江戸時代、利根川と江戸川の分岐点(江戸川流頭部[りゅうとうぶ])の城下町「関宿」(せきやど)は舟運による物流と産業の要衝でした。今回の里川文化塾は、千葉県野田市の関宿を訪ね、河川交通の移り変わりとともにあったまちの歴史を知り、川のそばに住んだ昔の人々の暮らしに思いを馳せました。千葉県立関宿城博物館でレクチャーを受けたあと、館内を見学。そして河川改修の遺構や関宿水閘門(すいこうもん)(注)をフィールドワーク。対岸の茨城県境町に渡り「高瀬舟さかい丸」に乗船。利根川を遡り、江戸川の流頭部や関宿水閘門を巡りました。
(注)関宿水閘門
1927年(昭和2)に竣工した、利根川改修事業のシンボル的な存在。「水閘門」とは、水流を制御する水門と水位を調節して船が通行できる閘門が併設されている河川構造物
千葉県立関宿城博物館 学芸課 主任上席研究員
尾﨑 晃(おざき・あきら)さん
千葉県立房総のむら、千葉県立総南博物館(現・中央博物館大多喜城分館)、国立歴史民俗博物館、千葉県文書館、千葉県立現代産業科学館を経て2013年4月に千葉県立関宿城博物館に着任。佐倉、大多喜、関宿と城のある地域に合計10年以上勤務。専門は歴史学(日本近世史)。
Crayfish株式会社 代表取締役
ライター・編集者
ミツカン水の文化センター事務局
前川 太一郎(まえかわ・たいちろう)
生協職員、業界紙記者を経て編集制作会社に入社。まちづくり・地域活性化をテーマとする広報誌・書籍の編集・執筆を担当。2010年12月独立。2014年11月法人化。ライター・編集者として、水の文化やまちづくり、東北の復興支援活動、団地再生からのまちづくりなどを追う。(機関誌『水の文化』の編集には49号[2015年2月発行]から携わる)
関宿城の天守閣を模した千葉県立関宿城博物館は、利根川と江戸川に挟まれたスーパー堤防上にあります。門をくぐると、江戸時代に使われた蛇籠(じゃかご)(注1)と小舟の展示がすぐ目に入りました。小舟は、母屋より高く土を盛った「水塚」(みづか)の軒下に吊るして洪水避難用に使われたもの。かつて川べりに暮らした人たちは、ふだんから各々水害に備えていたのでした。
午前中は、同博物館主任上席研究員・尾﨑晃さんのレクチャー「関宿を軸とした利根川・江戸川の舟運と産業および人々の暮らし」を聴講しました。
千葉県最北西部の関宿は、埼玉県と茨城県に境を接し、ちょうど三県の交点に位置しています。広く関東平野を見渡すと、ちょうど中心に位置することがわかります。
尾﨑さんによれば、関宿に城が築かれたのは約550年前のこと。実は、関宿は鎌倉時代から荘園の産物を輸送する水運が発達したため、北関東の交通の要衝として重視されていたのだそうです。
「上杉氏と足利氏が関東を二分して争った享徳の乱の時代、1454年(享徳3)ごろ、古河公方(注2)・足利成氏(あしかが しげうじ)の重臣、簗田(やなだ)氏が入城しました。関東管領(注3)だった上杉憲忠と対抗する、古河の出城のような役割を果たしたのです」
関東の制圧を目論んでいた北条氏康は「彼の地(関宿)を手に入れることは一国を手に入れる事と替え難き程」とまで言ったそうです。事実、関宿は戦略上の要地であり、戦国時代末期にはなんと3回にわたり合戦が繰り広げられました。
1551年(天文20)ごろから簗田氏と北条氏の関係が悪化し、1565年(永禄8)に第一次関宿合戦が、1568年(永禄11)に第二次関宿合戦が起こり、1574年(天正2)の第三次関宿合戦でとうとう落城し、北条氏が関宿を手中に収めます。北条氏は関宿を北関東進出の拠点と位置づけ、台宿(現・関宿台町)と網代宿(現・江戸町)を中心に城下町を整備。これが発展の礎となります。今から440年ほど前のことです。
