里川文化塾

第6回里川文化塾 龍と亀 質問タイム

Q「木曽三川に輪中というものがありますが、亀と関係がありますか」

A島谷:
 輪中はもともとは尻抜け堤なんですよ。

 低湿地の中にできた自然堤防などの微高地に人が住み始めた場合、肥沃な土と豊かな水が確保できる代償として、川の増水による水害に悩まされることになります。そのため居住地や耕作地を取り囲むように堤防を築きますが、完全に囲ってしまうと取水にも排水にも不便なため、下流側が開いた馬蹄形状の堤防をつくることになります。これを尻抜け堤とか尻無し堤と呼びます。

 しかし、次男坊とか三男坊とか増えてくると自然堤防の上以外にも家を建てるようになって、それを守るために開口部を塞いでぐるりと堤防で囲うようになります。それが輪中堤。ですから、輪中堤は本来、締め切ると水はけが悪くなるという不都合が起きます。輪中堤の上流端の締め切った所で水が湧き、そこをガマと呼びます。

 尻抜け堤はかなり古くて、鎌倉時代末期まで遡れます。輪中はおそらく江戸以降。う〜ん、亀ではないんじゃないですか。

Q「霞堤は分水のための施設ですか」

A島谷:
 霞堤という言葉がいつごろできたか、ということは、非常に論争の的になっています。霞たなびくような堤防、ということで不連続な堤防を霞堤と呼びます。

 さて、霞堤には2種類あります。一つは急流霞堤。機能は二つあります。一つは、堤防の下流端で流路を固定しています。もう一つは、堤防が破れたときに洪水の流れを再び川に戻す、すなわち背後の堤防で守る、という機能です。勾配が急なので不連続の開口部から水が出ても、それ以上あふれることはありません。支川の水を流れやすくするとか、いったん氾濫した水を戻す、というメリットがあります。

 一方、緩流霞堤の場合、水はずーっとあふれていきます。これは何のためにあふれさせるのでしょうか? 教科書では「下流を助けるために」と書いてあります。そんなこと誰も認めません。だって、自分を犠牲にして人のために、なんていう治水は認められないでしょう。そうではなくて、あふれるときに水を逆流させて土砂を堆積させる。平野の霞堤は、沃土を堆積させ、耕作地を豊かにするためにつくるんです。家は高い所にあるから、不都合はないんですね。しかも、堤防が壊れたときもすでに、堤防の裏側に水がたまっていすから大きな被害にはなりません。

 もちろん、ここでいったん水を受け止めますから、下流の洪水も防げます。堤防が切れても、重なり合った外側の堤防がサブの働きをします。

 緩流霞堤は、氾濫させて沃土を堆積させるのが一番の機能です。その次に、下流の洪水を防ぐ。急流霞堤は開口部から氾濫することはないので、氾濫戻しが一番の機能です。

  • 図22

    図22 A流路固定

  • 図23

    図23 B洪水調節

  • 図24

    図24 C支川排水

  • 図25

    図25 D氾濫水を河道に戻す

  • 図22
  • 図23
  • 図24
  • 図25

Q「霞堤は日本独自のものですか。中国にはありますか」

A島谷:
 確かなことは知りませんが、僕は中国にもあると思います。先程の〈格堤〉とか〈遥堤〉と組み合わせて使えば、霞堤の機能を安全に活用することが可能ですから、河川技術の思想からいっても当然あると思います。ただ、見たことはありません。

 ヨーロッパにはありません。なぜかというと稲作がないので、氾濫させて土砂を溜める必要がないからです。ヨーロッパの人が見に来て一番驚くのが霞堤です。

 ナイル川は霞堤じゃなくて、格堤に近いです。中国では、「瀦(ちょ)」といっているようです。

 エジプトは年間降水量が5mm程度ですから、洪水のときに水を溜めるんです。ここに溜まった水は地下浸透していきますが、それを灌漑用水のように利用して作物をつくります。氾濫水を格堤のようなもので閉じ込めて、長く利用する。ここでは沃土だけでなく、水も運んでもらうわけです。

