蛇口をひねれば水が飲める。用を足したら水洗できる――。ふだんその存在を気にもとめない上下水道ですが、地震などの災害が起きて使えなくなると、かけがえのないありがたさに改めて気づきます。第8回里川文化塾では、東日本大震災による液状化現象で大きな被害を受けた千葉県浦安市の上下水道をテーマに、ライフラインの水循環について考えました。
浦安市 都市環境部 下水道課 課長補佐
堀井 達久 ほりい たつひさ
大学を卒業したあと民間企業に入社。その後、浦安市役所に入所。堀井さんは土木課、道路管理課、都市計画課を経て2010年(平成22)4月(東日本大震災が発生した年度)、都市環境部 下水道課に配属。下水道課3年目であり、震災時は下水道の応急復旧や災害査定申請業務を行なった。現在も東日本大震災による復旧・復興に取り組んでいる。
浦安市 都市環境部 下水道課 主事
藤倉 一紘 ふじくら かずひろ
大学を卒業したあと民間企業に入社。その後、浦安市役所に入所。藤倉さんは浦安市役所入所後、都市環境部 下水道課に配属。下水道課3年目であり、震災時は下水道の応急復旧や災害査定申請業務を行なった。現在も東日本大震災による復旧・復興に取り組んでいる。
千葉県水道局 技術部 給水課 配水施設室
配水工務班 班長
長田 克也 おさだ かつや
1979年、千葉県庁へ入庁。水道局や県内の水道企業団等に配属し、これまで上水道の計画や設計・積算、水道施設の維持管理業務などに従事。東日本大震災時は、漏水した管路の応急復旧や災害査定のメンバーとして、復旧事業の計画・立案を担当した。
株式会社ケーネット/有限会社トスワーク
代表取締役社長
岡田 健嗣 おかだ けんじ
ブリヂストンタイヤ東京販売株式会社に入社。その後、包装コンサルタントについて学び、1995年(平成7)に株式会社ケーネットを立ち上げ、梱包資材の販売に注力。また2003年(平成15)、地域密着で事務用品機器を主軸とする浦安市内の有限会社トスワークの取締役に就任。現在は浦安シーサイドライオンズクラブと浦安市バレーボール協会に在籍し、復興支援や地域社会貢献、子どもから大人までバレーボールの普及に努める。浦安市内のマンションに居住。
公益社団法人 浦安青年会議所 理事長
熊木 幸治 くまき こうじ
1973年(昭和48)千葉県浦安市生まれ。浦安市内で育ち、1996年(平成8)浦安青年会議所に入会。以来、まちづくり運動や市民意識変革運動を展開。2011年3月11日に発生した東日本大震災においては浦安市社会福祉協議会とともに、浦安市ボランティアセンターを立ち上げ、世界的にみても大規模な液状化に見舞われた浦安市で約3000人のボランティアの先頭に立ち、復旧活動を行なった。
ライター・編集者
前川 太一郎 まえかわ たいちろう
大生協職員、業界紙記者を経て、広報誌や雑誌を手がける編集制作会社に入社。まちづくり・地域活性化をテーマとする広報誌および書籍をメインに、編集業務全般(企画・リサーチから取材・執筆、印刷コントロールまで)を担当。インタビューや座談会の司会も多数経験。2010年12月に独立。フリーランスのライター・編集者として、水の文化やまちづくり、団地再生、東北の復興支援活動などを追う。
千葉県浦安市は東京湾岸に位置し、面積の75%が埋立地です。東日本大震災による砂地盤の液状化現象で市内の上下水道に大きな被害が出ました。約7万1400世帯の46%にあたる3万3000戸で上水道が断水。下水道は最大時1万2000戸で使えなくなりました。
下水道はどのような被害を受けたのでしょうか。復旧はどう進められたのか、そして気になる今後の液状化対策は? これらについて、浦安市 都市環境部 下水道課の堀井達久さんにレクチャーしていただきました。
千葉県水道局 技術部 給水課の長田克也さんには、浦安市内の上水道の被害状況と給水活動、さらには今後の対策として水道管の耐震化と災害への備えについて解説していただきました。
