房総丘陵の小櫃川(おびつがわ)周辺に今も残るトンネル状の用水路「二五穴(にごあな)」は、江戸時代後期から明治時代初期にかけてつくられたもの。すでに100年以上使いつづけられています。丘陵地にトンネル状の水路を使って灌漑する水田はさまざまな形態のものがつくられてきましたが、二五穴のように現在も活躍している灌漑用水路はそれほど多くありません。二五穴の名の由来は、幅二尺×高さ五尺(およそ60cm×150cm)の大きさから。長いトンネルは200〜700mあり、これを開渠(ふたをしていない水路)でつなぎ用水路を形づくっています。今回は全長7kmの「大戸用水」と全長10kmの「平山用水」の一部を巡り、先人たちの苦労と技術を学びました。
国立歴史民俗博物館 研究部 教授
メタ資料学研究センター長
西谷 大(にしたに・まさる)さん
1959年京都府生まれ。1985年熊本大学文学研究科修士課程修了(考古学専攻)。中華人民共和国中山大学人類系に留学。専攻は中国考古学・東アジア人類史。2011年度より国立歴史民俗博物館と千葉県立中央博物館が実施する共同研究「日本の中山間地域における人と自然の文化誌」に島立さんと一緒に参画。
千葉県立中央博物館 主任上席研究員
島立 理子(しまだて・りこ)さん
専攻は民俗学・日本近代史。房総丘陵に生活する人々が、地域の自然とどのようにかかわりながら生活してきたのかを調査・研究。
ライター・編集者
ミツカン水の文化センター機関誌『水の文化』編集
前川 太一郎(まえかわ・たいちろう)さん
生協職員、業界紙記者を経て編集制作会社に入社。まちづくり・地域活性化をテーマとする広報誌・書籍の編集・執筆を担当。2010年12月に独立し、2014年11月にCrayfish株式会社設立。水にまつわる文化や歴史、まちづくり、東北の復興支援活動、団地再生などを追う。
朝9時、JR総武線の津田沼駅に集合した参加者一行は、バスに揺られること約75分、「君津市立久留里城址資料館」に到着しました。ちょっとした小旅行のような感覚です。
久留里城は、戦国時代後期に越後の上杉謙信らと同盟を結び北条氏と対立した里見氏6代義堯(よしたか)が本拠とした城です。その後、徳川の治世となり久留里城は久留里藩の藩庁として整備され、近世城郭として明治維新まで維持されました。城の完成後、3日に一度雨が降ったという伝説から「雨城(うじょう)」の別名もあります。
午前中は、「二五穴」を調査・研究されている国立歴史民俗博物館 研究部 教授の西谷大さん、千葉県立中央博物館 主任上席研究員の島立理子さんによるレクチャー「二五穴の成り立ちと房総丘陵部の里山文化」を聴講しました。
前半は二五穴がつくられた背景について西谷さんから、後半は主に文献からみた二五穴について島立さんよりお話がありました。
「地域の自然環境を利用して豊かに生きようとする人々の行為が里山をつくりますが、一言で〈里山〉といってもさまざまな形があり、変化の歴史があります。今日皆さんに見ていただく二五穴もまた、一つの里山のタイプだと思います」と西谷さん。
二五穴は江戸時代の終わり頃から明治時代にかけて房総丘陵の各地でつくられ、約180年たった今も房総丘陵の小櫃川周辺(君津市)で使われている、トンネル状の用水路です。横幅二尺×高さ五尺(およそ60cm×150cm)のトンネルであることから、総称して二五穴という名前がつきました。小櫃川上流で現役の二五穴は、「蔵玉・折木沢用水」(全長約5km)、「大戸用水」(全長約7km)、「平山用水」(全長約10km)、草川原用水(全長約3km)と全部で4つ。長いものはトンネルの長さが200〜700mもあり、これをつないで一つの用水路を形づくっています。
「蔵玉地区で調査をはじめたとき、水路が地上に出ている部分がほとんどなく、どのように走っているのかわからなかったので、トンネルの中を歩いて調査しました。二五穴といいますが、実際は入り口だけが二尺×五尺で奥に入るとだんだん低く狭くなっていきます。理由はお金に関係したのではないかと考えています。狭いトンネル内で土を外に出していくわけですから、トンネルが長くなればなるほど土を出すのが大変になり、単価も高く設定されたのでしょう。こうしたトンネルが山の中をくねるように4本も張り巡らされ、現役で灌漑しているのです」(西谷さん)