Q「黄河断流の最上流部はどの辺りですか」

A蜂屋:
 今までの記録でいえば、河口から700km、開封の辺りまで干上がってしまいました。

(島谷)
 えっ、ここまでで700kmもあるんですか。しかも、それが全部干上がってしまうんですね。

(蜂屋)
 河川の流量と、途中で利水でとられてしまう流量を計算すると、干上がっても仕方がないな、と思えるような状況です。

 昔、黄河が淮河(わいが)のほうに流れていたときの旧河道を〈黄河古道〉とか〈廃黄河〉とかいいます。そこが今も窪地として残っているんですね。水は流れていませんが、幅の狭い湖のような状態で残っています。開封の辺りを歩きますと、結構、そういう跡が残っています。

図26

図26

Q「黄河下流に支川はありますか」

A蜂屋:
 平地に出ると天井川になってしまいますから、支川はないです。

Q「鄭国渠の交差部はどのようになっていたのでしょうか」

A蜂屋:
 確かな記述がないので、よくわかりませんが、多分、立体構造にしたと思われます。

(島谷)
 サイホン技術というのは、中国でいつごろからあるんでしょうか。

(蜂屋)
 中国の水利史などを調べれば載っているのでしょうが、ちょっと、今は即答できません。

(島谷)
 日本だと1611年(慶長16)にできた、佐賀の松浦川の馬頭(うまんかしら)が一番古いサイホンだと思います。これも成富兵庫がつくったものです。

(蜂屋)
 ただ、鄭国渠の場合は、河川を跨がなくても交差点のようにしても構わなかった。平面交差の可能性もあります。その場合は閘門の設置が不可欠ですが、当時そうした技術があったかどうかには疑問も持たれています。

(島谷)
 中国では、平面交差はよく見ますね。勾配がない土地だと、平面交差でいいんですものね。

Q「黄河に関するお話が多かったですが、長江のことを調べるのにお勧めの本はありますか」

A蜂屋:
 私は中国畑ですので、知っているのは中国語の本ばかりで、ご紹介できるものが思いつきません。『長江大事典』(王傑ほか編/武漢出版社 1997)には膨大な研究や歴史がまとめられていますが、中国語の本なのです。

(会場から、古賀河川図書館の古賀 邦夫さんが発言)
 長江に関する本は十何冊かありますので、どうぞご利用ください。古賀河川図書館のHPで、世界の河川という項目から入って調べてみてください。

Q「〈かわ〉の字ですが、サンズイの河と江戸の江、水を使う場合、三本線の川と使い分けのルールはありますか」

A蜂屋:
 今日の話は、神話伝説の時代から春秋戦国といった非常に古い時代の話が中心でした。この時代には、河と江は固有名詞だったんですね。河は黄河、江は長江(揚子江)を指します。したがって河水と江水といういい方はありますが、〇〇河とか〇〇江とはいいませんでした。

 ところが漢代の初めぐらいに〈黄河〉という呼称ができた。そうすると河水ではなくて黄河という名前のほうが普及するのです。そうなると、河というものが一般名詞化してくる。それによって、場合によっては河をつけて、〇〇河と呼ぶようになる。

 三本線の川は、文字通り水が流れている所ですから、狭い川でも幅広い川でも流れていれば川。概念としては一番広いのです。河のほうは、元を正せば黄河ですから、やはり広い河を意識して使ったのでしょう。

 江水を長江と呼ぶようになったのがいつごろからかは知りませんが、これも長江という名前がついてから江が一般名詞になって〇〇江というようになりました。

 この件に関しての南北の違いというのは、あまりないんじゃないかと思います。

Q「黄河と長江で水意識に違いはありますか」

A蜂屋:
 いやあ、水意識という言葉を使ったのが、まずかったですね。これは曖昧な表現で、具体的に何を指すのかはっきりしませんから。だから、中国人の水に関する概論だ、と最初に申し上げたのですが。

