国分寺崖線(がいせん)からの湧水を集め多摩川に注ぐ長さ20kmほどの野川は、水車が点在するほど水量豊かな川でした。しかし、高度成長期に生活雑排水が流入してドブ川となってしまいます。下水道整備が進み、また積極的な市民の活動によってかつての清流を取り戻しましたが、現在は都市化の影響で湧水が乏しくなり、流水が途切れてしまう状態がたびたび発生する新たな問題を抱えています。野川を歩きながら、「都市の発展」と「自然の保全」の両立について考えました。
環境省環境カウンセラー
若林 高子 わかばやし たかこ
1936年旧満洲生まれ。東京大学文学部卒業。編集業のかたわら「野川を清流に」の活動に参加。環境省環境カウンセラー、土木学会会員。著書に『都市に泉を』(共著/NHKブックス)、『生きている野川』『湧水探訪深大寺』『生きている野川 それから』(いずれも創林社)などがある。
エコロジカル野川の会 副代表
堀井 光夫 ほりい みつお
1944年東京生まれ。早稲田大学第一法学部卒業。出版社に勤務し2009年に退職。1980年代から野川の環境保全やわんぱく夏まつりなど地域活動に関わる。「玉川上水に親しむ会」「水辺緑地ウォークの会」のほか多様な団体に所属し、水辺とマチ歩き、歴史探訪を楽しんでいる。
小金井市環境市民会議 副代表
藤崎 正男 ふじさき まさお
1939年東京生まれ。千葉大学工学部卒業。趣味の渓流釣りで全国の川を歩いた経験から、治山、治水、利水に偏った河川管理に疑問を抱いたことが活動の原点。野川自然再生協議会、野川流域連絡会、野川ビオトープの会、野川自然の会などに所属し、恵まれたフィールドですばらしい仲間たちと楽しく活動している。
東京都国分寺市恋ヶ窪の湧水を源流とする野川は、国分寺市から小金井市、三鷹市、武蔵野市、調布市、狛江市を経て、世田谷区の二子玉川で多摩川に注ぐ延長20.5kmの一級河川です。流域の大部分は親水空間として整備されていて、市民の憩いの場となっています。
野川を支えているのは、「はけ」と呼ばれる崖(国分寺崖線)から流れ出る湧水です。国分寺崖線とは武蔵野段丘と立川段丘にまたがる崖の連続線で、古多摩川が台地を浸食することによって生まれたもの。武蔵村山市付近から大田区田園調布までおよそ30kmにも及びます。大地に降った雨水は水を通しにくい上総層群の上に帯水して、はけの斜面から湧水となって表出し、それが野川に集まっているのです。
野川の周辺には「縄文銀座」と呼ばれるほど数多くの縄文時代の遺跡が点在しています。湧水が豊富だったため、3万年前から人が暮らしていたと考えられています。半世紀ほど前までは水車が点在し、田んぼが広がる自然豊かな川でした。
ところが高度成長期に生活雑排水が流入し、汚れたドブ川となってしまいます。行政による下水道の整備が進むとともに、市民自ら「自然を守ろう」と声をあげ、さまざまな団体が活動することで、かつての清流の姿を取り戻しました。
野川には「市民VS行政」という対立の時代もありました。しかし、近年は市民と行政の協働が進み、自然再生事業で高い評価を受けています。
とはいえ、問題がないわけではありません。都市化が進むことでコンクリート舗装が増え、雨水が浸透しにくい状況になっています。これは湧水を集めて流れる野川にとって切実な問題です。現在は瀬切れ(せぎれ=河川の流量が少なくなり流水が途切れてしまう状態)がたびたび発生しているのです。健全な水循環の視点から、「都市の発展」と「自然の保全」の両立をどうとらえればよいのでしょうか。
(【 】内の数字は地図上の番号を示す。以下同様)
前々日に首都圏を襲った春の嵐が信じられないほど穏やかに晴れ上がった朝。JR武蔵小金井駅には、集合時間前から参加者が集まっていました。点呼のあとバスターミナル脇のスペースに移動し、第11回里川文化塾の開会式が行なわれます。ミツカン水の文化センターの新美 敏之事務局長が挨拶しました。
「里川文化塾の〈里川〉とは川だけを指す言葉ではありません。〈使いながら守る健全な水循環〉を意味しています。古来、人間は知恵を絞りながら水を上手に使って生活を営んできました。こんにちの上水道や下水道もその一環といえるでしょう。今日は野川を歩いて、健全な水循環を保つためにどのような苦労があったのかを、ナビゲーターの方々にお聞きして学びたいと思います」と挨拶した。
今回のナビゲーターは若林高子さんと堀井光夫さんです。若林さんは編集業のかたわら「野川を清流に」の活動に参加。環境省環境カウンセラー、土木学会会員として野川を見守っています。堀井さんは、1980年代から野川の環境保全や「わんぱく夏まつり」など地域活動に関わっています。また、堀井さんが同行をお願いしたゲストの藤崎正男さんも紹介されました。藤崎さんは市民と行政による野川の自然再生事業に携わっているほか、湧水量を毎月測定するなどの活動を行なっています。お三方から、野川の歴史と自然保全、市民活動、これからの課題などをお話しいただきます。
