利施設が、手を入れながら、現役で使い続けられています。そこにはリスクと恵み(治水と利水)の両方が統合的に考えられていて、水のエネルギーを分散する〈亀技術〉が価値を持っていました。▲ショウ水十二渠(しょうすいじゅうにきょ)/都江堰(とこうぜき)/鄭国渠(ていきょくきょ)/霊渠が、例として紹介されています。

▲ショウ水十二渠のエピソード

〈▲【三水+章】水(しょうすい)十二渠〉というのは、魏の文侯(紀元前5世紀末ころ)の時代に▼(ぎょう)【業+邑】の県令となった西門豹(せいもんひょう)という人がつくりました。▲(しょう)水というのは黄河の支流で、山西省の南部を流れる川なんですが、氾濫を起こしたりする暴れ川だったようです。それで黄河の神様である河伯を鎮めるために、毎年美しい娘を川に投げ込んでいたんですね。それで▼(ぎょう)の人たちは戦々恐々としていました。

 そこに県令となった西門豹がやってきたのですが、恒例の儀式のときに「本当に河伯がこの娘を気に入るかどうか聞いて来い」と言って、巫女の老婆を川に投げ込んでしまいました。当然、巫女は帰ってきません。そこで今度は「もしかしたら言葉が通じないのかもしれない」と言って、有力者を次々に川に投げ込みました。

 それで一同はびっくりして恐ろしくなったのですが、西門豹が「こういう悪弊は今後やめるように」と言って納得させた、というお話です。

 西門豹は人を生け贄に捧げるのではなく、ちゃんとした治水事業を行なって十二渠をつくりました。十二渠は治水だけではなく、もちろん利水のための水路として役立ちました。

秦代の水利施設1 都江堰

 四川省の省都は成都ですが、成都の中心部から北西へ58km行った山岳地帯の入口に都江堰(とこうぜき)があります。

 都江堰は、紀元前250年ころに秦の蜀郡の長官に任命された李冰(りひょう)によってつくられました。(編集部注:もとは灌県(かんけん)といったが、世界遺産に登録されたのを期に、都江堰市と改名された)

 李冰は人工的につくった中州の先端に魚嘴(ぎょし)という魚のくちばしのような形の水利施設をつくり、岷江(みんこう)の流れを二つに分けました。西側の外江と呼ばれるほうが本流で、東側の内江(灌江)と呼ばれる水は、玉壘山を切り開いた宝瓶口(ほうへいこう)を通って農業用水として活用されます。この運河の水を岷江左岸の乾燥した成都平原へ流すことで、それまで水不足に苦しんでいた成都平原は水田や桑畑などが急速に広がり、水運も便利になりました。以来、四川は「天府之国」と言われるようになりました(編集部注:都江堰は現在でも5300km²に及ぶ面積の灌漑に活用されている)。

 内江の土砂は、飛沙堰(ひさえん)によって溜まらないように工夫されています。飛沙堰は、内江に水が殺到して成都平原が洪水にならないように、内江から外江に余分な水を戻す仕組みでもあります。余った水が越流するように、低くつくられています。同時に、宝瓶口の前に渦ができ、その力で土砂や石が外江に向かうように設計されています。

 飛沙堰には、長い竹籠の中に沢庵石のような丸い石を詰めたものが、水に押し流されないように工夫して積み上げられています。竹籠の長さは今は10mぐらいですが、昔はもっと長いものをつくったようです。人が石を背負って運んでいますが(写真19)、ここに限らず山の上に何かをつくるときも、このように、いわゆる苦力(クーリー)が資材や道具を運びます。このようなやり方は中国のように人が多くないと成り立ちませんね。

 内江の水を運河へ導く宝瓶口は、玉壘山の断崖を鑿(うが)ち開いた幅20mほどの狭い導水口で、運河へ入る水の量を調節しています。宝瓶口によって切り離された玉壘山の西端は、独立した小さな山のような形になりましたから、離堆(りたい)と呼ばれています。離堆は、そう意識して見るとまさに亀ですね。まあ、中国人がこれを亀と意識して見ているかどうかはわかりません。もしもこれが亀だったら、新たな発見ですね。

 内江の水は大部分は宝瓶口の中に導かれ、入りきれない水は離堆にさえぎられて飛沙堰を越流して外江に戻ります。

 このように都江堰は、水を分けるための魚嘴(写真20、図15)、土砂の排出と余水戻しのための飛沙堰(写真18)、水量調節のための宝瓶口の三つで構成され(図14)、改良や補修を加えられながら、2300年後も現役で使われている古代水利施設です。こういうものを李冰が一代ですべてやったわけではありませんが、一応、李冰の業績だということになっています。実際には李冰は工事の完成を見ることなく亡くなって、息子の二郎が工事を引き継いで完成させたといわれています。

