上:開催当日の三吉橋。
下:1930年(昭和5)の三吉橋(京橋図書館 蔵)。
「楓川・築地川連絡運河」を埋め立てて首都高速道路がつくられた
〈水の都〉と呼ばれた江戸・東京。網の目のように運河や水路が張り巡らされ、物資の輸送に水運が使われていました。陸上交通の発達に伴い運河はその役割を終え、さらに関東大震災や戦後の残土処理、高度成長時代の高速道路化によって埋め立てられ、しだいに姿を消していきます。しかし、今の東京でも、よく目を凝らせば、かつて縦横無尽に街なかを走っていた運河の跡をたどることができます。第20回里川文化塾では、かつての運河跡や今も残る運河を歩き巡り、都市の痕跡から遥かな〈水の記憶〉を呼び起こしました。
中央区教育委員会 文化財調査指導員
馬場 悦子(ばば・えつこ)さん
成城大学大学院修了。2010年(平成22)より中央区立郷土天文館に勤務。 専門は民俗学。
中央区役所正面玄関に集合した参加者一行は、中央区教育委員会文化財調査指導員・馬場悦子さんのナビゲートのもと、埋め立てられた運河のフィールドワークにさっそく出かけます。
中央区役所を背にして北を向くと、東西に延びる都道473号新富晴海線の三吉橋。その下には南北に首都高速都心環状線が走ります。都道は築地川、首都高は楓(もみじ)川が流れていたところで、この三叉路はかつて、楓川と築地川が連結する運河でした。楓川・築地川連絡運河は全長290m、幅33m、水深1.8m。江戸時代の掘割では手漕ぎの船で人や物資を運搬していましたが、時代が下るにつれ運河には動力船も通り、関東大震災を教訓として災害時の避難経路にも使えるようにと、川幅を広く、水深を深く改修したのです。三吉橋に立って三叉路を眺めると、かつての連結運河のイメージが想起されます。戦後の高度成長期を迎えた昭和30年代後半からは、高速道路の建設などで運河が次々に埋め立てられ、1965年(昭和40)には築地川も楓川も姿を消しました。
「都心部の高速道路は昔の掘割や河川が転用された例が多いです。なぜなら区画整理が必要なく道を通せるから。東京の川は市中を縦横無尽に走っていたので高速道路として使いやすかったのですね」と馬場さんが解説してくれます。
埋め立てられた築地川、すなわち都道473号線を東南方向へ。入船橋の交差点を南に折れると、下は築地川南支川の川床を活用した築地川公園です。ドッグランや子どもたちの野球場に使われていますが、バスケットコートのある南側にはフェンスが張られカルバート(暗渠)になっています。これはなんでしょうか。
馬場さんによれば「晴海と連結する予定だった首都高10号線建設計画の際のトンネルの名残です。上は公園でカルバートの中は中央区が土木資材の倉庫などに使っています」とのこと。約300m南の築地本願寺の近くまで貫通していて、そちらからもフェンス越しにトンネルを確認できます。首都高晴海線の計画は復活し、2017年(平成29)度に晴海—豊洲間が完成予定ですが、トンネルとして使われることはないようです。
「運河は高速道路のほかに、こうした公園や建物にも転用されました。街を歩いていて細長い公園やビルがあったら、そこはもともと運河だったのかもしれません」と、馬場さんが〈水の記憶〉を呼び起こすヒントをくれました。
築地川公園のあかつき橋から南西の聖路加国際病院がある明石町のあたりは、明治元年から外国人が住む築地居留地として区画されました。かつての外国人居留地の名残をしのびながら、座学会場の「タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)」に向かいます。この一帯は史跡の多さにも注目。「浅野内匠頭邸跡」の石碑がありました。築地川に面した広大な屋敷でしたが刃傷沙汰のあと召し上げになり、明治からは実業家五代友厚が管理する土地で、やがて外国人居留地へ。近くには「芥川龍之介生誕の地」の石碑も。明治25年、生後7ヶ月で母の長兄に引き取られるまでここで育ちました。生家は乳牛牧場。居留地の外国人に売る牛乳を生産する小規模な牧場でした。住宅街に牛がいる不思議な光景が思い浮かびます。立教学院、慶應義塾、青山学院、雙葉学園…学校発祥の地の石碑も目立つのは、居留地の外国人が布教のため子女教育に力を入れた証です。