武蔵小金井駅のそば、前原坂上の交差点で見どころがありました。「六地蔵のめぐみ 黄金(こがね)の水」です(機関誌『水の文化』35号「マイ蛇口を持って深井戸天然水を飲もう」)。六地蔵は1696年(元禄9)に完成した玉川上水からの分水路「小金井村分水」の流路に祀られている地蔵尊で、1707年(宝永4)に建立されました。その敷地内には深さ100mから揚水する井戸があります。500円の登録料を払えば好きなだけ水が汲めるそうで、私たちの視察中にも市民が次々と訪れていました。
小金井市市内には至るところに湧水がありました。「黄金(小金)に値する豊かな水が湧く」そのさまが転じて小金井という地名になったといわれているそうです。今でも小金井市の飲料水の70%は地下水で賄われています。
まずは武蔵野段丘を歩きながら、はけを上から眺めていきます。玉川上水から野川に通水していた小金井村分水の西堀流路だったという「平代坂」(へいだいざか)を見下ろします。坂の途中に水車もあったというこの急坂が国分寺崖線そのものなのです。
「滄浪泉園」(そうろうせんえん)に到着しました。いよいよはけの湧水を実際に見ることができます。
滄浪泉園は、明治・大正時代に三井銀行(当時)の役員や外交官などを歴任した実業家の波多野承五郎が、はけの地形と湧水を取り入れてつくった別荘の跡地です。庭園はかつて3万3000m2あったといわれています。宅地化により当初の3分の1の面積になりましたが、それでも1万2000m2が残されていて、貴重な緑地となっています。
かつて高層マンションの建設計画が持ち上がったことがありますが、それをストップしたのは「湧水のある豊かな環境を守るべきだ」という多くの市民の願いでした。若林さんはこの保全運動にかかわったそうです。その声が聞きいれられ、1977年(昭和52)に都が買い上げて緑地保全地区に指定されました。現在は小金井市が管理しています。
園内のうっそうとした森につけられた石段を下りていくと、池が現れました。はけから滲み出る湧水を湛えています。池をぐるりと回り、2か所で水が湧き出ているのを確認しました。堀井さんによると、地下水位が下がっていることと芽吹き時で、樹木が水を吸い上げるため、今は特に湧水の量が少ないということです。
水琴窟(すいきんくつ)の脇で、堀井さんが野川の成り立ちについて詳しく説明してくれました。約1億年前に形成された古多摩川は、当初は北向きに流れていたものの、地球規模の気候の変動や地盤隆起によってたびたび流路を大きく変え、次第に南に移動して今の位置になりました。古多摩川はその過程で急流化を繰り返して一段低い台地をつくったため、たとえ氾濫しても北側(野川側)には流れないようになりました。その一方で武蔵野台地に降った雨がはけから湧き出るようになって2万5000年〜2万年前に野川が形成されました。古多摩川が流れていた名残が野川なのです。
「都内を流れる神田川や妙正寺川、善福寺川の源泉となっている池は、すべて地下水をポンプアップしているもの。つまり自らの力で湧いているわけではないのです。都市化が進むなか、いまだに自然の湧水によって保たれている野川はたいへん貴重な存在だと思います」と堀井さんは語ります。
滄浪泉園を出て野川の流れる立川段丘面に降りようとしたとき、泉園脇の石垣に1.5mはあろうかというアオダイショウが現れました。人の目を気にする素振りも見せず悠々と石垣のすき間に姿を消しましたが、めったに見られない巨大な蛇に参加者は興奮気味です。蛇は自然環境の豊かさの象徴で、日本では神の使いともされてきました。
野川に注ぐせせらぎのある「花と緑の小径」を歩いていきます。流れに手を浸すと、思いがけない冷たさ。はけからの湧水が地下水であることを実感します。実はこの湧水、最初は下水道に流されていたのですが、それを知った市民たちが「もったいない。少しでも野川に還元してほしい」と行政に働きかけ、湧水路として整備されたものです。
人がすれ違えるかどうかの細い道をたどっていくと視界が開けました。いよいよ野川に到着です。
春の日差しをいっぱいに受けた川面はきらきらしていて、少し離れた川下では水辺で遊ぶ親子の姿が見えました。東京都内とは思えない、実にのどかな風景です。
川のほとりで若林さんは「今日は水のある野川をご案内できてよかったです」と話しました。一昨日に大雨が降る前は、カラカラで水のない瀬切れの状態だったそうです。
「私が野川をはじめて見たときは、水量こそ豊かでしたが水は汚く、それこそどぶ川のようでした。下水道の整備が進むと今度は水量が乏しくなり、洪水対策で川幅を広げ川底を深く掘り下げた結果、水がほとんどなくなってしまいます。そこで行政に働きかけて、瀬切れ対策の工事が下流から上流まで行なわれました」