米をつくるには水を引かなければなりません。そのために昔からさまざまな工夫がなされてきましたが、このようなトンネル状の水路を使って灌漑する水田は全国的にも珍しいそうです。
なぜ、このような穴を掘る必要があったのでしょうか? それには、房総丘陵特有の地形がありました。
房総丘陵は谷が深いため川と耕作地の標高差が大きく、目の前を流れる小櫃川から直接水を引いて農業用水にすることができませんでした。そのため、長い間水不足に悩まされていたのです。この水不足を解消するためにつくられたのが、のちに二五穴と呼ばれる用水路です。
二五穴は小櫃川のなかでも上流(耕作地と同じ標高の地点)からトンネルを使って水を引いてくることで、川の水を農業用水として利用することを可能にしました。間には山もたくさんあるため、トンネルを掘るしかなかったのでしょう。まさに、房総丘陵の地形を巧みに利用した用水路といえます。
トンネル状の用水路がつくられたもう一つの理由として、西谷さんは地質学的な観点からも指摘します。房総半島は3つの古い層と新しい層が重なることで地形をつくっています。
「この周辺の地形は基本的に非常に硬く締まった砂質で、比較的掘りやすく崩れにくい性質があります。君津市から房総半島の先端に向かうと、地質が固く簡単には掘れません。そして君津市から北上すると柔らかすぎてすぐに崩れてしまう。このような地質的な特性も、トンネル状の用水路が掘られた一つの理由と考えられるでしょう」
5年前に起きた東日本大震災の際にも、二五穴はまったく崩れることがなかったそうです。
次に、二五穴以前に房総丘陵ではどのような場所に水田がつくられ、どのような方法で新田開発をしてきたのかについて、島立さんよりお話がありました。
私たちの先祖は、安定した収量を得るためにさまざまな方法で水田をつくる努力をしてきました。
代表的なものに「堰」(貯水池)があります。沢水などをせき止めて堰をつくり、そこから用水を引く方法です。江戸時代半ばには各地に堰があったと文献にも記されています。しかし房総丘陵の小さな堰では日照りが続けば枯れてしまい、広い面積を潤すこともできず、安定した収量は見込めませんでした。
堰のほかに、「川廻し」という方法も行なってきました。蛇行していた河川を人工的にショートカットし、蛇行の跡(水が流れていた部分)を水田にするものです。もともと河床なのでほどよい沢水もあり、大規模な灌漑設備を施さずして新田をつくれるメリットがあります。房総半島南部の河川には、この川廻しの特徴的な地形が今も残っています。
川廻しも江戸時代に房総丘陵の各地で行なわれていました。蔵玉地区に残る蔵玉区有文書の中に、1840年(天保11)の蔵玉村の絵図が残されていますが、この絵図にはすでに川廻しが描かれています。少なくとも、これ以前から川廻しが行なわれていたということです。
ただ、この蛇行跡の水田は大雨が降ると大量の水が入り込んでくるため、鉄砲水によって潰れてしまう可能性があります。そこで、もっと安定して米がつくれる水田を、と考え出されたのが二五穴でした。
下の図のように、もともと畑だったところに二五穴の用水路がくることで、畑だった場所が水田に変わります。雨が降ったからといって鉄砲水が水田に押し寄せることもなく、大雨が降りそうなときには取水口で二五穴に入る水を止めればいい。しかも本流から水を取っているので水が枯れる心配もありません。
「都合のいいときに都合のいい分量だけ水をもってくることができる。つまり、二五穴は房総丘陵特有の水による水田の悩みをすべて解消したことになります。二五穴によって水田が増え、収量も安定しました。二五穴の開削は農業革命だったといっても過言ではありません」(島立さん)