午後からは、浦安市 都市環境部 下水道課の藤倉一紘さんの案内で会場(浦安市・高洲公民館)近くの街路や高洲中央公園を歩き、液状化の影響で道路から浮き上がったマンホールや地上に姿を現した埋設型の耐震性貯水槽など、今なお残る生々しい震災の爪跡を視察しました。
そして市民の立場から、マンション管理組合の理事を務めている岡田健嗣さん、浦安青年会議所理事長で災害ボランティアセンターを立ち上げた熊木幸治さんが、震災直後の「水」に関する貴重な体験談を披露してくれたのです。
浦安市 都市環境部 下水道課 課長補佐
堀井 達久さん
浦安市内の下水道被害状況について講義する堀井 達久さん
(左の人物。右は藤倉 一紘さん)
浦安市は人口約16万3000人の海浜都市。かつては漁師町でしたが、1958年(昭和33)年に起きた「本州製紙江戸川工場事件」(工場排水が浦安漁場に流れ込み、魚介類に大きな被害が出た)を1つの契機として漁業権の放棄が進みました(漁業権は1971年に全面放棄)。そして1965年(昭和40)から1980年(昭和55)にかけての2期にわたる埋め立て工事で4倍の面積(約17万km²)に広がり、東京のベッドタウンとして発展したのです。
もっとも有名な施設はディズニーリゾートですが、倉庫が建ち並ぶ湾岸の工業ゾーンは日本屈指の鉄鋼流通基地という知られざる側面があることも堀井さんは紹介してくれました。
埋め立て用の土砂は浦安沖の海から持ってきて盛土したもの。もとから砂地盤だったので、砂の層で成り立っている土地です。液状化したのは、もとの砂地盤と盛土の層で、地表面から2〜12m程度の深さに相当します。
液状化で建物が傾き、道路に泥水が噴出した写真が紹介され、震災直後と翌日の被害状況を撮影した10分間のビデオも上映されました。
下水道のマンホールが地面から浮き上がっているのは異様な光景です。浦安市内の約6000基のマンホールのうち、10cm以上浮いたのは120基。ただし、マンホールと下水道管の隆起なのか、地盤の沈下によって浮き上がったのか、原因は明確にわからないところもあり、今後の調査が必要とのことです。また躯体にブレのあったマンホールは190基。液状化で噴出した土砂は合計7万5000m³に達し、今も市内に山積みで仮置きしています。
浦安市内の家庭のトイレ、バス、キッチンから出る汚水は、市が施工・管理する公共下水道を通って、隣の市川市にある千葉県の終末処理場に集められ、最終的な処理水は旧江戸川に放流されています。
液状化による下水道の被害は埋立地区に集中しており、漁師町だった旧市街の元町地区では皆無でした。浮上したマンホールの蓋を開けると、下水道管やマンホールの中に土砂が入り込んでいました。埋立地の下水道管の長さは約120kmで、そのうち60kmが土砂で埋まったのです。マンホールの内部はちょうど「だるま落とし」のような構造ですが、地震の揺れと液状化によって、だるま落としのブロックがズレたような形になってしまいました。
下水道の土砂を取り除きテレビカメラを入れて調査したところ、砂で埋まった60kmの下水道管のうち23kmに、継手の外れやズレ、たるみ、管の破損などの被害が認められたそうです。
応急復旧は4月15日までかかりました。上水道は道路上に仮配管して4月4日には応急復旧しましたが、被害にあった下水道は震災後1か月後以上も使えなかったことになります。なぜ上水道よりも時間がかかったかというと、下水道は自然の勾配で流れるしくみ。そのため、道路上に仮配管しただけで事は済まないからです。
3月13日、7300世帯に下水道使用制限をかけました。一滴も水を流せません。この時点では上水道が応急復旧していませんでしたが、上水道が復旧してからも「水は出るけれども流せない」状況が10日間ほど続いたわけです。被害状況が把握できるにつれ使用制限の範囲は1万2000世帯(3月20日)に広がりました。