若林さんはそう話すと、写真パネルを使いながら瀬切れ対策工事について説明してくれました。まず川幅を狭めて水を抜き、粘性土を貼り込むことで川底から水が抜けないようにする工事だったそうです。
「5〜6年かけて工事を重ねていましたので『生き物がいなくなってしまうのではないか?』と心配していましたが、水が復活すると生き物たちは無事に帰ってきてくれました。しかし、これほどの規模の工事を行なっても水が枯れることはしばしばです。その最大の原因は、河道の直線化による流路変動と礫層まで掘り下げたからだと思います。合流式下水道を採用したことも大きな問題でした」と若林さんは説明します。
雨水と生活雑排水を同じ管で流す合流式下水道は、治水対策と水洗化を同時に行なえるため、分流式下水道よりもコストが抑えられるのです。下水道整備に早期から着手した都市で多く採用されています。ただし雨によって流れ込む水の量が急激に増えると、下水管や下水処理場の能力を超える量の水が未処理の状態で川に放流されるという問題があります。若林さんたちは分流式の導入を訴えましたが、それはかないませんでした。未処理の水が放流される吐口はもう少し下流で見ることになります。
堀井さんは、もともと野川はささやかな水量の川だったと言います。「かつて水量が増えた要因は2つです。1つは玉川上水からの分水の通水。玉川上水が素掘りだったために、その水が台地に浸透してはけから湧いていたのです。もう1つは生活雑排水を川に落としていたこと。ところが玉川上水からの通水は1965年(昭和40)にストップします。さらに下水道が整備されて、雑排水が川に入らなくなりました」。
加えて、都市化が大きな影響を与えました。
「武蔵野台地全体の降水量は年間11億トンで、このうち3割は蒸散するので残りは8億トンです。明治初期は8億トンのうち7億トンは地下に浸透し、1億トンが川の水となっていたのですが、120年間で逆転していて、今は地下への浸透が1億トンくらいといわれます」
降水量はさほど変わっていないので、住宅とアスファルト舗装の増加、それに伴う農地と緑地の減少によって雨水の浸透が妨げられ、水量の減少につながっていると堀井さんは考えています。
古代から人の暮らしを支えてきた湧水が、人の営みによって危機に瀕しているという現実を目の当たりにしました。
河畔をしばらく歩いたあと、右岸※から住宅地に入りました。かつて湧水地があった下弁天を経て市立前原小学校で再び野川に出会います。野川はここから小学校のグラウンドの下を通るため、川面は見えなくなりました。
前原小学校の南側に、改修前の野川の流路が遊歩道として残されています。たしかにそういわれてみると、ゆるやかに湾曲している壁面が川筋の痕跡をとどめているように見えます。堀井さんによると、ここは野川が氾濫しそうになったときに水を逃がす遊水池になっているそうです。
かつての川底を見ながら歩く私たちに、グラウンドで遊んでいた小学生たちがフェンスの向こうから「なにしてるの〜?」「野川を探検してるの?」と声をかけてきました。この小学校の子どもたちは、野川のことをどれくらい知っているかを試す「野川検定」に取り組んでいます。「小学校3〜4年生の子たちが野川のことをしっかり答えるんですよ。驚きました!」と堀井さんは嬉しそうに教えてくれました。
※下流に向けて川を見たときに左側を左岸、右側を右岸と呼ぶ
野川と旧野川の合流地点、新前橋を渡って目指すのは「谷口邸」です。この付近は武蔵野台地の下にあるので「下野」、北側に広がる台地の上は「上の原」と呼ばれていたそうです。「今でこそ街の中心地はかつての上の原にありますが、当時は湧水が豊かで日当たりのよい南向きの下野に住むことが憧れだったようです」と堀井さん。
谷口邸の門をくぐり、趣のある木造家屋を横目に奥へ進むと、じんわりと水が湧きだしている場所がありました。湧泉です。小金井という地名の由来は前述しましたが、実は谷口邸にある湧泉が「黄金(小金)のような水が出る井戸」のほんとうの由来だとの説もあるそうです。一般公開はしていないので勝手に入ることはできませんが、今回は特別に許可を得て見せていただきました。谷口邸の湧泉から野川に通じる流路は最近では珍しくなってしまった素掘り。小金井市が買い上げて保存しているそうです。
続いて訪れたのは1205年(元久2)に天満宮という名で創建された「小金井神社」。1583年(天正11)に現在地に移されました。参道入り口の狛犬は幕末維新の侠客、小金井小次郎が奉納したものだそうです。ここを訪れた目的は「石臼塚」を見るためでした。