1590年(天正18)に北条氏が滅んだ後は、江戸に入府した徳川家康が異父弟の松平康元を封じました。以後、小笠原氏、牧野氏、板倉氏、久世氏が藩主となって明治維新を迎えます
「歴代藩主がことごとく幕府の重職を担った関宿城は俗に『出世城』と呼ばれました」と尾﨑さん。例えば、牧野親成(まきの ちかしげ)は京都所司代に、板倉重郷は寺社奉行、久世広之は老中・若年寄、牧野成貞は側用人、久世重之は老中・若年寄・寺社奉行、久世広明(くぜ ひろあきら)は老中・若年寄・寺社奉行・京都所司代、久世広周(くぜ ひろちか)は老中・寺社奉行・奏者番(そうじゃばん)(注4)をそれぞれ務めることになります。江戸に近く、交通の要衝だったため、幕府の重職を担う譜代大名が配置されたのです。
江戸初期の関宿の絵図を尾﨑さんが見せてくれました。関宿城本丸を中心に南東へ向けて二の丸、三の丸、武家屋敷が配置されています。つまり南関東へ向けての城でした。城下町の南端を江戸湾へ流れる江戸川沿いには関所がありました。水陸両面で交通と経済の中心地だったことがわかります。
(注1)蛇籠
竹または鉄線で粗く円筒形に編んだかごに石を詰めたもの。河川の水流制御や護岸などに用いる
(注2)古河公方
下総国古河を根拠地とした足利成氏とその子孫
(注3)関東管領
室町幕府が関東の政治を総管させるため鎌倉においた職名
(注4)奏者番
1632年(寛永9)に設置された江戸幕府の職名。大名、旗本が将軍に謁見するとき、姓名や進物を披露し、下賜物を伝達する取り次ぎの役。城主の格式をもつ譜代大名が務めるのを建前とした
もともと水運が発達していたことに加え、家康による関東入封と江戸開府で利根川の水運は重要性を増し、後背地である北関東の開発も進みました。
なかでも大規模だったのが、水運網の拡張、洪水対策、新田開発などを目的とした利根川の「東遷事業」です。これは、江戸湾に注いでいた利根川本流を銚子沖に注ぐようにつけ替えるという大工事。この結果、利根川の分流として江戸川が開削され、関宿は利根川と江戸川の分岐点になったわけです。渡良瀬川、鬼怒川、小貝川も利根川に合流させ、利根川水系の交通網を開発しました。
江戸期の交通路を「人は陸・物は水」と尾﨑さんは表現します。
「道路事情が悪く、大八車は宿場間の通行が禁止され、馬や人ではたくさんの荷物を運べません。職業が専業化し、地域間や身分間の交流が盛んになり、社会が豊かになればなるほど、物資の大量輸送に舟運が大きな役割を果たしたのです」
農民は年貢と種籾以外の生産物を売却し、塩や衣類・農具などを領内商人から購入しました。藩は年貢などの領内産物のうち一部を藩士の禄米に支給し、領内商人を通じて残りの産物を江戸や大坂などの大きな市場に輸送・換金。藩士は藩から支給された禄米のうち自らの食用を除いた分を領内商人に売却し、生活必需品を購入しましたし、商人は換金した現金と大市場で購入した領内の非自給物資を搬送したのです。このように江戸時代の社会は物資の流通を前提として発展していきましたが、それは舟運が支えていたのです。
舟運の拠点だった関宿は「河岸」の町でもありました。河岸とは、河川や運河、湖沼の岸にできた港や船着場のこと。積み荷を扱う商人が集まり、蔵が建ち並び、市場が開かれました。茶屋、旅籠、遊郭、賭場などもできたそうです。
利根川対岸に境河岸。江戸川沿いに内河岸。その対岸に向(むこう)河岸。利根川・江戸川の結節点である関宿には三つも河岸がありました。たいそうな賑わいだったようです。まさに東北地方と江戸を結ぶ流通の拠点だった証です。
明治の新政府は、駕籠(かご)かき人足や馬を無償で宿場町が幕府や藩に提供していた伝馬・助郷(でんま・すけごう)制度を廃止しました。いうなれば陸上交通が民営化され、誰でもお金さえ払えば好きなところへ行けるようになったのです。