二五穴は誰が、いつ、どのように掘ったのかについて、同地区に残る文献(君津市蔵玉 朝生家文書)を例に「蔵玉・折木沢用水」を みていきます。「蔵玉・折木沢用水」は1852年(嘉永5)から翌年にかけて開削されます。開削は、黄和田畑村(現:君津市黄和田畑)の粕谷卯之助と、小苗村(現:大多喜町小苗)の又右衛門が請け負ったと記されています。
卯之助らが提出した「請負書」から当時の工事の様子を探ります。まず、誰が掘ったか。請け負ったのは前述の二人ですが、もちろん二人だけで掘ったのではありません。文書の最後の部分に「小屋場においては、喧嘩は勿論、いかがわしいことはしません」と書かれています。卯之助らはいわば工事の会社のようなものを経営しており、彼らが集めた職工(職人)たちが工事期間中だけ小屋を建てて住み込み、トンネルの掘削を行なっていたようです。
同じように、平山用水を掘ったのも小苗村の職工たちとのことです。
「千葉県でもっとも古いといわれる二尺×五尺の隧道(ずいどう)が久留里と大多喜町にあるのですが、実はこれも小苗村の職工たちが掘っています。小苗の集落に専門の職工が多く住んでいたのではないかと考えられますが、どのような経緯でそうなったのかは文献が残っておらずわかりません」(島立さん)
請負書に書かれている内容はトンネル部分(穴)のみです。ではトンネル以外(開渠部)はどうでしょうか。これは地元の人たちで掘ったようです。つまり、用水のトンネル部分は専門の職工が、それ以外の部分は地元の人が掘るという分業で「蔵玉・折木沢用水」ができあがったのです。「1852年(嘉永5)当時、地元の人もある程度の測量技術はもっていたのでしょう」と島立さん。
次に、費用はどうしたのでしょうか。同じく朝生家に残された文書の中に、費用は「発起人が各自応分に分担貸与。普請金は金五六八両二分二朱、銀六匁六厘六毛」とあります。発起人とは灌漑域の村役人たちのことで、彼らが五六八両あまりの普請金(工事費)を、藩に上納したということになります。五六〇両を現在の額に換算すると5600万円ほどです。
普請金を藩に上納することで、「自普請」が「御普請」(注1)になります。これによりその後のトンネルの管理は領主が行なうことになり、さらに開通後7年間は租税も免除されることになるそうです。「おそらく上納金の五六〇両も元が取れたのではないか」と島立さんは分析します。
「こうしてできた二五穴が今も現役なのは大変興味深いことです。組合員だけで管理できるうえ、電力もいっさい使用しないので、用水の管理費はとても安いと聞きます。今後も史料の解読を続け、歴史を明らかにしていきます」と島立さんは講義を締めくくりました。
(注1)自普請と御普請
江戸時代、特に用水や道橋などの工事において、周辺村落が費用を出して行なった工事を「自普請」、領主側が費用を負担して行なった工事を「御普請」という。
ここで資料館2階にある展示コーナーへ移動し、君津市指定文化財に登録される『平山用水開墾絵馬』(1836年[天保7]製作)を見学しました。
君津市の東にある亀山湖から取水し、久留里の南の平山地区まで用水(平山用水)を引くためにトンネルを掘り、水を流し、大原大地に水田を開墾するまでの様子が詳細に描かれています。おそらく当時の人は絵馬を見ればどこに平山用水が走っているのか、自分たちの村や水田がどこにあるのかが一目瞭然だったのでしょう。亀山湖の水位が下がる夏になると、実際に絵馬の一部分と同じ風景を見ることができるそうです。
「午後はぜひ想像力を膨らませて、当時の風景の中にある二五穴の様子も思い浮かべながらご覧になってください」という西谷さんの言葉に、参加者一同フィールドワークへの期待もますます高まったようでした。
午後からは再びバスに乗り、西谷さん、島立さんの案内で二五穴見学へ出かけます。資料館のエントランスに集まった参加者は各自持参した長靴に履き替え、足元に蛭(ひる)よけのスプレーを噴きかけます。「本当に蛭がいたらどうすればいいですか?」という不安の声も……。この日はあいにくの天気だったため、ポツポツと小雨が降るなかでのスタートになりました。今回は二五穴を維持管理している用水組合のご協力を得て、ふだんは見られない私有地も含めて大戸用水と平山用水の一部を見学しました。