その名の通り、石臼塚とは大小さまざまな石臼を積み重ねて築かれたものです。「小金井市の農地は麦や陸稲、桑畑がほとんどで、水田は野川沿いに少しあるだけでした」と言う堀井さん。1970年(昭和45)、野川の改修工事のため、わずかな水田もなくなりました。その3年後、穀物をひいていた石臼を持ち寄り、これまでの感謝の意をかたちづくろうと築いたのです。稲作を放棄せざるを得なかった農家の人々の、思いが込められた鎮魂の碑のようにも見えました。
天神橋で再び野川へ。しだれ桜が満開となった美しい景色を眺めながら、草で覆われた気持ちのよい親水ゾーンを歩きます。たくさんの人たちがお花見を楽しんでいました。
左岸から野川を離れ、今度は「はけの小路」に向かいます。はけの緑地に建つ「中村研一記念 小金井市立はけの森美術館」からの湧水を野川へと導く水路です。はけの小路も花と緑の小径と同様に、市民の運動によって整備されたもの。若林さんもその運動にかかわっていたそうです。市民の声が後世に残した財産といえるでしょう。
小金井新橋から下流にかけては、両岸に広大な緑地が広がっています。右岸が「くじら山下原っぱ」と「都立武蔵野公園」、左岸が「野川第一調整池」と「野川第二調整池」です。ここはかつて野川が大きく蛇行していた水田地帯。改修工事によって野川が直線化されたときに水田を放棄したのが、石臼塚をつくった農家の人々です。
このエリアは、市民と行政が野川の改修や利用方法について長い間話し合いをつづけてきた場所でもあります。野川に限らず日本全国に「市民vs行政」という〈対立の時代〉がありました。しかし時代とともに協働の意識が高まり、今はこのエリアで市民と行政が1つの組織をつくって保全活動を行なっています。
すばらしい自然環境を保つ野川を象徴する場所と言っても過言ではありません。堀井さんは「この一帯は小金井市民の誇りです」と話してくれました。
これまでの経緯をたどってみます。まずは左岸の下流側にある第一調整池ですが、洪水対策として1983年(昭和58)に完成しました。野川もかつては「暴れ川」と呼ばれていて、下流域に住む人たちから洪水対策を望む声が高まり、第一調整池がつくられたのです。野川から水があふれることに備えて、ここだけはコンクリート造りの越流堤(えつりゅうてい)になっています。
1990年(平成2)、隣り合わせで第二調整池が完成します。ところが、画期的ともいえる出来事がありました。川べりはいったんコンクリート護岸となったものの、市民の声を聞いた東京都建設局が完成直前にコンクリートをはがし、緑地に戻したのです。
「融通がきかないと言われていた行政が、いったんつくったものを壊して元通りにした。私たちも驚きました」と堀井さん。英断をくだした課長は、のちに河川局長までのぼりつめたそうです。
右岸のくじら山下原っぱは、1986年(昭和61)に第三調整池とする計画が発表されました。このときも市民は「これ以上自然を壊すのはやめてほしい」と反対の声をあげます。市民有志で原っぱを守る要望書を提出し、東京都と9年ほど交渉しました。その結果、第三調整池にはせず、手つかずの原っぱとして残されることになったのです。
堀井さんは「人の命や財産を守るための工事ですから、洪水対策事業に反対するのは、とても難しいことです。今は『1時間あたり50mm規模の降雨』という計画基準が変わらないかぎり、くじら山下原っぱには手をつけないことになっています」と振り返ります。
くじら山下原っぱは、堀井さんたちが行なっている「わんぱく夏まつり」の舞台でもあります。「わんぱく夏まつり」とは毎年8月後半の10日間、市民が小金井市の後援と協力を得て実施しているお祭りです。大人と子どもが遊びを通して交流し、身近な自然を見つめる力や大切に思う気持ちを育てることを目的としています。子どもに負けないくらい泥だらけになって遊んでいる大人もいるそうです。
くじら山下原っぱのすばらしい点は、「ベンチがないこと」と「平坦ではなくデコボコしていること」だと堀井さんは言います。ベンチがないので草地の上に座ること、そして平坦ではない地形で走ったり転んだりすることによって、大地そのものを感じるためです。
都立武蔵野公園では都内の公園や街路に植える樹木が育てられていて、1,000本ほどの桜があるため「隠れた花見の名所」です。アコーディオンの伴奏で懐かしい歌を合唱しているグループもいました。また、公園全体が浸透構造になっている「見えない貯水池」でもあります。浸透枡と浸透管を地下に備え、激しい雨が降ったときに野川へ一気に流れ込まないようにゆっくりと土壌にしみ込むようになっていて、それでも間に合わない場合は、森全体が池のように水を湛えるようにできているのです。
くじら山下原っぱで昼食です。思い思いの場所に座って休憩していると、魚網を手にした男の子が川面をのぞきこんでいました。水深のある取水堰から浅瀬に落ちて動けなくなっているナマズがいたのです。少年はナマズをすくって堰の深みに戻してあげました。