 まあ、中国人が黄河と長江に抱く想いという点でいえば、明らかに違っているでしょう。黄河は長江の20分の1ぐらいの水量しかないんです。ですから黄河が氾濫するのは恐いですが、むしろ氾濫して長引くのは長江のほうです。

(島谷)
 黄河流域は降水量も少ないですから、長江流域が稲作地帯なのに対して、黄河はそうではない、という点でも、ずいぶん違っているのではないですか。

Q(会場から)「黄河は政治の川、長江は経済の川、と聞いたのですがいかがですか」

A蜂屋:
 三峡ダムもできて、まさにそのイメージにピッタリですけれどね。ただ、黄河は長江の20分の1ぐらいの水量しかないし、船で遡っていく、といってもできないのですね。船で通れる区間は限定されています。ですから経済的メリットとしては、長江のほうがずっと上です。

Q「治山治水の律令で、中国と日本で違っているものはありますか」

A島谷:
 わかりません。多分、一緒だと思いますが、わからないとしか言えませんね。

Q「ダム直下の川内川で、2度もあんな水害が起きたのはなぜですか。原因はなんですか」

A島谷:
 原因は大雨です。人間がつくった構造物なので、ある程度までしか対応できないのです。ダムの設計容量以上の雨が降ったら、あふれても仕方がないんです。

 本当は河川改修というのは下流からしていくのが原則なんですが、あそこは珍しい中流ダムです。中流にダムがあるから上流の治水ができる、という面もあるのです。しかし、あのときは1日で800mmという異常な降り方でしたから防ぎきれなかった。

Q「霞堤や戦国時代の治水技術は、明代の技術が伝わってきたものなのでしょうか」

A島谷:
 伝わってきた、と思うのが自然なことだと思います。それに、今の私たちが考える以上に、日本と大陸、半島との人的交流は頻繁だったと思います。

 明の国が徐々に乱れてきた段階で、優秀な技術者のヘッドハンティングは当然あっただろう、と思います。国同士は争っていても、人民の交流は続いていたと思います。しかも、書物は伝わってきますよね。

(蜂屋)
 日本に残っていたら、スゴいですね。

(島谷)
 勘合貿易(日明貿易のこと。許可証である勘合(勘合符)を使用することからこう呼ばれることもある)のときのリストとかに残っていたらすごいですよね。

 加藤清正は明の技術者を雇っていた、という話もあるんです。ただ、ちゃんと書いた記録を私自身は見つけることができていません。

Q「都江堰の技術を伝えたのは、茨田堤(まんだづつみ 4世紀に仁徳天皇が淀川沿いに築かせたとされる堤防)や葛野大堰(かどのおおい 嵯峨や松尾などの桂川流域を支配していた秦氏が、6世紀頃に築いたとされる堰堤)同様、秦氏ではないでしょうか」

A蜂屋:
 秦氏が日本にきたのは5世紀ですか。中国の戦国時代に社会が乱れて、中国人が日本にまで逃げてきたということも考えられますが、3〜4世紀だと民族大移動の時代に当たります。民族ごと移動して、移動先にいた民族をまた押し出しますから、非常に広範囲に大きな変動があった時代です。

 ですからそういう人たちが来た、と考えてもおかしくないですね。ただ、そういう人たちが技術者だったかどうかはわかりません。

A島谷:
 7世紀になると、金田の城(かねたのき 飛鳥時代に対馬国に築かれた朝鮮式山城)のような、立派な石積み技術が成立します。これらは古墳の技術と非常に似ています。そこには百済系の技術が入っていると言われます。土を突き固めるのも版築の技術。こうしたところには、当然、中国の技術が影響しているはずです。技術者集団がいたことは確かですが、誰がやったかということはわからない。今も、技術者と政治の動きはあまり関係していませんから。