 これ(写真20、図15)は、◆【木+馬】槎(ばさ)という装置で、流れをさえぎるのに臨時に使われます。◆【木+馬】というのは馬、槎は筏という意味です。木を組み合わせてつくりますが、幾つかが下部でつながっています。

 都江堰ができる前は、岷江の水は玉壘山にぶつかって、雪解け水が殺到する春などには洪水が起き、逆に成都は水不足、という状態でした。それで成都に水を送る水路をつくろう、と考えた人がいたのです。李冰よりも前の時代に、そうした事業がすでに行なわれていたようです。

 四川というのは土地が肥えているんですね。陝西の宝鶏から汽車に乗って南下しますと、四川に入った途端に土の色が違ってきます。陝西の黄色っぽい土から黒い土に変わるのですね。ですから水さえあれば、豊かな収穫が見込めるのです。今でも「天府之国」という言葉は四川の代名詞として使われています。

  • 都江堰地図

    図13 都江堰地図
    出典/四川省水利電力庁都江堰管理局編『都江堰』(水利電力出版社 1986)

  • 都江堰全景

    写真17 都江堰全景
    出典/四川省水利電力庁都江堰管理局編『都江堰』(水利電力出版社 1986)

  • 土砂の排出と余水戻しのための飛沙堰

    写真18 飛沙堰

  • 水量調節のための宝瓶口の三つで構成された都江堰

    図14 都江堰示意図

  • 竹籠に石を背負って運ぶ人たち

    写真19 竹籠

  • 流れをさえぎるのに臨時に使われる◆【木+馬】槎(ばさ)

    写真20 ◆【木+馬】槎

  • ◆【木+馬】槎構造示意図

    図15 ◆【木+馬】槎構造示意図

  • 都江堰地図
  • 都江堰全景
  • 土砂の排出と余水戻しのための飛沙堰
  • 水量調節のための宝瓶口の三つで構成された都江堰
  • 竹籠に石を背負って運ぶ人たち
  • 流れをさえぎるのに臨時に使われる◆【木+馬】槎(ばさ)
  • ◆【木+馬】槎構造示意図

秦代の水利施設2 鄭国渠

 もう一つ、水利施設をご紹介しましょう。

 鄭国渠というのは紀元前3世紀半ばぐらいに、鄭国という人が秦のために西の涇水と東の洛水を結ぶ潅漑用水路としてつくりました。総延長が150km以上あります。洛水は河南にもあるので、陝西の洛水は北の洛水と呼ばれます。

 じつは鄭国は韓のスパイだったんです。韓は戦国時代の国の一つです。秦に直面している国ですので「真っ先に滅ぼされるのは自分たちだ」と、脅威をひしひしと感じていたのです。それで水利技術者の鄭国をスパイとして秦に派遣して、秦を疲弊させるために大用水路の工事に着手させたのです。

 ところがこの工事が半ばに差し掛かるころ、鄭国がスパイであることがわかってしまったんですね。秦の王さまはかんかんに怒ったのですが、鄭国は「これが完成すれば秦にとって、大変有用な用水路になる」と言ったんです。今すぐ鄭国を殺したって、秦にとってなんのメリットもありませんから、完成するまで生かしておくことにしました。

 完成したら、鄭国の言葉通り、大変な利益になって秦の国力がグンと上がりました。そのために韓は、多少早く滅ぼされてしまったんですが。結局、鄭国は、これだけの用水路を完成させたということで、讃えられて遇されました。用水路も鄭国の名をとって鄭国渠と名づけられました。まあ、それだけの話で、水路としてはあまり特色のある話ではありません。

都江堰全景

図16 鄭国渠略図
出典/武漢水利電力学院ほか編 『中国水利史稿 上』(水利電力出版社 1979)

秦代の水利施設3 霊渠

 三つ目の霊渠は、水路としてももっと面白いものです。湘江は北上して長江に注ぎ、漓江は南下して海に注ぎます。湘江と漓江は離れているのですが、上流に行くと、わずかな距離しか離れていないんですね。それで秦代に37kmの水路を開削して、湘江と漓江を疎通させました。諸説ありますが、だいたい紀元前219年に開鑿を始め、紀元前214年に完成したとされています。霊渠の主要施設は南渠と北渠、分水の★【金+華】嘴(かし)から成り立っています。