被災した下水道管の応急復旧では、ジェット水流で管内の土砂を除去し、水中ポンプを入れ、塩化ビニールのバイパス管を設置して汚水を流します。40カ所でこのバイパス設置作業が必要でした。発電機が不足していたので水中ポンプの電源は各家庭から借りました。
ガスも上下水道も、ライフラインは同じ道路の下を走っています。震災直後の応急復旧では、まず土砂の除去など清掃作業が必要ですが、作業車輌は何台も同時に入れません。そのため、朝一番に到着した「早い者勝ち」で応急復旧の作業が行なわれたそうです。各ライフラインの復旧作業の調整については、今後に大きな課題を残しました。
震災翌日から仮設トイレの設置を進めましたが、これにも難点がありました。仮設トイレは、実は風に弱いため倒れやすく、またプライバシーが守りにくいのです。小学校と公園に設置した仮設トイレは男女別に分け、全体を壁で覆うなど配慮を施しました。
浦安市には高層マンションが多く、高層階に住むお年寄りや小さな子どもにとって屋外の仮設トイレ、特に和式トイレは使いにくいものです。そこで、自宅トイレに設置して一袋で数回使える携帯用トイレを約30万袋、市職員とボランティア延べ660人を動員して約3万世帯に配布しました。
堀井さんが今回の震災の教訓として痛感したのは「上水道とトイレと下水道の密接な関係」。トイレは下水道の入口であり、下水道行政と別物ではない、との認識を新たにしたそうです。水洗トイレは、上水道とトイレと下水道が三位一体で機能して初めて成立する「水循環インフラ」の一部といえます。
本格復旧は今年度から3年かけて行なわれます。工事発注は震災の1年後。それまでの間、被害の全貌を把握し復旧方法を検証する必要がありました。
復旧のポイントは液状化対策にほかなりません。新潟県中越地震(平成16年)の経験から、液状化によるマンホールや下水道管の浮き上がりを防ぐには、埋め戻しの土を石灰やセメントで固めたものにすると効果的なことがわかっているので、浦安市もその方法を採用することにしました。
復旧費用は総額153億円。災害査定で約119億円が補助対象として認められ、93億円が国の補助金で賄われます。
戸建て住宅街に碁盤の目のように走っている下水道で被害のなかったところまで作り直すのは財政的に困難ですが、住宅街から集まってくる幹線道路の太い本管については耐震対策を施し、3年間かけて順次改修していくとのことでした。
千葉県水道局 技術部給水課 給水施設室 配水工務班 班長
長田 克也さん
上水道被害や給水活動について講義する長田 克也さん
主に利根川水系を水源とする千葉県水道局は、11市の約294万人に水を供給しています。最大の需要者は成田国際空港とディズニーリゾートです。
東日本大震災では、配水本管と各戸への給水管合わせて漏水が926件、断水・減水が17万8000戸で発生し、応急復旧は4月7日までかかりました。
漏水が出たのは東京湾岸の埋立地が766カ所と集中しています。中でも607カ所とダントツに多かったのは浦安市の埋立地区。埋立地以外、つまり旧市街の元町地区では一件も発生しませんでした。これは下水道の場合と同じです。
漏水の原因は水道管の継手部分が抜けたり、ゆるんだり、破損したことが大半でした。しかし、その部分を修繕するだけでは済みません。なぜなら、抜けた部分から液状化した土砂が水道管内に入り込んでいたからです。そのままでは砂混じりの水道水になってしまうので、管洗浄に時間がかかりました。復旧作業は水道局と千葉県水道管工事協同組合が連携し、応援にかけつけたのは「ご近所」の東京都、神奈川県、横浜市、川崎市の4水道事業体です。
実際の水道管の被害状況を長田さんは写真で紹介してくれました。
歩道の冠水を見ると、堀井さんの講義で上映したビデオで見られた、どす黒い液状化の泥水と異なり白っぽいので、水道管の漏水だと一目でわかります。
