機関誌『水の文化』50号
雨に寄り添う傘

地域レポート
「弁当忘れても傘忘れるな」
――言い伝えが生きる金沢市の貸し傘

「濡れたままの傘をお貸しするのは申し訳ないので、できるだけ乾かしてからお出しするよう心がけています」と話す観光案内所の南 春名さん

「濡れたままの傘をお貸しするのは申し訳ないので、できるだけ乾かしてからお出しするよう心がけています」と話す観光案内所の南 春名さん

2015年(平成27)3月14日、北陸新幹線が金沢駅まで開業した。戦災に遭わずかつての姿を今に残す武家屋敷跡、日本三名園に挙げられる兼六園、現代アートの拠点となる金沢21世紀美術館など魅力的なスポットが目白押し。その金沢市中心部では、市役所が6年前から、そして商店街が今年3月から貸し傘サービスをスタートした。なぜ貸し傘にそれほど力を入れるのか。その理由を知りたくて金沢市を訪ねた。

石川県金沢市

傘と長靴が借りられる北陸の玄関口

 東京駅から北陸新幹線に揺られること約2時間30分。金沢駅まではあっという間だった。首都圏と北陸地方がグッと近づいたことを実感する。

 金沢駅の構内にある観光案内所に立ち寄ると、入り口付近には色、柄、サイズもさまざまな傘が傘立てに入れられていた。金沢市の中心部16カ所に設置されている「置き傘サービス」だ。

 突然の雨に見舞われたとき傘を借りることができるし、使い終えたら16カ所ある指定施設の専用傘立てに戻せばいい。貸出書への記入など面倒な手続きは一切不要。観光案内所ゼネラルマネージャーの吉岡一栄(かずえ)さんによると、観光案内所の置き傘サービスは2003年(平成15)にスタートしたもの。

「傘が戻ると『濡れたままで臭いがついてしまう』と女性スタッフたちが以前はオフィスで陰干ししていました」

 ここでは長靴も借りられる。82足(男女各41足)が用意されており、天候が不安定な12月から2月を中心に、年間200〜300件もの貸し出しを記録。利用者の多くは、革靴やスニーカーで訪れて雨や雪に見舞われた県外および海外からの旅行者。旅先に長靴を持っていくことはまずないのでうれしいサービスだ。

  • 金沢駅兼六園口(東口)にある差し出す雨傘をイメージしたガラスのドーム「もてなしドーム」(奥)と、伝統芸能に使われる鼓をイメージした「鼓門」(手前)


    金沢駅兼六園口(東口)にある差し出す雨傘をイメージしたガラスのドーム「もてなしドーム」(奥)と、伝統芸能に使われる鼓をイメージした「鼓門」(手前)

  • 金沢駅の観光案内所の入り口にある「置き傘」

    金沢駅の観光案内所の入り口にある「置き傘」

  • 観光案内所 ゼネラルマネージャー吉岡一栄さん

    観光案内所 ゼネラルマネージャー吉岡一栄さん

  • 観光案内所では貸し長靴のサービスも実施


    観光案内所では貸し長靴のサービスも実施

  • 金沢駅兼六園口(東口)にある差し出す雨傘をイメージしたガラスのドーム「もてなしドーム」(奥)と、伝統芸能に使われる鼓をイメージした「鼓門」(手前)
  • 金沢駅の観光案内所の入り口にある「置き傘」
  • 観光案内所 ゼネラルマネージャー吉岡一栄さん
  • 観光案内所では貸し長靴のサービスも実施

電車内の忘れ物傘でまち歩きをサポート

 金沢駅の観光案内所が先行していた置き傘サービスを、金沢市がプロジェクト化したのは2009年(平成21)2月のこと。金沢で著名な歌手の竹仲絵里さんとの共同プロジェクト「みんなのeRe:kasa(エリカサ)」として「置き傘マップ」を作成し、HPや看板などで案内を始めた。

「金沢のまちなかをぜひ皆さんに楽しんでいただきたい。置き傘はそのための施策の1つです」

 そう話すのは、金沢市経済局営業戦略部観光交流課の係長、浅野成貞(なるさだ)さん。金沢城公園や金沢三茶屋街を含め、主な観光スポットは浅野川と犀川(さいがわ)に挟まれた比較的コンパクトなエリアに集中している。

「金沢市民はバスやクルマに頼りがちですが、東京の人たちはふだんから歩き慣れているので、徒歩で回る方も多いですよ」と浅野さん。

 傘は電車内の忘れ物傘を用い、1カ月で約400本を補充する。観光パンフレットと併せて配送・補充するため、経費面で大きな負担はなく、今後も続けていく考えだ。

  • 金沢市経済局営業戦略部観光交流課 係長浅野成貞さん

    金沢市経済局営業戦略部観光交流課
    係長 浅野成貞さん

  • 金沢市経済局営業戦略部観光交流課主事 飯田真理さん

    金沢市経済局営業戦略部観光交流課
    主事 飯田真理さん

  • 市の「置き傘サービス」に協力するクロネコほっとステーション おもてなし隊の皆さん

    市の「置き傘サービス」に協力するクロネコほっとステーション おもてなし隊の皆さん

  • 金沢市経済局営業戦略部観光交流課 係長浅野成貞さん
  • 金沢市経済局営業戦略部観光交流課主事 飯田真理さん
  • 市の「置き傘サービス」に協力するクロネコほっとステーション おもてなし隊の皆さん