蒸気船が開業すると、各地の河岸問屋は、幅広い権限をもつ半官半民の「内国通運」(のちの日本通運株式会社)の傘下に入ります。関宿の境河岸もそうでした。蒸気船の寄港場では、切符販売、荷物の配送、飲食の売店や旅館など、さまざまな業務が発生します。蒸気船「通運丸」の就航で、関宿は利根川上流域と東京を往来する荷物や人の中継地としての役割を果たしたのです。
尾﨑さんは通運丸開業当時の広告を投影し、「この文言(人民の往復自在の策を起こすにしかざれば時間の緩急にて交際上の損益に関すること今更論をまたざるなり。)は、要するにタイム・イズ・マネーだと。何日もかかっていた東京〜銚子間が蒸気船なら1日。しかも定時運行が可能になり少しの遅延もない」と解説してくれました。
ところが1884年(明治17)に高崎線が開通すると、取扱荷物が減ります。鉄道路線から外れた関宿は、しだいにかつての賑わいを失っていきました。周辺でやはり利根川・江戸川水運の利用が盛んだった野田・流山が、鉄道路線の敷設と地場産業の発達によって引き続き発展したのとは対照的です。
水運を利用しやすい関宿は、当然ながら水害を受けやすいまちでもあります。江戸期には主なものでも7回、明治以降でも6回、大洪水に見舞われています。特に甚大な被害を受けたのは、1742年(寛保2)の利根川破堤、1783年(天明3)の浅間山大噴火後の洪水、1910年(明治43)の利根川水系全般の破堤、1947年(昭和22)のカスリーン台風(当時は米軍統治下だったため米国式の台風名)による江戸川破堤でした。
尾﨑さんによれば「関宿城本丸はこの博物館から500m足らずのところ。利根川と江戸川に挟まれたここの地名は『三軒家』といいますが、これはしょっちゅう洪水で流されて家が三軒しかなかったからと伝えられています」とのことです。
江戸幕府も手をこまぬいていたわけではなく、川岸から丸太を多数打ち込んで川幅を狭める「棒出し」などの治水対策を施しました。また印旛沼の干拓や掘割工事などを行ないましたが、担当者が交替すると工事が中断になることもしばしば。明治期には、利根運河の開削、利根川・江戸川改修工事などの対策がとられました。1918年(大正7)に着工された関宿水閘門は1927年(昭和2)に完成。昭和30年代には利根川水系に多目的ダムの建設が進み、1989年(平成元)には関宿にスーパー堤防が着工します。
しかし、〈お上〉に頼るばかりではありません。昔の人々は、今の言葉でいえば「自助」によって水害に備えていました。それが「水塚」と、軒先に吊るされた移動用の小舟です。洪水時の緊急避難場所として、母屋よりも一段高く土を盛り、納屋や土蔵が建てられました。今ではほとんど見られず、この付近でも一軒しか残っていませんので、関宿城博物館の模型モデルでその様子を知るしかありません。また、水害の常襲地帯ゆえ、農業も米・麦から、野菜類や酪農に変わったということです。
最後に尾﨑さんは、2015年9月に発生した鬼怒川水害時に、河川敷が水没した江戸川流頭部の写真を見せてくれました。水運によるまちの繁栄や、漁と船稼ぎで川の恩恵を直に受けていたからこそ、昔の人々は川の脅威にも敏感で、備えを怠りませんでした。
午後は、まず尾﨑さんのナビゲーションで関宿城博物館を見学しました。
エントランスホールには関宿城下町のジオラマがあり、地形が見てとれます。
「利根川と江戸川を結んで弧を描くように関宿城の五重の掘があるので、関宿城はもともと川を埋め立ててつくったのだろうと思います」と尾﨑さんが説明するように、平坦な川べりの土地に築かれた城だったことがわかりました。