内径50cmの動脈に相当する水道管の継手部分が緩んで水が噴き出しました。注目すべきは、継手部分がスッポリ抜けたうえに、位置が左右段違いになっていたのが何カ所もあったこと。長田さんもさすがにここまでは予想していなかったので、現状を目にして液状化の影響の大きさを改めて感じたそうです。
水道管の交差点に相当する部分には仕切弁というバルブがあります。この継手部も被害を受けて漏水しているところがありました。
現在の水道管は「ダクタイル鋳鉄管」という強靭性、耐食性に優れた素材を使っているので、地震で管そのものが破損することは考えにくいとのこと。ところが船橋市に、ダクタイル鋳鉄管が普及する以前の1960年(昭和35)に施工された古い水道管が埋設されており、強度的に脆いので継手の脇が破損しました。
浦安市を流れる境川にディズニーシーのために引いた水管橋があります。この水管橋を支えている橋脚が地震でめくれ上がり、耐震用に設置した伸縮管が縮みました。これらについては今年の冬から修繕工事に着手するそうです。
浦安市の断水・減水戸数は7万7000戸でした。給水拠点は19カ所の浄水場・給水場。また学校や病院に応急給水拠点を設け、給水車のピストン輸送で運搬給水しました。路肩に設置した仮配管による仮設給水栓も活用。アルミボトル水を1万本、給水袋を3万9000袋、配布しました。
給水の応援部隊は横浜市、川崎市、神戸市、阪神水道企業団、柏市、千葉市の各水道事業体。阪神淡路大震災のときに千葉県水道局が神戸や西宮へ応援に出向いた経緯があり、阪神地域からは真っ先に駆けつけてくれたようです。自衛隊も船で給水活動を支援しました。
千葉県水道局では1996年(平成8)から「耐震管」を埋立地区限定で使っています。耐震管とは、管の接続部分に、揺れに応じて可動するしくみを施して抜け出しを防ぎ、地殻変動に対しても外れない構造になっている水道管です。
浦安市でも耐震管を使っている部分の漏水はありませんでした。耐震管の比率は現在のところ14%にすぎません。内径50cm以上の大口径管については50%近く耐震化が進んでいますが、各家庭に水を供給する給水管の耐震化率は低いようです。2012年(平成24)度は震災で被害を受けた管と更新時期を迎える管の耐震化(約70km)をはかっており、2013年(平成25)度以降は更新時期を迎える管に加え、埋立地域に埋設している管については、耐用年数にとらわれない更新を進めていくとのことです。
災害への備えとして、水道水のくみ置きについてアドバイスがありました。くみ置き量の目安は1人1日3ℓ。保存期間は、直射日光を避けて涼しい場所に保管すれば3日程度、冷蔵庫に保管すれば10日程度。これはつまり、水道水中の塩素の殺菌作用が持続する期間です。日付をメモして貼っておくと便利ですし、保存期間が過ぎても沸かして飲めば問題はありません。
ただし、注意が必要なのは、保存前に沸かすと塩素が減ってしまうので、水のまま保存すること。また、浄水器を通すと塩素まで除去される場合があるので、くみ置きの水は蛇口から直接注ぐようにします。
くみ置きの方法は、ポリタンクやペットボトルなど、清潔で蓋のできる容器に、できるだけ空気に触れないよう、口元までいっぱいに入れます。くみ置きした水を飲むときは、雑菌が入らないよう、容器に直接口をつけず、コップなどに注いで飲む配慮も必要です。
会場の浦安市高洲公民館近辺の道路にも、震災の液状化で浮き上がったマンホールが散見されます。このあたりは、1972年(昭和47)から1980年(昭和55)にかけての第2期埋め立てで造成された地域です。
公民館前から東京学館浦安高校へかけて500mほどの道路にあるマンホール、そして高洲4丁目の高洲中央公園にある耐震性貯水槽の被害状況を、浦安市 都市環境部 下水道課の藤倉一紘さんの案内で視察しました。
マンホールが路面からニョキッと浮き上がったありさまを現実に目の当たりにすると、地震による液状化の凄まじさに参加者は息をのみます。