最初に訪れたのは亀山湖。1980年(昭和55)に小櫃川に建設された人造湖です。亀山湖は東京ドーム12杯分に相当する貯水量をもつ多目的ダムで、1969年(昭和44)に着工し、10年あまりの歳月をかけて完成しました。
現在の大戸用水と平山用水の取水源がこの亀山湖で、高さを変えて取水しています。亀山湖にかかる橋の上から取水口の様子を見学しました。
「大きなコンクリートの建物が向こうに見えますが、あのあたりから取水しています」と西谷さんが説明してくれました。
「ここで取水した水が道路の下を通って反対側へいきます。そして反対側の壁際を沿いながら下流へ下流へと二五穴が流れていきます。山の中を通っているので見た目には何も見えませんが、実際にはすごい工事をしている。そこは皆さんの想像力で補っていただきたいと思います。これだけではイメージがわきにくいと思いますので、二五穴に入れるところまで実際に行ってみましょう」と西谷さんが促しました。
そして向かったのが大戸用水です。大戸用水は亀山湖から7kmほどのところにある大戸という地区を灌漑しています。ここでは実際に、わずかですが穴の中に交替で入ることができました。真夏だというのに内部はひんやりと涼しく、土ぼこりのような湿っぽい臭いがしました。穴の中は非常に狭く、大人ひとりが通るので精一杯の広さです。
二五穴は「トンネル」と、トンネルとトンネルを結ぶ「開渠部」、トンネルの両端や途中に設けられた「窓穴」と呼ばれる3つの部分からなっています。トンネルは直線に近いものと、山際に沿って蛇行しながら走るものの2種類があります。房総の丘陵地帯は急峻な斜面をもつ丘陵と、その間に広がる狭い谷地からなっています。直線に近いトンネルは丘陵の両側を結ぶ際に、蛇行したトンネルは丘陵の間につくられた谷津田(注2)の周囲の山に沿って水路を通す場合に使われています。
また、開渠部の水路は三面コンクリートによる水路と、山間の小川をまたぐ「掛け樋」、小川を潜る「逆サイフォン」の3種類があります。三面コンクリートの水路は戦後に導入されたもので、それ以前はすべて素掘りだったためかなりの水漏れもあったようです。
ちょうど私たちが入った大戸用水のトンネルは素掘り部分だったため、壁に生々しく残るノミの跡もはっきりと見ることができました。これが180年も前に掘られたものであることを考えると、歴史の重みを感じずにはいられません。中で西谷さんによる説明を受けます。
「壁際にくぼみが見えますが、これはロウソクを立てた跡です。1点は穴を掘る際の明かり取りのため。もう1点は穴を直線に掘らなければいけませんので、ロウソクの火が一直線になるとまっすぐに掘れているという目印の意味もありました」
窓穴の様子も見ることができました。窓穴には開口部に溝が設置されており、通常は板がはめ込まれているのでふさがっています。掃除の際にこれを取り外し、上流から水を流すことで窓穴から土砂やゴミを外に出すそうです。
(注2)谷津田
谷間の低地(谷地)に分布する水田のこと。
二五穴は現在、土地改良区(注3)を中心とした人々によって維持管理されています。どの二五穴も毎年2月半ばから開渠部やトンネル内の掃除を開始し、代掻き(注4)前までには田んぼに水が届くように取水源から二五穴に水を流しはじめるそうです。
フィールドワークの途中で、大戸用水組合の理事長を務める鈴木民夫さんにも来ていただきました。大戸用水の一部を案内してもらいながら、実際の掃除や維持管理など貴重なお話を聞くことができました。
鈴木さんの案内で見学したのは掛け樋です。2年前までは鉄製の大きなパイプでしたが、老朽化のためコンクリートに変えたそうです。大戸用水にはこの掛け樋のように水量を調整する場所がいくつかあります。洪水警報が発令されたり、また台風が接近したとき、水量が増えて二五穴を壊さないように、事前に必ず水量を減らしておくそうです。「非常に神経を使う作業です」と鈴木さんは話します。