武蔵野公園から対岸に渡って、野川第一・第二調整池地区自然再生事業(以下、自然再生事業)が行なわれているエリアを実際に歩いてみました。
2003年(平成15)1月、過去に失われた生態系や自然環境を地域住民やNPO、行政、専門家など多様な人・団体が参加して取り戻すことを目的とした「自然再生推進法」が施行されました。野川では、2005年(平成17)3月に「野川第一・第二調整池地区自然再生協議会」(以下、協議会)が設置されました。行政と市民とが協働で立案した実施計画をもとに、湿地や田んぼを整備し、植物や生き物の観察など自然とのふれあいを生む場として再生を進めています。
ゲストの藤崎さんは、協議会の立ち上げからかかわっています。自然再生事業の管理運営団体「野川自然の会」が市民によって設立されたのは2007年(平成19)1月のこと。藤崎さんもメンバーの1人として名を連ねています。
「野川はフィールドとしては狭いですが、市民と行政がとてもうまく機能しています。全国で20カ所を越える自然再生協議会のなかでも『いちばん進んでいる事例』と言われているのですよ」と語る藤崎さんに案内していただきました。
第一調整池と第二調整池の間には、藤崎さんたちの活動拠点となっている建物が2棟建っています。その地下には雨水を溜めておく貯留タンクが設けられていて、野川の水が枯れそうなときに備えているとのこと。
すぐそばには円形のため池がありました。「丸池」と呼ばれているこの池は、野川の堰から土管を通じて取水しています。最近は釣り場としても有名になっているそうで、ヘラブナを狙って釣り糸を垂れている男性たちがいました。野川が瀬切れを起こしたときにはオイカワなどの魚をすくって丸池に放す「退避所」としての役割もあります。
丸池から下流にかけての湿地帯には野川からの流路が延び、水が田んぼに注ぎ込んでいました。藤崎さんたちが管理する冬期湛水の水田「ふゆみずたんぼ」です。これは冬の間も水を抜かないことで生き物が生息しつづけ、それが豊かな土壌となる農法で、全国に広まりつつあります。藤崎さんたちは籾をつくるところから取り組んでいて、年に4回(田植え、稲刈り、脱穀、収穫祭)のイベントを企画し、市民が100人規模で参加しています。今後さらにもう一枚、田んぼをつくる計画もあるそうです。
湿地の北側(はけ側)にホトケドジョウの棲む小さな水路がありました。はけからの湧水を湿地に導水したその奥が「どじょう池」です。ここも実質的には市民がすべて管理しています。
「1997年(平成9)に河川法が改正(河川環境の整備と保全が目的に加わった)されてから行政の姿勢が変わり、市民との協働がはじまりました」と説明する藤崎さん。2000年(平成12)にどじょう池ができたことが、その後の自然再生事業につながったそうです。完成したときは大々的に通水式を開き、市長も訪れたとのこと。市民と行政の新たな関係を示すエピソードです。
西武多摩川線の線路をくぐる手前で、藤崎さんが「耳を澄ませてください」と注意を促します。どこからか「ゴゥー」という音が聞こえてきます。
「すぐそばを合流式下水道が流れています。雨が20mmほど降ると本管からオーバーフローして排泄物も含めて生活雑排水、いわゆる〈生の水〉が流れます。水質悪化の原因です。多摩川でも同じことが起きていますね。言うなればこれは〈都会の恥部〉ですが、皆さんにはぜひ知っておいていただきたいのです」
さっきの音は下水道を流れる水の音でした。藤崎さんの説明を聞きながら鉄格子のはまった吐口を見ると、たしかにごみが引っかかっています。暮らしから出る雑排水は汚水処理場で浄化されますが、大雨のときはそのままの状態で野川に流れ込んでいるのです。炊事、洗濯、入浴などで私たちは大量の水を消費していますが、その水のゆくえに思いを馳せることがどれほどあるでしょうか。
そのとき、「あっ!」という声が。すぐそばの岩にカワセミが飛来したのです。「飛ぶ宝石」とも呼ばれる鳥の出現に参加者は大喜び。飛び立つときに見えた羽は瑠璃色に輝いていました。しかし、私たちがなにげなく流している排水がこうした生き物に与えている影響を考えると、後ろめたい思いがしました。
西武多摩川線の下流は「都立野川公園」です。左岸には国際基督教大学のはけがつづき、湧水も点在しています。ここは、戦時中は軍需用地、戦後は牧場から国際基督教大学のゴルフ場になりましたが、東京都が買収して1980年(昭和55)に公共公園として開園しました。