藤倉さんがバール状の器具を用いてマンホールの蓋を開けてくれました。マンホールの中を覗かせてもらうと、内部はまさに堀井さんが講義で説明した「だるま落とし」がズレたような状態。参加者は口々に「こんなに動いちゃうんだ……」と驚きの声を上げていました。
東京学館浦安高校近くの道路を挟んだ2つのマンホールからは、流れが悪くなったところに応急復旧として設置したバイパス管を見学。一方に水中ポンプが仕込まれていて、道路を横断しバイパス管を下水が流れるようにしています。
高洲中央公園では、周囲のコンクリートごと地中から浮き上がった耐震性貯水槽を見ました。1万人が3日間暮らせる100m³の水を貯めて震災に備えていた貯水槽です。水道本管をバイパス管でつないでその下にタンクを設置。バイパス管を経由巡回して常に水が満水状態になっている貯水槽で、地震には耐えたのですが液状化で浮き上がりました。中の水は使おうと思えば使えましたが、他の方法による給水で間に合い、これの出番はなかったとのことです。
株式会社ケーネット/有限会社トスワーク代表取締役社長
岡田 健嗣さん
震災後の生活について説明する岡田 健嗣さん
岡田さんは、湾岸の埋立地である日の出地区の370戸、4棟、最高12階建てのマンションの住人で、震災当時は管理組合の理事を務めていました。
理事会で大規模修繕の打ち合わせを始めようとしたその矢先に被災。警報器が鳴り、揺れが大きくなって、ただごとではないと外に飛びだしました。ぐらんぐらん揺れているマンションに驚いた途端、ゴーッという波のような音が聞こえたかと思うと、地割れの部分から液状化した土砂が噴出。あっという間の出来事でした。数分間のうちに自動車が半分くらい泥水に埋もれました。
高層マンションでは上下水道の被害が何より大変です。まずは飲料水の確保。近所の小学校に給水車が来ましたが、まだ肌寒い3月中旬、早朝から1時間半〜2時間の行列ができました。高層階ではエレベーターが止まると重いポリタンクを持って階段を昇り降りしなければなりません。とても暮らしていけないと、一時的に親戚の家などへ身を寄せる住人も続出したそうです。
岡田さんの自宅は9階です。旧市街の元町地区にある岡田さんの会社には上下水道の被害がなかったため、ポリタンク20基を会社に運び、水を満たし、それをマンションに毎日運びました。計画停電のために夜になるとエレベーターが動きません。そこで、昼間のうちに廊下にポリタンクをズラリと並べて、「ご自由に使ってください」と同じフロアの方々に提供しました。連日のことだったため、岡田さんはいつしか近所の子どもたちに「水のおじさん」と呼ばれるようになりました。
計画停電の時間帯を利用して、風呂と夕食を求め、川を挟んで隣り合う東京都江戸川区葛西へ。多くの人たちが計画停電の時間にクルマで脱出したので、江戸川区方面は大渋滞。岡田さんは真っ暗になった浦安の街を生まれて初めて体験したそうです。
地震が起きたのはマンション管理組合の理事引き継ぎの直前。1年間ともに活動してきた理事同士の結束は固く、理事の中に下水道関係者がいたおかげもあって、十数基の仮設トイレを速やかに手配できました。震災直後は必要な物資がすぐ品薄になるため、素早い行動が欠かせません。
仮設トイレにはペットボトルが置いてあり、使った後はその水をかけるのがルール。そうしないと汚物が柔らかくならず、汲み取りまでの間に積み上がってしまうからです。ところが、中には水をかけない人も少なからずいます。
ある朝、岡田さんは小さな女の子が一生懸命にトイレを掃除し、「ルールを守って、きれいに使ってね」とみんなに声をかけているのを目撃しました。毎朝、彼女は水をかけてトイレをきれいにしています。このマンションにも、こんなに素晴らしい子がいるんだ、と初めて知った岡田さんは感激しました。