新幹線開業を機に商店街が「貸し傘」

 金沢駅兼六園口(東口)から南東へ1km行くと、1721年(享保6)に始まった「近江町市場」がある。武蔵地区と呼ばれるこの一帯でも、2015年3月から商店街による「貸し傘」がスタート。「傘貸し出します」というシールを店頭に貼った約100店舗から傘を借りられる。

 これは5つの商店街振興組合と4法人が構成する金沢中心商店街 武蔵活性化協議会が始めた「おもてなしシール事業」(以下、シール事業)の一環。貸し傘、写真撮影、荷物預かり、道案内、英語での案内、お勧めスポット紹介の6つのサービスで訪れた人をもてなす。加盟店に協力を要請した事務局長の長田(ながた)憲道さんは、予想以上の反響だったと明かす。

「武蔵地区には約600店ありますが、手を挙げるのは30店くらいと思っていました。あまりに多いので、鉄道会社に急遽お願いして忘れ物傘を計700本提供いただきました」

 このうち200本は、武蔵地区のシール事業に賛同した香林坊(こうりんぼう)、片町、竪町(たてまち)、柿木畠(かきのきばたけ)、広坂(ひろさか)からなる金沢5タウンズ(金沢中心商店街まちづくり協議会)に提供。これによって市内中心部の大部分を網羅した。

 金沢5タウンズの会長を務める株式会社 九谷焼諸江屋の諸江洋さんは「構想を聞いて、いい取り組みだと思いましたので一緒に始めました」と語る。諸江さん自身、6年前から市の置き傘サービスに協力している。

「うちの店には高校生や近所の方も傘を借りに来ます。そして『ありがとう!』と返しに来てくれる。誰もが気軽に立ち寄れるお店であるべきですし、もっといえば金沢市全体がそういうまちでありたい。だからやめようとは思わないですね」

 


  • 金沢中心商店街 武蔵活性化協議会 事務局長 長田憲道さん

    金沢中心商店街 武蔵活性化協議会 事務局長 長田憲道さん

  • シール事業に協力するシューショップ・セブンの所村 眞さん。

    シール事業に協力するシューショップ・セブンの所村 眞さん。横安江町商店街振興組合の理事長を務める

  • 左:金沢中心商店街 武蔵活性化協議会が配布するシール。貸し傘を含む6つのサービスの目印となる

    金沢中心商店街 武蔵活性化協議会が配布するシール。貸し傘を含む6つのサービスの目印となる

  • 株式会社 九谷焼諸江屋の店頭にある置き傘

    株式会社 九谷焼諸江屋の店頭にある置き傘

  • 株式会社 九谷焼諸江屋の諸江洋さん

    株式会社 九谷焼諸江屋の諸江洋さん

  • 金沢中心商店街 武蔵活性化協議会 事務局長 長田憲道さん
  • シール事業に協力するシューショップ・セブンの所村 眞さん。
  • 左:金沢中心商店街 武蔵活性化協議会が配布するシール。貸し傘を含む6つのサービスの目印となる
  • 株式会社 九谷焼諸江屋の店頭にある置き傘
  • 株式会社 九谷焼諸江屋の諸江洋さん

気候風土が生んだ傘と市民の身近な関係

 一時期、東京をはじめ各地で貸し傘が行なわれていたが、その多くが尻すぼみ。なぜ金沢は広がっているのか。それは、歩く観光客が多いから、という理由だけではなかった。

 金沢をはじめ北陸には「弁当忘れても傘忘れるな」との言い伝えが残る。とにかく傘だけは持っておけ、という先人からの教えである。取材で会った人たち全員がこの言葉を口にした。特に秋から冬にかけては、晴れていたと思ったら土砂降りになり、真夜中でも頻繁に雷雨が発生する。金沢地方気象台によると、石川県の年間雷日数は日本でもっとも多く、特に冬の雷が多く観測される。

 長田さんは中学生の頃、「傘を持って行きなさい」という母の言葉を聞かず、びしょ濡れになって帰ったことが多々ある。「ですから今もクルマとオフィスには2〜3本ずつ傘を備えていますよ」と苦笑する。過去に苦い思いをしているからこそ、金沢市民の傘への思いはひときわ強い。

 吉岡さんは折り畳み傘を常に携え、浅野さんは秋になると長傘を手放さない。浅野さんと同じ観光交流課の主事、飯田真理さんは「冬は天気予報が『晴れ』でも、必ず長傘を持ち歩きます」と言い切る。市の置き傘サービスに協力するクロネコほっとステーションの稲(いね) 乃梨子さんと中村友紀さんは「傘は4〜5本もっていますが、風の強い日は骨が折れてもいいように古い傘から使います」と笑う。「晩秋から冬は、晴れた日に長傘を持って長靴を履いていても恥ずかしくない」(浅野さん)という土地柄からは、傘と人との身近な関係が垣間見える。

 また、かつて加賀百万石と称され、今も伝統工芸・芸能が息づく古都としての矜持もある。「金沢は武家文化ですよ」と浅野さんが言うように、小京都と呼ばれることをよしとしない。3つの茶屋街をはじめとする古いまちなみを残しつつ、手を入れるべきところは入れる「保存と開発の調和」は市職員全員が意識するキーワードだ。「『また来たいな』と思っていただくための取り組みの1つが傘なのです」と浅野さんは語った。

 金沢駅兼六園口(東口)にあるガラスドームの通称は「もてなしドーム」。訪れる人に差し出す雨傘をイメージしてつくられたものだという。気候風土と来客をもてなす心が、自由に貸し借りできる金沢の傘のしくみを育てている。

(2015年4月27日取材)

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