堀井さんによると、開園まもなく野川公園側から「地域の人とともに公園づくりをしたい」という呼びかけがあったそうです。有志が集まり、1年間の準備期間を経て1986年(昭和61)、「野川ほたる村」という市民団体を結成しました。「ホタルが舞うような自然環境を呼び戻そう」と、ゲンジボタルの幼虫や幼虫のエサとなるカワニナなどの巻貝を育てる里親を募集し、湧水確保のための活動も行ないました。
はけ沿いの緑地帯はフェンスで区切られ、「野川公園自然観察園」というサンクチュアリになっています。このなかにゲンジボタルが飛ぶ「ほたるの里」があります。
堀井さんに導かれて水際に下りると、野川につながる1本の水路がありました。これは生き物の退避場所として野川流域連絡会※のメンバーでつくったものです。「淡水生物の生息場所として、また野川が氾濫したときに魚や生き物が避難できるように、野川のなかに『もう1本の野川』をつくったのです」と堀井さん。
※2000年(平成12)8月に設置。公募による都民委員と団体委員30名および行政委員20名、合計50名が互いの情報を共有しながら、意見交換、提案、勉強会、自然観察会など行っている
湧水の1つ「野川公園わきみず広場」ではサワガニを発見。またもや都会では珍しい生き物に出会いました。
富士見大橋のたもと、うっそうとした木立の奥に「出山下の湧泉」がありました。こんこんと水が湧き出ています。水量がたっぷりあるため、ここからポンプアップして200mほど上流に助水(補水)しているそうです。
出山下の湧泉はあまり知られていない秘密のスポット。堀井さんは「ここの湧き水は汲みやすくて、沸かしてコーヒーを楽しむって、ちょっと粋でしょう」といたずらっぽく笑いました。
相曽浦橋の下流は、野川とはけの樹林を軸に水田や畑が広がる「大沢の里」。農村の雰囲気を色濃く残すこの水辺空間は、代々大沢村名主の分家である箕輪家と市民団体、行政、市民ボランティアが一体となってつくりあげたものです。
まず向かったのは左岸の「湿生花園」。ここにもザリガニ釣りにいどむ少年の姿がありました。植生保護のために張りめぐらされた木道を歩いていくと、はけの際に「箕輪家のわさび田」があります。この近辺は「ワサビは大沢にかぎる」と江戸っ子が言ったほどの特産地だったそうですが、現在栽培しているのはここだけです。
堀井さんは「ワサビの栽培には水温14〜15度が適しているのですが、どうやら1度ほど上がってしまったようです。箕輪さんは『わさび田への水量が激減したのは地下に埋設された下水道幹線の影響だと思う』とおっしゃっています」と説明します。
わさび田の西側からはじまる細い散策路をたどっていくと、「出山横穴墓群第8号墓」が現れました。この横穴墓は7世紀頃のもの。1993年(平成5)に調査されたときに入り口部の石積み構造が注目され、翌年に東京都の史跡に指定されました。直上の台地には出山遺跡があります。人が野川の周辺で連綿と暮らしつづけたことが、ここからもうかがえました。
横穴墓を見学したあと、さらに上へと登ります。はけの樹林をたどる小路はかなりの急斜面。はけはまさしく崖であることをあらためて感じました。しかし、眼下に広がる野川と緑地の景色はすばらしく、さほど疲れを感じることなく台地にたどり着きました。
いったん相曽浦橋に戻って右岸にわたり、「峯岸水車」に向かいます。武蔵野地域には新田開発に伴って数多くの水車がつくられましたが、昭和時代になると急激に姿を消していきました。しかし、峯岸家は5代にわたり水車経営を行なってきました。
200mほど上流にあった箕輪家の大車(おおぐるま)に対して、新車(しんぐるま)と呼ばれていた峯岸家の水車は1808年(文化5)ごろにつくられたもの。改良を重ねながら160年ものあいだ稼働していました。大型で多くの機能をもつことから東京都の有形民俗文化財に指定され、武蔵野地域を代表する水車ともいわれています。また、2009年には「旧峯岸水車場」の名称で、日本機械学会から機械遺産に認定されました。
それにしても野川の流れからはずいぶん離れています。移築したのでしょうか。
堀井さんは「水車の位置は昔のままなのですよ」と教えてくれました。つまり、昔の野川の水位は今よりもはるかに高かったのです。ところが野川の改修工事によって河床を深く掘り下げて川の水位が下がってしまったため、1968年(昭和43)に稼働を断念。母屋、土蔵、水車用水路の水量を調節していた差蓋(さぶた)なども現存しているため、地下水を揚水して「大沢の里 水車経営農家」として公開されています。
200年前に建てられたという茅葺き屋根の母屋の前で、市民解説員・小池寛司さんの解説を聞きました。「ここは製粉してうどん粉を供給する工場でした。江戸時代に人口が100万人を超えましたので、20kmほどで新宿まで行ける地の利を活かそうとしたのですね。峯岸家は明治時代から養蚕を春と秋だけはじめたそうです。現金収入のためですが、本業はあくまでも水車による製粉でした」