 この水路ができたお蔭で、海から漓江へ船で入っていくと、霊渠を通って湘江に抜け、長江に行かれるようになりました。当時の物流は、舟運が基本ですから、霊渠は大変活躍したのです。

 湘江の上流からきた水は、鍬の先っぽのような★嘴(かし)に当たって二つに分かれます。一方は北渠を通って湘江にいき、もう一方は南渠を通って霊河にいきます。★嘴(かし)に当たる水位が高くなると、水は★嘴(かし)に続く大小の天秤や南渠の泄水天平を越流して湘江故道に流れ落ち、やがて北渠に合流するという仕組みになっています。このようにして霊渠の水位を一定に保っています。

 絵図に泄水天平、大天平、小天平といった文字が見えますが、天平というのは越流機能を持った堤防のことです。

  • 霊渠

    図17 霊渠
    出典/武漢水利電力学院ほか編 『中国水利史稿 上』(水利電力出版社 1979)

  • 霊渠示意図

    図18 霊渠示意図
    出典/武漢水利電力学院ほか編 『中国水利史稿 上』(水利電力出版社 1979)

  • 霊渠
  • 霊渠示意図

島谷幸宏さんの投げかけ2

約400年前につくられたと推測される九州・秋月の女男石は、河川の流路固定と旧河道を利用して用水路へ配水するための水利施設。水を直角に構造物にぶつけて勢いを削ぎ、利水は入口を狭くしておき、洪水のときの余分な水は本流に返す仕組みが採用されていて、中国・都江堰との類似性が極めて高いことが説明されました。

秋月の女男石(めおといし)

 すごいですね! 秦代の水利施設ですか。★【金+華】嘴は、武田信玄の将棋頭とまったく同じですし、余水吐きをたくさんつくるというのは成富兵庫もよくやっています。共通する技術ですね。

 先程見せていただいた◆【木+馬】槎は、日本でいうと三叉という水制工で、奈良時代につくられていました。これが発展すると聖牛(ひじりうし・せいぎゅう)になります。

 秋月の女男石はまったく有名じゃない水利構造物なんですが、埋められてしまう、という話が出て、朝倉市の文化財課の人から「どれぐらい重要なものか見てほしい」と頼まれて出かけていきました。

 道路を拡幅するので、この女男石の場所を埋めるという話が持ち上がっています。地元の人は「道路を広げてくれとは言ったけど、女男石を埋めろとは言っていない」と、ビックリして相談してきたのです。今、調整中ですから、多分残されることになるでしょう。

 福岡には『筑前国続風土記附録』という本があって、古い絵図がたくさん残っています。そこには秋月の女男石の絵図もあって、水の流れが波立っている様子が描かれています。この波立っているところがポイントなんです。なぜなら、この下に大きな岩(亀)がいっぱいいてエネルギーを消散しているからです。これは典型的な〈亀技術〉。最近、そう思って見るようになりました。周囲に植わっている竹は、水害防備林でしょう。

 かつて、小石原川と秋月川は長谷山で合流し、急流に勢いがついて注いだため、この辺りでは洪水の被害が絶えませんでした。秋月黒田藩初代藩主 長興は、洪水に悩む住民の訴えを聞いて治水事業を行ないました。女男石は、家老の堀平右衛門が1620年代に構築したと推定されます。

 扇頂部の治水の要点は、河川の流路固定と旧河道を利用した用水路への配水です。つまり治水と利水、リスクと恵みを分ける。その分けるのが亀の役割です。有名なのは山梨の信玄堤や万力林ですが、女男石も類似のもので、扇状地の扇頂部につくられた構造物とみていいでしょう。

 女男石より下流の扇状地面において、小石原川は南側に寄せられ、一方、用水路は扇状地の北面に沿って流下させています。

 湾曲して流れてきた小石原川を女男石にぶつけることで流路を曲げて、水が扇状地面の北部にいかないようにしています。併せて右岸沿いに巨石を配置して、洪水時の激しい水の流れをぶつけてエネルギーを消散させています。水をぶつけて刎(は)ねるだけではなく、水中に底荒籠(そこあらこ 現代でいえば根固め水制工)を配置して勢いを削いでいます。このために波だっている様子が絵図に記されているわけです。これも亀です。