以前は「おはようございます」「こんばんは」と挨拶しても、声が返ってくることの少ないマンションだったそうです。どこに誰が住んでいるのか、互いに無関心でした。首都圏の集合住宅ではありがちなことです。ところが東日本大震災以降、住民同士のコミュニケーションが増え、声をかけあうようになりました。震災という大きな代償を払いましたが、ご近所づきあいが復活し、「その後どう?」とお互い気にかけるようになったのは不幸中の幸いでした。
岡田さんは、今回の震災をきっかけに、水道の蛇口をひねれば簡単に水が出ることのありがたさを痛感したそうです。「満タンの風呂の水が、たった1〜2日で空っぽになってしまうくらい、たくさんの水を使っていたんだな、とよくわかりました」と当時を振り返ります。
初めて知る、ひとしずくの大切さ。蛇口から水が出なくなるだけで、これだけ苦しい思いをする。それがこの震災で岡田さんがいちばん強く感じたことでした。
公益社団法人 浦安青年会議所理事長
熊木 幸治さん
災害ボランティアセンターの立ち上げや活動内容を話す熊木 幸治さん
震災当日、熊木さんは埼玉県大宮で仕事をしていました。高速道路も橋も通行止めで、通常なら1時間で帰れるところを、8時間かけて帰宅。実家は浦安市内で、ご自身の今の住まいは浦安の埋立地区から数kmほど内陸に入った市川市行徳。震災の被害は全くなかったそうですが、それだけにかえって泥水が道路を埋め尽くし見慣れた町が一変した浦安の惨状を目の当たりにして、ショックを受けました。
熊木さんが理事長を務める浦安青年会議所の上部団体、日本青年会議所は全国地域の青年会議所からの出向者で組織しています。熊木さんも2010年、日本青年会議所の委員会に出向しました。その時に知り合った新潟県小千谷市の青年会議所のメンバーは新潟中越地震の被災者。震災直後、その彼から簡潔なメールが来ました。まずはガソリンの確保。考える前に行動を。錯綜する情報に惑わされないこと。自身の体験からの貴重なアドバイスでした。
震災の翌日、浦安青年会議所として市役所に出向き、社会福祉協議会と協力して災害ボランティアセンターを立ち上げることになりました。
初日は舞浜三丁目地区からの依頼があり、約20名のメンバーで行きました。現地はひどい状況でした。自動車のボンネットまで泥水が埋まっています。水が出ない、トイレも使えない、移動手段はない。誰もが困りきっていました。
まずは15基の簡易仮設トイレを設置。最初は組み立てに1時間くらいかかりましたが、慣れると30分でできるようになったそうです。
週末になるとボランティアの人たちが多く参集しました。青年会議所メンバーがリーダーとなり、泥出し撤去の作業。1日1000名近いボランティアが参加した日も。そのときは被害のあったほとんどの地区で作業をしました。
災害ボランティアセンターの活動期間は3月12日から29日の18日間で、延べ8060人が参加。最初のうちは段取りが悪く、朝10時に来たボランティアが12時まで出発できないこともあったそうです。しだいにボランティアが増えていくので配置に苦心し、大勢の人を動かす大変さがわかりました。
熊木さんが感激したのは、若者の熱意。20歳前後の若い人たちが浦安市のホームページやツイッターを見て、自ら率先してボランティア活動に参加してくれました。今どきの若者は何事にも無関心といわれているがそんなことはない、と熊木さんは強調します。自主的に活動している姿を見て、地域の年配者も若者に対しての見方が変ったようです。
日本青年会議所は震災翌日に東北へ。浦安には1週間後、2トン車にペットボトル満載でかけつけてくれました。全国組織なのでお互いに助け合います。飲料水の確保ひとつにも、日ごろのつながりがものをいうのでした。
蛇口をひねれば水が出るという当たり前のことが当たり前でなくなったことの大変さ。水のありがたみ。ふだんは目に見えない下水道が、いかに大切な役割を果たしているか。そうしたことが今回の震災でよくわかりました。