2009年(平成21)に再び水輪(みずわ)は動き出します。ただし、それは地下につくった40トンの水槽の水をポンプで循環して回しているのです。
水輪の直径は4.6mと、日本でも有数の大きさを誇ります。材質は松材です。「水輪にできるような太さの松は、現在では入手困難です。しかも、松は10年使うと腐ってしまうのでそのたびに交換しなければならなかった。水車の生み出す力は大きいけれど、経営自体は困難だったと思います」と語る小池さん。大正時代には精米機を導入しますが、水車の力だけで動かしていたそうです。
「年に1回、10月末から11月初旬の3日間だけ米搗きと石臼を回して製粉するイベントを行なっています。ぜひその時期にまたいらしてください」と小池さんに見送られ、峯岸水車をあとにしました。
野川をさらに下流へと歩きます。大沢という地域は鎌倉時代からしっかりと人が住みつづけている里地だそうです。途中で左に逸れて「沢の台ほたる池」を訪ねました。ここにはヘイケボタルが自生しているとのこと。
野川に戻り右岸を進むと、右手の低地にテニスコートが見えてきます。2000年(平成12)年竣工の「野川大沢調整池」です。「『野川が越流しないときはスポーツ施設にする』という前提でつくられました。大沢調整池ができたおかげで、くじら山下原っぱが助かったといえます」と微笑む堀井さん。
ほかの調整池の経験が生きているようで、何度も野川からオーバーフローしているそうです。奥にはサッカー場もありますが、これまでは手前のテニスコートまでの越流で済んでいます。
いよいよ本日の終着点、大沢橋に着きました。若林さん、堀井さん、藤崎さんと参加者の質疑応答がはじまります。
Q「野川の課題はなんですか?」
堀井さん「水量が最大の課題です。野川流域連絡会でもさまざまなアクションを起こしていますが、水量に関しては3つの取り組みが必要だと考えています。
1つめは『地下水の涵養(かんよう)』です。とにかく雨水を地下に浸透させたい。小金井市は多孔型の雨水浸透桝の普及に取り組んでいますが、もっと普及させる必要があるでしょう。
2つめは『導水』です。瀬切れがあちこちで起きていたのに、ある日突然、野川の水が増えたことがありました。かつて長雨によって地下水位が上がり半地下にあったJR武蔵野線・新小平駅が水没しましたが(1991年10月)、今でも地下水位が上がるとポンプアップして野川に放流しています。先日の水は1日で消えてしまいましたが、いずれにせよどこかから水を調達することが望まれます。
3つめは『川の水をしみ込みにくくすること』。若林さんのお話にあったように、粘性土を川底に貼り込んでいくということも1つの施策です」
Q「野川は一級河川ですから国が管理するはずなのに、なぜ東京都建設局が管理に携わっているのでしょうか?」
藤崎さん「野川は一級河川ですが東京都建設局が管理しています。都内の一級河川は、多摩川や荒川の下流域など一部の河川を除いてすべて都の管理です。野川は上流から『北多摩北部建設事務所』『北多摩南部建設事務所』『第二建設事務所』の管轄となっています」
若林さん「国土交通省は川全体を管理していて、個々の部分は都道府県に任せているはずです」
堀井さん「大きな河川や複数の都府県にまたがる河川は国管理の一級河川です。ただし、実務上は各都府県ごとに区分して維持管理されています」
Q「東京都には市民運動が盛んでも流域連絡会がない川もあります。野川との違いはなんでしょうか? また、なぜ野川は市民と行政が一緒に活動できているのか?」
藤崎さん「市民サイドに『核になる人』が複数いるからだと思います。行政の担当者は1〜2年で異動してしまいますので、市民側に行政の立場を理解したうえで、しっかりとポリシーをもって行動している人がいることが重要なのではないでしょうか。堀井さんも若林さんも核になる人物だと思っています。行政の人たちは『野川流域連絡会はひじょうにレベルが高くて、みんな熱心だ』とおっしゃいますが、実際にやっている私たちはそんな風には思っていません(笑)」
堀井さん「『川は流域住民とともに維持していく』とする河川法の改正があって、野川流域連絡会が発足しました。そして行政側の姿勢が大きく変わったことが最大の理由だと思います。かつて市民は自然環境を守ろうと行政と戦っていました。その市民同士がつながって『みんな一緒に戦おう』と自分たちのお金と体を使い、会議室の確保やビラをつくるという横の連携が以前からありました。ですから野川流域連絡会が発足したとき、団体委員に就任した人たちは、ほとんどが知り合いでした。野川を愛するいろいろなグループが点在していたことが、今の活動のベースになっていると思います。
逆に今は、活動資金を東京都が出してくれるので『あとは都にやってもらおうよ』という傾向が出てきたような気もします。次の世代の人を引き入れて、よりよい野川流域連絡会がつづけられたらと思っています」