 女男石に洪水を正確にぶつけるためには、左岸側の流れの処理、さらに上流の左右岸側を強固にすることも重要です。絵図には大きな岩を対岸に配している様子が見られ、また下流に荒川井出と呼ばれる堰があったこと、天保年間に書かれた望春随筆に三重の護岸であることなどが記されていますが、現在ではわからない状態になっています。おそらく掘れば、女男石と一連の水利構造物が出てくるでしょう。

 佐賀の石井樋との類似性も高く、同時代の成富兵庫あるいは加藤清正と何らかの交流があった可能性もあり、北部九州の近世初期の治水技術を考えるうえで重要な治水遺構です。

 石井樋にしても女男石にしても、都江堰との類似性は高いですね。水を直角に構造物にぶつけて勢いを削ぐ工法が採用されています。また、利水は入口を狭くしておき、洪水のときの余分な水は全部、本流に返す仕組みです。

 武田信玄の技術も似ていますが、甲州は地形勾配が急なので、形が変形していてパッと見にわかりにくいかもしれません。

 中国の治水の本は見ているでしょうね。技術者は必ず勉強しますので。成富兵庫が模型実験をしている、ということが書き残されたりしていますから、かなりのことはやっていたはずです。

  • 秋月の女男石

    図19 秋月の女男石

  • 女男石 図解

    図20

  • 女男石

    写真21

  • 底荒子?川底においた減勢装置

    写真22

  • 秋月の女男石
  • 女男石 図解
  • 女男石
  • 底荒子?川底においた減勢装置

上流の川づくり ステップ&プール

 最近では何でも亀に見えてきて、今、上流の川づくりをやっているんですが、上流部の渓谷というのは巨石で成り立ったステップ&プールになっています。大きい岩が絡み合って、そこから水が落ちていきます。

 自然の渓流は今言ったようにステップ&プールになっているのですが、河川改修をするとだいたいこのようになってしまいます(写真24)。ここは、天孫降臨(てんそんこうりん)伝承の天の眞名井(あまのまない)がある神代川です。

天孫降臨
天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと 邇邇藝命とも)が、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話。
筑紫の日向の高千穂に降臨したが良い水がなかったので、天村雲尊(あまのむらくものみこと)に命じて、高天原(たかまがはら)から三つの水の種をもらってこさせる。くし觸峯(くしふるたけ)西方近くの藤岡山の麓、神代川のほとりに置かれた一つを天の眞名井という。

 そんな歴史がある川なのに、こんな風になってしまった、ということで地元の人は大変ガッカリしています。ここもやはり改修してほしいと頼んだらこうなってしまって、「こんな風になるとは想像もしていなかった」と言っていました。ここも復元しようとしています。

 今では、もう少し自然な川づくりをしていこうとしています。やはり巨石を残す、亀を残すことがポイントなんです。大きな岩を置けば、石が寄ってきてステップができてきます。〈亀技術〉は環境のためにも非常に有用です。

〈亀技術〉というのは、流れを遅くしたり、エネルギーをぶつけたり、消散したり、分けたりする技術です。治水と利水を分離するために、いろいろ工夫してきたのが〈亀技術〉なんです。ところが近代科学では、洪水処理は洪水処理の技術で河川工学という名前になった。利水は農業用の技術で農業土木という名前になって、技術が分離されていった。それで〈亀技術〉が絶滅しそうになってきているんです。

 とにかく水を速く流そう、という技術とは一線を画している〈亀技術〉を、もっと見直さなくてはいけないと思います。

  • 巨石で成り立ったステップ&プールになっている上流部の渓谷

    巨石で成り立ったステップ&プールになっている上流部の渓谷

  • ステップ&プール 図解

    ステップ&プール 図解

  • 天孫降臨(てんそんこうりん)伝承の天の眞名井(あまのまない)がある神代川

    写真24

  • 巨石で成り立ったステップ&プールになっている上流部の渓谷
  • ステップ&プール 図解
  • 天孫降臨(てんそんこうりん)伝承の天の眞名井(あまのまない)がある神代川

蜂屋邦夫さんの投げかけ3

亀は玄武。そのもとになった中国の星座〈北方七宿〉(ほっぽうしちしゅく)と五行思想(ごぎょうしそう)について、解説がなされました。また、文献に見られる例として、『礼記』(らいき)「礼運」(らいうん)、『荘子』「秋水」、『山海経』「北山経」、『龍生九子』、『尚書』「洪範」、『広雅』という辞書の「釈魚(しゃくぎょ)」の項、『管子』「水地」が挙げられました。