第1展示室には、関宿の民家に一軒だけ残されている水塚を模した実物大の模型がありました。人の背丈ほどの盛り土の上に二階建ての家。二階の軒先には小舟が吊るしてあります。洪水が迫ってきたら二階に避難し、それでも危ないようなら小舟で脱出したのです。階段を上って二階を覗くと、2〜3日暮らせるくらいの物資が保管されている様子が再現されていました。
大洪水の被害を描いた明治・大正時代の絵葉書が展示されていました。風光明媚な観光発信だけでなく、土地の実情を知らせる役割も当時の絵葉書は担っていたのでしょう。明治時代の築堤工事を表した模型を見ると、トロッコで土砂を運搬しています。「トロッコに使われた実際のレールが、これから行く中之島公園の藤棚に利用されています」と尾﨑さんが教えてくれました。
利根川東遷事業の推移を表した展示は、瀬替え(河川を付け替え、新たに河道を掘削すること)して、東京湾へ注ぐ川を銚子港へ注ぐ川へと変えていく大工事のようすを示しています。これにより、東北地方の物資の輸送に銚子沖の海路を使う必要がなくなり、海難事故に遭わず安全に短時間で江戸へ運べるようになりました。以後、銚子から利根川を経由するこの水上路には多くの中継地が発展し、関宿は最も賑わった要衝の一つだったことが改めてわかります。
天守閣部分の4階展望室に登ってみました。北側に見えているのが江戸川流頭部。この日はあいにくの空模様でしたが、快晴で空気が澄んでいれば、筑波山、日光連山、スカイツリー、富士山も望めるそうです。
利根川水運の主役として活躍した高瀬船の3分の1模型の展示室へ。高い帆を掲げた高瀬船は最大全長約30m・米俵1300俵を運べました。河岸問屋としょうゆ蔵の風景も再現されています。利根川水運の発達で、野田・銚子のしょうゆ、佐原の酒、流山のみりんなどの産業が発達しました。関宿藩から領内特産物として奨励されたのが猿島の茶。猿島茶は幕末になると海外にも輸出されていたそうです。
博物館を見て回り、かつての関宿の様子が立体的につかめました。
尾﨑さんの案内で中之島公園を歩き、関宿水閘門へ。途中に、午前中のレクチャーで触れた「棒出し」に使われた石の遺構がありました。棒出しとは人工的に川幅を狭め、両岸を石枠や杭で固めたものです。川の両岸から石や丸太数千本を打ち込んで川幅を狭め、江戸川に流入する水量を抑制して江戸川流域を水害から守ろうとしました。天保年間(1830〜1840年)に地元の豪農が農民から資金を徴収し、幕府に差し出して建造したものといわれています。明治期に棒出しは石積みやセメントを使った角石張りに改築され、1927年(昭和2)に関宿水閘門ができると水量調節の役割を終えました。
赤茶けたコンクリート造りの威容に歴史の重みを感じる関宿水閘門。「水閘門」と呼ぶのは、流量を調節して洪水を防ぐ「水門」と、利根川と江戸川の水位を調節して船の運航を可能にする「閘門」の機能を併設しているからです。 それまでの水門は煉瓦造りが主体だったので、ちょうどコンクリート造りに移行する時期の文化遺産的な価値の高い貴重な建造物とのこと。水閘門の上は通路になっていて、子どもたちが自転車で通り抜けていきました。こうした歴史的な土木遺産が橋として日常的に使われている景色は、なかなかいいものです。
近くに1962年(昭和37)から26年間使われていた関宿水門水位観測所が残っています。ちなみに、この地点でこれまで最も水位が上がったのは、江戸川が破堤した1947年(昭和22)9月15日のカスリーン台風のとき。計画高水位(8.48m)ぎりぎりの8.47mでした。
博物館見学で尾﨑さんが教えてくれた、かつてのトロッコのレールを利用した藤棚がありました。明治後期から昭和初期までの利根川第一期改修工事で行なわれたのは、湾曲した河道を直線にするための開削と浚渫(しゅんせつ)。排土は築堤や埋め立てに使われ、大正初期までは人や牛馬がトロッコで運んでいたのです。