「ダムから取水するということで補償金をもらっています(注5)ので、それでなんとか大戸用水を維持管理している状態です。大戸用水では毎年春に2回の草刈り・砂出しのほかに、稲刈りが終わった秋ごろに約10名の組合員でトンネルに入り、破損箇所の確認や整備などの点検作業も行なっています。非常に危険な作業なので当然保険もかけています」と鈴木さん。
作業に参加する人たちは胴長にカッパ、頭にはヘッドライトといういでたちで、鍬(すき)や鋤簾(じょれん)を使って用水路の底に溜まった砂や小石をトンネルの外までかきだします。泥だらけになるうえに、狭い水路の中では相当な重労働です。このような手作業による維持管理があるからこそ、二五穴は現役でいられるのです。
(注3)土地改良区
土地改良法に基づく土地改修事業を施工することを目的として、同法に基づいて設立された法人。「水土里(みどり)ネット」という愛称で呼ばれている。
(注4)代掻き
田起こしが完了した田んぼに水を張って、土をさらに細かく砕き、かき混ぜて土の表面を平らにならす作業。
(注5)代替施設の維持管理補償金
ダムの建設により著しい影響を受ける水源地域の影響緩和や活性化を図るために制定された「水源地域対策特別措置法」(1974年4月施行)によるもの。
続いて向かったのは平山用水です。平山用水はこの後に向かう大原神社のある大原大地一帯の水田を潤しています。全長約10kmの平山用水は、1836年(天保7)に延べ3万9000人が開削に携わり、約3年を費やして完成しました。
山の中を平山用水が走る様子をところどころに確認することができます。私たちが見学した地点では、午前中の講義で説明のあった「川廻し」の地形と開渠部の「逆サイフォン」を見ることができました。
「平山用水のこの部分のトンネルは、川の流れとは逆に遡るように掘られ、ぐるりと谷に沿って回しています。最短距離を通らず、なぜわざわざ遠回りをするのか。これはずっと議論になっているところです」と西谷さんは言いました。
西谷さんと島立さんでは、この構造について意見が割れています。西谷さんは「山の中に穴を開けたほうが構造上強いから」という説を唱えます。「最短距離を通すと川をくぐらせなければいけません。すると構造的に弱くなってしまう。洪水が起こると土砂が流れ込み埋まってしまう可能性があるからです。山の中を通す方が破損などの心配が少なくて済むと考えています」
それに対して島立さんは「トンネルをたくさん掘ると費用が嵩むため、請負業者が儲かります。そういう公共事業的な側面があったのではないでしょうか」という説を主張しました。これは未だに解決しない「二五穴の謎の一つ」とのことです。
この地点でもう一つ特徴的なものが川廻しです。
「川にトンネルがありますが、あれは人工的な穴です。つまり、水田にするために川の流れを変えたのです。この一帯だけで川廻し地形が何カ所かあります。自然を巧みに利用しているようにも見えますが、川の流れまで変えてしまうような大胆な工事を、昔の人々は行なってきたのです。里山という概念は、実はそれほどきれいなものではなく、人が徹底的に自然をつくり変えてきた姿とも考えられるのです」(西谷さん)
亀山湖から10kmの地点、平山用水の最後の出口を見学した後は、今回のフィールドワークのゴールとなる大原神社(大原台地)へと向かいます。
「これが平山用水の二五穴の最終出口です。大戸用水と比べるとおそらくこちらの方が水量は多いです。今は平山用水も大戸用水も亀山湖から水を引いているので、雨が多いときは取水口で水量の調整ができます。しかし、昔はそうした設備がないので雨が降るとそのたびに取水口に行き直接蓋をしていました。万が一吸い込まれると出てこられませんので、この作業がいちばん危険だったと地元の人に聞いています」と西谷さんは説明します。
平山用水の最後の二五穴を出た水は民家の脇を走る用水路を伝って二手に分かれ、一本は道路の北側を、もう一本は道路の南側の水田を潤しています。南側一帯を潤す水は道路横を走るJR久留里線の下を逆サイフォンでくぐり、見渡す限りの一面の水田がある大原台地を潤しています。