中国における亀と龍

 さて、いよいよ亀と龍なんですが、実は、よくわからないんですね。残念ながら。とにかくわかったところまでをお話しましょう。

 亀は別名〈玄武〉とも呼ばれます。中国の星座でいうと〈北方七宿〉(ほっぽうしちしゅく)に割り振られます。

北方七宿
中国の星座では、月が27・5日かけて天球を1周するとき、一晩に一つの〈星座=星宿(せいしゅく)〉を割り振って〈二十八宿〉とした。西洋の星座が、太陽が12カ月かかって動く黄道を12等分したものであるのに対し、二十八宿は七つずつ四つのグループに分けて(つまり七宿)、東、北、西、南の四つの方位に割り振っている。
各方位には五行思想に基づいて四聖獣が割り振られ、東は青竜、北は玄武、西は白虎、南は朱雀。それで玄武が司るのは北方七宿となる。現在では秋の星座の領域。

 玄武の武のほうは鎧(よろい)を着ているという意味で、亀の姿を表わしています。玄は、くねくねしたものという意味で、実は蛇なんですね。ですから玄武の図というのは、亀に蛇が絡んだ形で表現されます。

 五行思想によって玄武が配当される北は、水に関係します。色は黒です。ですから亀のイメージというのは、〈北〉〈黒〉〈水〉と通じると認識されているのです。

 さて、それでは玄武が文献上、どんなところに書かれているかといいますと、儒教の経典である『礼記』(らいき)「礼運」(らいうん)に「麟(麒麟のこと)・鳳・亀・龍、之(これ)を四霊と謂う」とあります。つまり麒麟、鳳凰、亀と龍の四つが霊妙な生きものである、という意味です。

 伝説上の麟は、世の中が平和でないと現われないとされ、吉兆とされます。鳳凰も同じ。亀はそうしためでたい伝説上の生きものと同等に扱われているということです。麟と鳳と龍は実在しないわけですが、亀だけは実在します。そこがまず不思議です。

 亀にはいろいろな表記があって、神亀と言った場合は亀の甲羅が意識されています。亀の甲羅を使って占いをしましたから、非常によく当たる甲羅を神亀と呼びました。『荘子』「秋水」にそういういい方が出てきたり、『大戴礼』(だたいれい)「易本命」に「甲蟲三百六十、神亀を之(これ)が長と為す」と書かれています。「甲羅のある生きものは360もあるけれど、神亀はその長だ」という意味です。

 また『山海経』「北山経」には龍亀という言い方が出てきます。堤山(ていざん)という山についての記述に「堤水焉(ここ)に出で、而して東流して泰沢(たいたく)に注ぐ、其の中に龍亀多し」とあります。堤山からは堤水という川が流れ出ていて、東に流れていき泰沢に注ぐ。そこには龍亀が多い、という意味です。それについての現代の注には「龍種亀身。水中の大型動物」とあります。つまり、亀と龍は一体ととらえられているんですね。

 ちなみに堤山というのは特定される実在の山ではなく、北方のほうの山、というぐらいの意味になります。そもそも『山海経』は、「どこそこには1本足の人間がいる」とか「腹に穴のあいた人間がいる」とか、そういう類いの話が延々と書いてあるので、事実を記(しる)したというよりは、象徴的な話と思ったほうがいいのです。ただ、堤山は北方ですから黄河水系の山、と考えることはできます。

 このようにいろいろな亀があるんですが、少し特殊なものに贔屓(ひき)があります。日本では「ひいき」と読んで後援者や被後援者を表わしますが、「ひき」は龍の子です。龍には九種の子どもがあり、贔屓はその内の一つです。龍の子どもですが、龍にはなりません。あるいはなれない、と言ったほうがいいのかもしれません。龍から生まれた九種の子どもは、各自好むところがある、といい、「贔屓は平生、文を好む。今、碑の両傍の龍は是れ其の遺像なり」と言われています。贔屓は常日ごろ文を好む。今でも石碑の両側に龍の飾り彫りをすることがあるが、それはその名残である、という意味です。文というのは模様とか飾りということです。

 明の楊慎という人が著した『龍生九子』という書物があって、それには「贔屓、形は亀に似て、好んで重きを負う。今、石碑の下の亀趺(きふ)、是(これ)なり」と書かれています。贔屓は形が亀に似ていて、好んで重い物を背負う。今(明代)、石碑の下に亀の台があるのが、それである、という意味です。ですから、中国で亀の上に禹王が載っている像がありましたが、あれは亀ではなくて贔屓なんですね。