博物館の駐車場近くまで戻ってくると、浚渫船と水路浚渫機が屋外展示されてありました。浚渫船「山王号」は、1967年(昭和42)から1989年(平成元)年まで現役だったもの。上流から流れてくる土砂がたまりやすい江戸川流頭部では、水の流れを確保するために川底の土砂をさらう浚渫作業が必要になります。山王号は硬い川底も掘ることができ、分割して陸上輸送も可能です。
陸上も走れて、浚渫船が入れない浅瀬でも作業できるのが水路浚渫機。キャタピラー車からゾウの鼻のようにアームが伸びたこの水路浚渫機は、関宿水閘門に堆積した土砂を取り除く作業に、1976年(昭和51)から1993年(平成5)まで従事しました。利根運河の浚渫や中川の堤防工事にも使われたそうです。
ここで尾﨑さんの案内は終了し、参加者との質疑応答。利根川下流域では銚子に次いで栄えた佐原と関宿との関係、江戸時代以前の関宿の様子などについて質問が出ました。尾﨑さんによれば、佐原も関宿も利根川舟運の中継地点として大きな役割を果たし、利根川が直接江戸湾に注いでいた中世の時代も、周辺の大小河川を使って関宿は水運の拠点だったに違いないとのことです。
締めくくりに、船上から江戸川流頭部と関宿水閘門を眺めるリバークルーズを体験しました。利根川をバスで渡って茨城県境市の境リバーサイドパークへ。現代の高瀬舟「高瀬舟さかい丸」が金・土・日に運航しています(運航時期は要問い合わせ)。
境河岸のかつての賑わいを偲びながら乗船。風を切って利根川を上流に進む船の左手に、利根川と江戸川の分岐点、江戸川流頭部が見えてきました。
潅木(かんぼく)に覆われテトラポットで護岸されています。このあたりでは、初夏に乗船すると利根川に棲息するコイ科の大魚・ハクレンの群れが白波を立ててジャンプする光景を見られることもあるそうです。
船が左旋回し、江戸川を下流へ進んで、関宿水閘門に近づきます。改めて川面から眺めると、土木遺産ならではの風格を感じました。
レクチャー、博物館見学、フィールドワーク、船上クルーズと、盛りだくさんのプログラムで関宿の歴史と産業を学んだ一日。高瀬舟から蒸気船に変わった明治時代半ばまで、関宿が東北・北関東と江戸を結ぶ交通ネットワークの拠点として賑わったことがよくわかりました。それは絶えざる河川の改修工事によって舟運網が整備されたことによります。と同時に、河岸の繁栄は洪水の危機と背中合わせでした。築堤や瀬替えなどの「公助」による水害対策のみならず、川とともに暮らしたかつての人々が、水塚の設置や小舟での避難といった「自助」で水の脅威と向き合っていたことも忘れないようにしたいものです。
「関宿城博物館には以前から興味がありましたが、アクセスがあまりよくないため来られませんでした。今回ようやく念願がかないました。座学とフィールドワークのバランスもよかったです」(20代女性)
「講師の尾﨑さんのお話がとてもわかりやすくて、おもしろかったです。周辺を自由に散策できたことも楽しかった。そして、利根川と江戸川の合流点を見ることができたクルーズが印象に残りました」(40代女性)
「講師の尾﨑さんが『水に近いことはマイナス要因だけではない。プラス要因も多い』とおっしゃったことが印象的でした。また、関宿城博物館の展示も予想以上に充実していて驚きました」(50代男性)
「関宿にこのような歴史があるとはまったく知りませんでした。かつては川の物流の拠点だったのですね。とても興味深かったです」(50代女性)
「利根川東遷の話は知っていましたが、江戸川との分岐点に立つとスケール感や関宿の川湊の繁栄などが実感できました」(60代男性)
(文責:ミツカン水の文化センター)