震災によって地域のコミュニティは間違いなく良くなった、と熊木さんも確信しています。再びいつ起きてもおかしくない大地震に備えるためにも、これを風化させずに、維持していかなければなりません。
Q「震災をきっかけに強まったコミュニティの結束をずっと継続していくには、どうしたらよいでしょう?」
岡田さん「ウチのマンションでは年に2回、お祭りなどのイベントを開催していますが、今までは参加者も少なく、誰かがやってるんだろう、くらいの関心の低さでした。ところが震災後、日曜日に泥出しをやってから、みんなの結束が固くなりました。今までイベントに出てこなかった人たちも出てきた。でもそういう経験は、年月が経つほど過去のことになっていきます。工夫しているのは、イベントのとき震災のビデオを流して、こういうことがあったんだね、と思い返すこと。そうやって新しい入居者にも伝えます。だからみんなで仲良くやっていこうよ、と確認しあう。それが私たちのやり方ですね」
Q「下水道の施工方法には推進工法というものもあると聞きましたが、それによって施工した下水道管の被害状況はどうだったのですか」
堀井さん「推進工法は、下水道管を地中深く埋設しなければならないところや、掘削工事をすると交通に支障をきたすところで使われます。イメージとしてはモグラロボット。道路を掘削せず、穴を掘ってそこからモグラロボットが地中を掘り進んでいきます。浦安市では、この推進工法によって深いところに埋設されていた管は、比較的被害の程度が少なかったといえるでしょう」
Q「地盤を液状化しにくくする工法があると聞きました。どのようなものなのですか」
堀井さん「サンド・コンパクション・パイル工法と呼ばれるものです。地盤のなかによく締め固められた砂の杭をつくることによって地下の土が圧密され、液状化しにくくなるという理論です。砂地だけでなく粘性の土壌でも施工できるうえ、杭は砂のほかに砕石やスラグといった材料も使うことができます。浦安市内でも実証実験を行なって、その効果を測定しているところです」
Q「下水道が使えないのに水を流してしまったらどうなりますか」
堀井さん「上流側の管の中の土砂を取り除いて汚水が流れるようになったとしても、下流側がまだ詰まっているとき汚水を流してしまうと、そのうちあふれます。下流側を開通しないと下水は流れません。また、管の中の清掃をしようにも、上流側からの水が入っていると、水を抜くのに精一杯で清掃作業が滞ります。さらに、土砂を除去した後にテレビカメラを入れて調査するのですが、汚水が流れるとそれもできません。テレビカメラを入れないと、どこが壊れているか、その管がまだ使える状態なのか、判断できないのです。ですから、水道が復旧しても下水道の復旧がまだのところでは、住民のみなさんに水を流さないでくださいとお願いしました。しかし現実にはどうしても流れてしまい、そうした場所では復旧が遅れました」
Q「岡田さんが手配された仮設トイレはどのようなものでしたか」
岡田さん「イベントで使われるようなレンタルの仮設トイレです。用を足した後にペダルを踏むと圧縮できるタイプもあって、それだと1日1回の汲み取りが2日に1回くらいで済むようです。ウチのマンションで手配したのは圧縮タイプではなかったので、いちいちペットボトルで水をかけないと山盛りになってしまう。ですから先ほどお話ししたように、女の子が毎朝がんばって掃除して〈トイレのルールを守りましょうね〉と大人たちに健気に声をかけていたんですね」
堀井さん「おそらくどこの市町村もそうですが、下水道担当局と仮設トイレ担当局が違います。この二つがもっと密接な関係になければいけない、と今回の震災で痛感しました。仮設トイレは浦安市所有のものが300、レンタルしたものが400、マンションで独自に調達されたものが200。今回の震災で計900基が市内に設置されました。その中で一番多かったのが、イベントなどでよく使われる和式タイプですが、子どもやお年寄りには不評だったようです。レンタルの仮設トイレを和式から洋式に変えていくべきなのかもしれません」