 まあ、挙げていけばいろいろあるんですが、治水の問題と絡めてどんぴしゃりのことはまだ見つかっていません。

 ですが、水と関係する記述は『尚書』の「洪範」に見えます。天帝は禹が治水事業をするにあたり、〈洪範九疇(こうはんきゅうちゅう)〉を与えました。洪は「大いなる」、範は「法(のり)」、九は「九洲」とか「九天」のように全世界の意味、疇(畝で区切られた田畑)は「類(たぐい)」の意味で、〈洪範九疇〉とは世界中のあらゆる事象を整理し体系化した大いなる法典ということです。ここからカテゴリーに相当する意味を持った〈範疇〉という言葉もできました。

 禹が治水に成功して、非常にめでたいことが続いたあるときに、洛水(こちらは河南省のほうの洛水)から亀が出現しました。その亀の背中に、1から9までの文(模様)があった、といわれています。これがいわゆる洛書といわれるものです。

洛書
古代中国における伝説上の瑞祥。同等に扱われる河図(かと)と合わせて、儒教において、八卦や洪範九疇の起源と考えられている。

 1から9までの文は3行3文字で、いわゆる魔法陣です。というわけで、亀と治水の関係は、まだ闇の中です。

 では龍はどうなのかというと、甲骨文字に既に龍の字があります。古代中国では、龍は水を司り雲雨を興せる霊獣であるとか、天に居たり水中に居たりとか、いろいろな種類がいるが黄龍が長であるなど、さまざまな記述があります。黄色というのは中国思想では一番大事なものですから、黄龍が長になるのでしょう。

『山海経』中には、応龍と燭龍が出てきます。燭龍というのは鍾山の神で、目を開けると世の中が明るくなって目をつぶると暗くなる、というので、太陽とか月とかいうものを象徴した存在です。応龍というのは翼がある龍です。

 漢代には、日照りのときの祈雨に土龍を使った、とあります。龍には水神としての性格があります。昔は水神は河伯(黄河の神様。伯は長男という意味)だったのですが、仏教流入以降には龍王に変わっていきます。

 仏教に龍王の思想がくっついて伝来したようです。インドにもそういう思想があったのでしょう。それで龍王は雲を興し雨を降らせる力がある、とされ、だんだんと河伯の立場を奪っていきました。

 唐宋以降は、道教も龍王信仰を吸収することになりました。道教は何でも取り入れるのが得意ですから、龍王信仰というのが道教の一つになってしまったんですね。それで「およそ水有る所、すべて龍王あり」という思想が広まって、小さい所について言えば家で使う井戸にまで龍王が祀られました。大河川の両岸には龍王廟が林立しています。

 水がある所には、龍王廟のほうが多いのですが、禹王廟もたくさんあって、この二つが水神の象徴となっています。

 もう少し辞書的な説明を加えますと、三国時代の魏(3世紀)にできた辞書である『広雅』の中に「釈魚(しゃくぎょ)」という篇があり、「鱗有るを蛟龍と曰(い)い、角有るを★(きゅう)【鼈、以丱代敝】龍と曰い、角無きを★(ち)【蛇、以多代虫】龍と曰う」と書かれています。角のない龍も500年経つと角が生える、という説明もあります。500年生きて見届けたという人は、いませんから、真偽のほどはわからないんですが。

『広雅』が書かれた時代には、水神としての龍王が定着しているわけではない、ということは考慮しなくてはなりませんが、「釈魚」に入っているわけですから水には関係していたことがわかります。

 もう一つ、『管子』「水地」には、「龍は水に生まれ、五色を被(こうむ)りて游ぶ、故に神なり」とあります。五色というのは文字通り読むと色が五つあるという意味ですが、五行思想から考えると「すべて」を表わします。さまざまな色の龍がいたことになります。「ゆえに神なり」は霊妙な能力を持つ、という意味です。「水地」の説明は、さらに続き、大きくなったり小さくなったり、高くなったり低くなったり、上ったり下ったり、自由自在であるということが書かれています。

 龍にはまた、化身して天子になったり偉人になったりする、という側面もあります。ですから天子(皇帝)が龍であるという認識はずっと受け継がれてきています。龍の模様がある服は天子しか着られません。偉人が龍であるという考えもあって、例えば老子は龍にたとえられています。

 だいぶ探してはみたのですが、現段階で私がみなさんにお話しできるのは、この程度のことになります。

中国河南省・孟門山「大禹應龍神亀雕塑」

写真25 中国河南省・孟門山「大禹應龍神亀雕塑」(写真提供/大脇 良夫さん)



ページトップへ