タイムドーム明石で馬場悦子さんのレクチャー「中央区における水辺利用の歴史と変遷」を聴講しました。
中央区の面積は約10km2で東京23区のうち台東区に次ぎ小さい区です。江戸期に家康の天下普請により徳川4代、約60年間にわたってまちづくりが成され、明治期以降は東京湾が埋め立てられました。天下普請では、江戸城とその周辺の町割が建設され、城の石材を近くまで持っていくため、200mごとに櫛形の船堀がつくられたのです。米、みそ、しょうゆなどの生活物資の運搬にも河川が使われ、そのため河岸(川辺に立つ市場)がたくさんできました。
「大川(隅田川)の河口が今の湊・明石町と佃の間くらい。はしけに停泊した千石船から小さな船に積み替え、河岸・物揚場(ものあげば)・倉庫などに運びました。河口付近は水深が浅く大型船は通れなかったのです。魚河岸という言葉は、日本橋川のたもとで将軍家に献上する魚の残りを荷揚げして売ったことが起源。塩河岸、大根河岸、竹河岸など、荷揚げの商品名のついた河岸がありました」と、馬場さんは舟運による物流拠点として水辺が賑わった様子を語ります。
明治期になると、河岸・物揚場の公共化と払い下げが実施され、大企業が河川沿いに倉庫を建てました。そこで各社独自の荷揚げシステムが稼働します。
1923年(大正12)9月1日、関東大震災によって東京の市街地の44%は壊滅し、水辺も失われました。被害の大半は火災によるもので、日本橋一帯は焼け野原に。縦横無尽に張り巡らされた掘割・運河も流域の木造建築に火が回るのを防げなかったのです。日本橋の橋脚アーチに今も残る関東大震災の爪痕の写真を馬場さんが見せてくれました。はしけ船で多くの人が逃げ惑った結果、衝突してへこみ黒ずんだ跡です。「ちなみに日本橋じたいは関東大震災でもほとんど補修がいらず、戦時中の空襲でさえ、びくともしませんでした」と馬場さん。
震災後の帝都復興事業で幹線道路を広げ、河川・運河・公園を整備しました。
個別の河岸も、船の大型化、動力化に合わせて水路や埠頭を大きくしたのです。また、浚渫によって水深を保ち、橋の桁下空間を広くとりました。
しかし太平洋戦争で再び東京は焦土と化します。空襲でまちは壊滅。復興は残土処理から始まりましたが、瓦礫はどこへ持っていったのでしょうか?
「近くの使われていない掘割や運河が使われました。旧江戸城外濠や運河が埋め立てられ、その部分の細長い土地を売却して戦後復興の礎としたのです。たとえば外堀川が埋め立てられたところに西銀座デパートができたり」と馬場さん。
高度成長とオリンピックの昭和30年代になると、モータリゼーションが始まり、新幹線、高速道路が建設されました。東京では運河・水路が大幅に埋め立てられ、そこにそのまま高速道路ができます。こうして外堀川や、今日その跡地を歩いてきた築地川、楓川、佃川などが姿を消していきました。
歴史を振り返ると、江戸時代につくられた掘割は明治時代にも使われていました。大正時代後半からどんどん埋め立てられ、地上交通の発達にともない生活・産業物資の舟運機能は消失していきます。現在残っている運河は、神田川、日本橋川、亀島川、汐留川、月島川、佃川支川、築地川の一部。東京の橋は明治40年代に117カ所ありましたが、現在は約40カ所です。
とはいえ「都市の河川や運河が人々の生活とまったく切り離されたわけではない」と馬場さんは言います。なぜなら水辺が新たに見直されているからです。
ウォーターフロント再開発で水辺にタワーマンションが建ち並び、それと同時に親水公園、テラスが整備されました。スーパー堤防が整備され遊歩道に。晴海にはウォーターフロントプロムナードがあります。東日本大震災で意識されるようになった防災船着場も設置されています。水上バスや観光遊覧船も賑わっており、15人乗りの小舟や無動力船も人気があります。日本橋100周年記念で浮舟のような船着場ができました。また、隅田川沿岸のビオトープ化で水辺の浄化も進んでいます。草を生やして生態系を整え、昆虫や微生物が棲めるようにすることで川の水を浄化するのです。
「生活・産業物資の舟運から機能こそ変わりましたが、ここ数年で川や運河のあり方が見直されています。きれいな水辺に親しみ、心豊かなまちにしていこう、と。時代によってつながり方が変化しているだけで、人と水辺は江戸時代からずっとなんらかの形でつながってきたのです。水辺は人に寄り添って存在しています」と馬場さんはレクチャーを締めくくりました。