若林さん「自分たちの住んでいる地域で、ふだんから野川を見つめている人がたくさんいることがまず重要です。野川でなにか動きがあったらすぐに行動する。そういう人が多ければ多いほど、川と環境を守る力につながるのだと思います。最近では若い人もだんだん出てきているようですよ」
Q「野川をずっと利用されている人たちのマナーはよくなっているのでしょうか? 『野川ルール』※を提示する必要はもうないのでは?」
藤崎さん「『野川ルール』は、野川流域連絡会生きもの分科会のメンバーが、環境を守りながら楽しく付き合うためにつくったルール本です。『生き物へのエサやり』『生き物の採集』『ペットの放流』『犬の散歩』『川の草刈り』『野川のごみ』の6項目をみんなで考えるために提案しました。しかし、例えばカモやコイに一生懸命エサをあげている人を見つけたとします。『水質や生き物同士のバランスを崩してしまうから、エサを与えてはいけません』と面と向かって言うのは現実的に難しいです。いろいろかたちで広報していますので、徐々によくなっていくと思います」
※人間のなにげない行ないが自然のバランスを崩すことを、例をあげて説明している。野川における地域住民の行動指針ともいえる。詳細は下記URLより。
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kasen/ryuiki/05/nogawaru-ru.html
「魅力的な水辺と緑の見学、歴史と文化と街並み……次は何が?という期待感の連続で、疲れを感じることなく歩きつづけました。湧水と緑の保全、公有地化の努力が、財政でははかれない街の豊かさに結びついていて、羨ましいかぎりです。治水のための第一・第二調整池が生き物の多様性に寄与していることに驚きました。また、はけの湧水を野川まで導く小さな流れにも心惹かれます」(70代女性)
「生活に密着したわかりやすい内容でした。座学や書物で学んだことが実際に検証できて有意義でした。地下水の涵養が叫ばれながら、今も天の恵み(雨水)を河川や下水道に強制的に排除している現実が印象的でした」(60代男性)
「視察中にカワセミ、アオダイショウ、ナマズに出会うことができました。野川の自然の豊かさを実感するとともに、その豊かな環境を保つために活動している地域住民の熱意にも感銘を受けました。水量を増やすためには下水を入れず、雨水の浸透および下水と雨水の分離を図るという対策が必要とのお話が心に残っています」(70代男性)
「野川というフィールドで長年活動されてきた方々のお話を直接お聞きすることができ、貴重な1日になりました。行政とともに活動するには、他の活動団体と組むことが大切だという点はなるほどと思います。また、くじら山下原っぱにベンチを置かないという意思に、市民の見識の高さを感じました」(40代女性)
「野川は過去に1〜2回来たことがありますが、じっくり歩いたことで野川の魅力はさらに増しました。市民目線での説明とガイドがすばらしく、資料も通り一遍のものではなくきちんと用意されていました。今回の里川文化塾に参加するまで『ミツカン水の文化センター』の存在を知りませんでしたが、次回もぜひ参加したいと思います」(60代男性)
最後に堀井さんからメッセージをいただきました。「先ほど次の世代の話が出ましたが、私は『野川を楽しむ』という心をもちつづけることが大事なのではないかと考えています。『川って楽しいところなんだ!』と子どもが感じるようなイベントやしかけを、今の大人がいかにつくっていけるかが、より重要になると思います。そういう私自身、今も野川を歩きながら遊んでいるようなものです(笑)。皆さんもぜひ近くの川で遊んでみることをお勧めします」
滄浪泉園、はけの小路、くじら山下原っぱなど、野川には市民運動によって守られたすばらしい環境が残されていました。市民が行政と丁々発止やりあった〈対立の時代〉があったからこそ、市民と行政がともに自然再生に取り組む協働が実現しつつあるのです。
野川は、水がなくなる「瀬切れ」の頻発、大雨のときの生活雑排水の流入といった課題も抱えています。そしてそれは、私たちの生活が起因するものでした。「都市の発展」と「自然の保全」を両立し、健全な水循環を実現するためには、私たち1人ひとりが「目の前の川に関心を抱く」(若林さん)と「川を楽しむ」(堀井さん)という姿勢になることからはじまるのではないでしょうか。
(文責:ミツカン水の文化センター)
参考文献:『都市に泉を―水辺環境の復活―』(NHKブックス 1987)、『小金井まちなか歩きガイドブック』(小金井市 2013)、『水車屋ぐらし〜峯岸清氏インタビュー記録報告書』(三鷹市教育委員会 2007)など