 成富兵庫の日記を読むと、日本中に行っていることがわかります。成富兵庫ぐらいの技術者になると、あちこちからしょっちゅう呼ばれる。今と同じですよ。民間交流というのは、盛んだったと思います。名古屋城や大坂城、江戸城の築城や都市開発にかかわっている。これらは、日本の技術を発展させるのに寄与したと思います。日本中の技術者があそこに集まって普請をしたので、技術が拡散した。

Q「成富兵庫と伊賀の西嶋八兵衛は出会ったことがあったか」

A島谷:
 わかりません。成富兵庫はご子孫がいて、日記だけじゃなくて書物もたくさん残っていますから、調べてみてください。佐賀の人は、ものすごく残すんで。

 僕らも日本中の主な技術者と交流がありますので、当時も同じだったと思いますよ。

Q「治水も利水も必要だが、利水は利己的になりがち。また、現代技術は50年スパンで考えられ、昔の技術が忘れられているように思うが」

A島谷:
 利水は思っている以上に、公平に分配することを目指して実行してきた歴史があります。水争いが強調していわれますが、結局は解決しているんですよ。争ったことよりも、解決していることが重要なんです。争わなくても済むようなルールをものすごくつくってきたんです。譲り合い、妥協、順番のやり繰りなどなど、今は黒と白しかない世界なんですが、当時は灰色の世界をいっぱいつくったんです。貸し借りも、そう。返してもらえないかもしれないけれど、一応貸しておく。そういう形の合意形成の仕方を、日本人は持っていた。

 それは2500年も前から稲作をやって水を分配するルールを開発してきたから。

 新しく水を開発した人は、前から使っている人たちの権利を侵さないように配慮する。それがトラブルが激しく起きるようになったのは、藩の成立からです。藩ができて藩境で争いが起きる。

 一番極端なのが九州の矢部川という川で、廻水路というのがあって、右岸から入ってくる水は全部下流の堰で受け止めて全部右岸に持っていく。左岸から支川が入ると、全部堰で受け止めて全部左岸に持っていく、つまり、自分の領地に降った雨は、全部、自分の領地で使う。いったん川に入った水も、元に戻すんですよ。これもトラブルの回避、合意形成の結果なんです。

 ですから、実は治水よりも利水のほうが、こうした合意形成を図ってきた、ということを覚えておいてほしいと思います。

 洪水防御をしようとするようになったのは、案外、あとのことなんです。防御できるだけの力がないとできませんから。それまでは、あふれる所には住まないとか、あふれたときに壊滅的な打撃を受けないようにするとか、田んぼも分散して持つとか。洪水を防御するよりも、危機回避の技術が進んでいたわけですよね。リスクを受けるのが前提、という技術だったわけです。

 これからは人口も減りますから、リスクの多い所から、なるべく撤退していく。あるいは、被害を受けても軽減するような工夫をする。これが〈亀技術〉だと思います。

Q「登竜門という言葉がありますが、鯉と龍には何か関係がありますか」

A蜂屋:


 黄河が陝西省と山西省の間を南下してきて、秦嶺(しんれい)山脈にぶつかって東へ流れる地点の少し北側に、龍門という瀑布があります。そこを鯉が遡上しようとして成功すると龍になる、という伝説があったんでしょうね。

 それと後漢の末ぐらいに、李膺(りよう)という人望の厚い儒家の豪族がいて、李膺に才能を認められたら、将来有望と見なされたため、李膺の門下生になることを「登竜門に上った」と表現するようになりました。ですから、李膺のことがあったために、登竜門という言葉が一人歩きしたのだと思われます。

Q「島谷先生が紹介された那珂川の絵図に龍と亀を発見しました」

A島谷:
 えっ、気づきませんでした。用水路が龍なのかなあ。のたうち回っていますよね。もっと調べてみます。



ページトップへ