午後からは中央区在住のボランティアガイドにご案内いただき、2グループに分かれ、タイムドーム明石の常設展示を見学しました。タイムドーム明石は郷土資料展示とプラネタリウム、区民ギャラリーを兼ねた施設。神田上水の埋枡(うめます)(注1)と木樋、日本橋魚河岸の白魚献上箱、三井越後屋の複製看板、江戸日本橋を描いた長大な絵巻『熈代勝覧』(きだいしょうらん)の複製などを前にボランティアガイドが解説してくれました。
午後のフィールドワークは隅田川右岸の明石町河岸公園から。整備された親水公園の一つで、防災船着場は休日に観光遊覧船の発着場になります。
下流に見えるのは勝鬨橋。1940年(昭和15)完成の可動橋で、1日5回20分開き、船を通しました。月島地区で開催予定だった日本万国博覧会への経路として建造されましたが、当時は日中戦争の最中で開催は成らず、主要交通路として活躍。1980年(昭和55)から橋は閉じたままです。
上流には佃大橋。1964年(昭和39)に開通し、それ以前は渡船を使って行き来していました。対岸の佃地区は、かつては佃島と呼ばれ、江戸時代に徳川家康の入城に合わせ拝領した寄洲(よりす)を、摂津国佃村・大和田村(現在の大阪市西淀川区)から来た33人の漁民たちが開拓した地域です。明治時代に入って南側の月島地区が順次埋め立てられていきますが「最後に完成したのはなんと昭和37年。間に震災や戦争を挟んで長い年月をかけ、月島地域は完成しました」と馬場さんは歴史の重みを強調しました。次は佃大橋を渡って佃地区に足を延ばします。
佃一丁目の佃島渡船場跡にやってきました。佃島は将軍に献上する魚を獲る漁師が住んだところ。小魚を醤油で煮しめた「佃煮」発祥の地でもあり、老舗が3軒残っています。馬場さんが佃島渡船の歴史を説明してくれました。
「明治36年に相生橋(あいおいばし)ができるまで、佃・月島地域に橋はなく、通勤・通学も生活物資の運搬も舟運に頼っていたのです。生活用水も井戸だけでは賄えないので水売りが渡船に乗ってやってきました。大正15年に市営化し、昭和2年からはそれまで有料の手漕ぎ船だったのが、動力船による無料の曳舟へ。昭和39年に佃大橋ができたことによって渡船はその役割を終えました」
隅田川には、日露戦争の勝利にちなんで名づけられた「勝鬨の渡し」もあって、勝鬨橋の名の由来です。佃の渡しと勝鬨の渡しの間には「月島の渡し」。この三つが隅田川の渡船として使われていました。
次に佃住吉神社に向かいますが、境内が狭いため3グループに分かれ、ボランティアガイドの黒野富太郎さん、天野譯溥(つぐひろ)さんにもナビゲーションをお願いしました。
(注1)埋枡
現在の水道管の継手の役割を果たすもの。
佃島を埋め立て開拓した漁民は1646年(正保3)、ふるさと摂津国の住吉神社を分社しました。それが佃一丁目の住吉神社の起源です。鳥居に掲げられた陶製の扁額(注2)は1882年(明治15)、書の達人でもあった有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)の筆によるもの。境内の水盤舎は、1841年(天保12)に木綿問屋の白子組が寄進したもので、四周の欄間に目を凝らすと、石川島の燈台や渡し船、帆を張った回船や網を打つ小舟など、かつての佃島の景色が浮き彫りにされていました。
住吉神社には3年に一度の本祭に繰り出す「八角神輿」が収蔵されており、ガラス張りで外から一部が見えます。八角形は、なんでも天皇陛下の高御座(たかみくら)を模したとか。3年前まで使っていた築200年の古い神輿と新しい神輿の2体が鎮座しています。1962年(昭和37)までは海中渡御も行なわれていたそうです。
住吉神社の裏手には、隅田川から逆L字型に続く佃川支川が残っています。レンガ造りの旧神輿蔵の脇に入っていくと、運河(掘割)を見ることができます。江戸時代からまったく同じ姿かというとそうではないようですが、午前中に見たように多くの掘割が姿を消した今となってはとても貴重な存在です。今でも釣り船がここから隅田川に出入りしています。
(注2)扁額(へんがく)