ゴール地点の大原神社には、平山用水組合の理事長を務める石井栄吉さんが、駆けつけてくださいました。
「現在、平山用水は組合員170名ほどで維持管理を行なっていますが、非常に厳しい状況であることは確かです。しかし私たちの祖先が苦労してつくり上げたこれだけの設備をなくしてしまうのは寂しいので、何らかの形で残していかなければなりません。そのために西谷先生、島立先生にご協力いただいています。平山用水をどのようにして残し、また維持管理していくか。これは私たちの大きな宿題です。今日の皆さんのように関心をもって見に来ていただけるのは、非常にうれしいことです」という石井さんの言葉をもち、フィールドワークは終了となりました。
「川廻しの地点でお聞きした『なぜわざわざトンネルをつくってまで遠回りさせているのか?』という問いに対する講師お二人のそれぞれの仮説が興味深かったです」(30代男性)
「他団体のメールマガジンを見て初めて参加しましたが、期待以上によかったです。講師の説明がわかりやすく、また二五穴のなかを見られたことがおもしろかったです」(50代男性)
「案内してもらわないとわからない場所が多く、有意義でした。ポイントごとに関係者の方々にご説明いただけてよかったです。そして、水がいかに地域にとって重要なのかを再認識しました」(50代男性)
「百聞は一見にしかずですね。現場を見てよく理解できました。用水組合の方々のお話は実感がこもっていました。二五穴を実際に見て、どんな人たちが掘ったのかを知るとともに、今後の維持管理の難しさが印象に残りました」(70代男性)
最後に見た大原台地は一見どこにでもある田園風景のようですが、講義を聞きフィールドワークを終えた今となっては、その裏にある苦労を想起せずにいられません。機械のない時代に知恵と技術を集結させて長大な素掘りのトンネルを掘ることができたのは、先人の米づくりに対する熱意にほかならないのです。想像を絶する工夫と、危険と隣り合わせの苦労を知った今、自分の周囲の人たちにもこうした歴史と事実を伝えていくことが必要なのかもしれない――。そんなことを思った今回の里川文化塾でした。
午後のフィールドワークに入る前に、資料館2階にある展示コーナーで久留里城址資料館主査の布施慶子さんによるミニ講義「久留里発祥の上総(かずさ)掘りについて」が行なわれました。
「上総掘りは君津市発祥の井戸掘り技術で、二五穴とまったく関係がないわけではありません。二五穴は小櫃川の上流で使われた技術ですが、上総掘りは中流域で発祥した技術と考えてください。それが果ては世界にまで広がったということでいえば、二五穴よりもグローバルな名前ではないかと思います」と布施さん。
「上総掘り」は君津地域の職人たちが育み、明治中期に成立した掘り抜き井戸工法です。布施さんによると、職人2〜3人の力だけで500mあるいは1000mもの深さを掘削したそうです。通常「井戸」と聞いて私たちが連想するのは、直径1mほどの円形の穴を掘りつるべで汲み上げる方式のものですが、上総掘りは細長い鉄管を竹製のヒゴで吊るし、鉄管の自重を利用して地面を突き、地上にいながら細い穴(直径5〜10cm)を掘り進める技術です。
君津市の地下には「関東地下水盆」と呼ばれる、水が圧力を受けた状態の帯水層があります。この帯水層まで掘削できれば水が自噴するため、汲み上げる必要がないというわけです。井戸から水がこんこんと湧く様子も、上総掘りを象徴する光景だと布施さんは言います。
上総掘りは経費や掘削深度、技術などが画期的だったことからすぐに全国へ広がり、温泉、石油、天然ガスなどの掘削に使われていきます。明治後期にはインドでも技術解説書が発行されたそうです。かの有名な別府温泉も明治の後期には飛躍的に経営が伸びました。その理由に「上総掘り」と「交通機関の発達」を挙げる内容が別府市誌にも記されているそうです。1970年代(昭和45〜)に入りいったん役割を終えた上総掘りですが、現在は国際貢献や地域おこしなどの場で新たな使命を帯びて活用されています。
(文責:ミツカン水の文化センター)