「災害時の水問題については想像できることではありましたが、体験談を聞くとリアルさが伝わりますね。トイレは下水道の入口、という認識をもっと多くの人が共有できるようになるとよいと思いました」(40代女性)
「都市の上下水道の基本的なデータや知識が得られました。マンションの仮設トイレで大人に声をかけていた女の子の話が印象に残りました」(30代男性)
「これからの日本にとって地震・津波対策は最重要テーマ。被災現地で学ぶ意味はきわめて大きかったと思います」(70代男性)
「現地視察でマンホールがあそこまで持ち上がるのかと驚きました。上下水道というライフラインの災害では、高齢者や子ども、妊婦など弱者優先の原則を明確にすることが大切だと思います」(60代男性)
「職員の方が大変な苦労をされながらライフラインの復旧に奮闘されていたことに敬意を表したい。高度に都市化された暮らしの中ではふだんの便利さは未来永劫に続くものと勘違いしがち。自助・共助・公助を常に意識し、発災後3日間は自力で生き続けられる術を確保しなければなりません」(50代男性)
長田さん「浄水場、給水場などの給水拠点がどこにあるか、常日頃からチェックしておくことが大切。ただ、現実には渋滞などで行き着くのが難しいので、発災後の速やかな給水車の手配が水道事業者としては重要だと考えています」
堀井さん「トイレは下水道の入口。水道をひねればすべて下水道に流れる。このことを、ぜひ頭に入れておいていただきたい。行政として欠かせないのは速やかな情報提供です。〈いつになったらトイレを流せる?〉との問い合わせが殺到しましたが、正直、それはやってみないとわからないところがあります。しかし市長が決断して4月15日には復旧、と宣言。それ以降は問い合わせがグンと減りました。情報提供の大切さを再認識した次第です」
藤倉さん「私には幼い子どもがいます。今回の経験から、水、食料、電池など貯えのできるものは、少なくとも数日分の備蓄をしておくと安心だと思いました」
岡田さん「震災以降やっていることは、風呂の浴槽に水を溜め置くこと。その際、必ず蓋をしておくことが肝心です。ウチでは蓋をせずに溜めておいたので、地震の激しい揺れで、ほとんどがあふれ出てしまいました。また、トイレに関しては、水洗トイレの上に装着できる携帯トイレも常備したほうがよいでしょう」
熊木さん「今後起りうる震災については、今回の経験がマニュアルになるとは必ずしも言い切れません。たとえば首都直下型地震の場合は大規模な火災なども発生するでしょう。いろいろなことを想定した備えが重要です」
上水道と下水道。ふだんはあまり意識しないこの循環で私たちの生活は成り立っている。このたびの震災は、この当たり前の事実を気づかせてくれました。上水道が復旧したからといって、下水道が使えないのに水を流せば、結局のところ仮設トイレに頼る期間が長引くことになります。それは、街の地下を流れる水の循環にほんの少し想像力を働かせればわかること。いつ復旧するのか知りたいのは山々ですが、多くの人が市役所に電話で問い合わせれば、それだけで業務が遅滞します。
電気やガスと同様、街の地下を循環する水も、自分だけではなくみんなにとってのライフライン。いったん機能がマヒすると、否が応でもその事実に直面せざるをえません。そのときに力を発揮するのは、日ごろから培ったコミュニティのつながり。すれちがっても知らんぷりだったマンションの住民同士が震災後は挨拶を交わすようになった、という岡田さんの話が示唆的でした。
そして、自主的に泥出し撤去のボランティアに参加する若者たちと、仮設トイレの「番人」を自ら買って出る小さな女の子。ほんの小さな灯火かもしれませんが、この国の未来を照らす希望の光のように見えました。
(文責:ミツカン水の文化センター)