建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(がく)や看板。
佃小橋に向かい運河(佃川支川)に沿って歩くと、船溜りがあります。そこから乗った船は隅田川への水門(住吉水門)から出入りします。
馬場さんが何の変哲もない路地を指さし「このように中央へ向かい傾斜し、排水の溝が切ってあるのが佃・月島地域の昔ながらの路地の特徴です」と教えてくれました。
佃川支川をまたぐ佃小橋を渡りました。佃大橋の建造とともに佃川は埋め立てられ、今は佃川支川として入堀のような形になっています。運河の岸側にコンクリートで囲われた一角がありました。実はこの中に、住吉神社の3年に一度の本祭で使われる大幟(おおのぼり)の抱木(だき)と柱が埋められているのです。祭の1カ月前に氏子の人たちが運河の底から柱を掘り起こし、水洗いして干し、大幟を立て、祭が終わったらまた埋め戻します。江戸時代から変わらぬ習慣だそうです。運河に埋めておくのは「土のなかで一定温度に保つことによって木の柱が腐ったり風化することを防ぐための工夫」(馬場さん)とのこと。佃橋のたもとに抱木を設置して大幟を立てる場所がありました。大幟は全部で6本立ちます。
佃川支川脇の佃浪除稲荷神社へ。五穀豊穣と海上安全の神様を祀り、佃島漁民の信仰を集めた小さな神社です。足元にいくつかある大きくて丸い石は「さし石」。地元の若者が力比べをして、ウェイトリフティングのように持ち上げた石だとか。さし石の〈さし〉は〈さしあげる〉の意で、神輿を持ち上げることを〈さす〉というのと同じです。江戸から明治にかけて特に全国の漁村によく見られた習俗で、祭りの際に男前を競いました。馬場さんが「この石、重さはどのくらいだと思いますか?」と聞くと、参加者から「30キロ?」。「いえいえ、30キロだと皆さんがんばれば持ち上げられますよね? それでは男前とはいえません。およそ60キロ以上。そうです、米俵より重い。米俵を持ち上げられない男は男じゃない、というわけです」との説明に一同、納得しました。
佃浪除稲荷神社もその一角にある佃川支川の親水公園、佃公園で本日のゴール。このあと希望者のみ、歩いて数分の月島駅近くにある、かつての佃川沿いで舟運の荷下ろしをしたクレーンの名残を見学しました。現在は使われていない錆びついたクレーンが、ここに運河があったことをひっそり伝えています。
新富町から明石町、佃島へと東京湾岸の埋め立て地域を運河跡に導かれて歩き巡った1日。〈水の記憶〉がよみがえったばかりでなく、水辺とともに生きたかつての人々の暮らしぶりにも思いを馳せることができました。
そして今も残る佃川支川という運河(掘割)が、大幟の抱木と柱の収納場所として使われているという事実に驚きました。また、この運河を用いる釣り船屋が、今も商いを続けていることにも目を瞠ります。これは運河が佃島に住む人たちの暮らしに溶け込んでいるからではないでしょうか。思い起こせば摂津国からはるばるやってきて、苦労しながらも生活の場をつくり、そして保ってきたのは先人たちです。その感謝の念と歴史に培われた「わが街への誇り」が、運河や伝統をきちんと残しているのかもしれません。
祭りの準備に泥だらけになりながら掘り起こし、また埋め戻す地元の人たちが、江戸時代から連綿と続く〈水の記憶〉を未来へ引き継いでいくのでしょう。
「運河だけでなく、江戸時代からの歴史を知ることができて有意義でした。また、佃島でのボランティアガイドさんのお話もよかったです」(40代女性)
「中央区にこれほど多くの橋があったとは知りませんでした。抱木と柱は土のなかに埋めた方がもちがよい、と初めて聞いて驚きました」(70代男性)
「『埋め立てられた運河から水の記憶をたどる』というタイトル通りに、運河(掘割)の変遷がとてもわかりやすく、理解が深まりました」(50代男性)
「運河の変遷はもちろんのこと、江戸・東京の街全体の移り変わりを、文化・歴史を交えて話していただいたので、とても興味深い内容でした」(50代女性)
「江戸という街ができていく過程で、運河・堀が大きな役割をもっていたのですね。近所にある、今は暗渠になってしまった『かつての川』の記憶をたどってみたいと思いました」(70代女性)
(文責:ミツカン水の文化センター)