ミツカン水の文化センターでは、2017年より新たなイベント「発見!水の文化」をスタートさせました。「発見!水の文化」は、身近で気軽な企画内容を取り揃え、多くの方に興味を持って参加していただける内容を目指しています。 第7回目は、昨年に引き続き日本橋から茅場町エリアを歩きました。当日は、23名の参加者が日本橋に集まり出発しました。厳しい暑さの中ではありましたが、現在の姿と資料を見比べながら、斎藤先生の解説をききながら、湊町の歴史を訪ね、水辺の街について学びを深めました。 「水の都」と呼ばれるほど、運河・掘割が張り巡らされていた江戸。江戸に入府した徳川家康が優先的に実施したことは、物資を運ぶための道三堀の開削・架橋でした。更に、行徳から塩を運ぶために小名木川も開削。都城づくりにとって、運河・舟運の幹線を整備することは、何よりも大切であったことが伺えました。
東北学院大学経営学部 教授
斎藤 善之(さいとう・よしゆき)さん
1958年栃木県生まれ。1981年宇都宮大学教育学部卒業。1987年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、1995年「内海船と幕藩制市場の解体」で早大博士(文学)。日本福祉大学知多半島総合研究所嘱託研究員などを経て現職。専門は日本近世史、海運港湾史。主な著書に、『海の道、川の道』(山川出版社 2003)、『日本の時代史17近代の胎動』(吉川弘文館 2003、共著)など。
陸の道、水上の道の交わる場所である日本橋からスタート!
運河をつくりそこに橋を架けたのが日本橋で慶長8年、1603年3月3日に初めて架けられました。
江戸前の鮮魚の水揚港・市場
徳川家康が関東入国に従って当地に来た摂津国西成郡佃村の漁民30人が、将軍御膳魚の献上御用を命じられました。そこで余った魚を日本橋小田原町で販売することを許されたのが発祥です。日本橋から江戸橋までの北岸を通称「魚河岸」といいました。明治30年代の魚問屋数は約500戸あったとされ、物資を積んだ船、人を乗せた船等も行き交っていました。まさに江戸の物流の拠点でした。
日本橋から少し歩いたところにある、三浦按針の屋敷跡を訪ねました。
三浦按針というのは、1600年にオランダ船で来日したイギリス人のウイリアム・アダムズの日本名です。按針は日本に残り、イギリス商館を誘致したりして活躍しました。今はビルの間にひっそり碑がたたずんでいます。
中世の江戸湊の発祥の地です。もとは日比谷入江に面する江戸前島の西岸にあたります。江戸前島を横断する日本橋川が開削されると、日本橋川・道三堀・外濠が交差する江戸の運河網の起点的な場所となりました。
江戸時代にはお金に関わりが深い地域で、大判を作る金座がありました。今は日本銀行の本店、貨幣博物館などがあります。
通りを見通した先に駿河国の富士山が望めたことから名が付けられた駿河町。三井八郎右衛門高利が越後屋呉服店を開業したところに現在三越と三井本店が建っています。
全国から集まる商品の水揚げ物流センター
堀留川は日本橋川から分かれた入堀になっていますが、もとは石神井川の河口部であったとされています。東堀留川(堀江町堀)の東岸は東万河岸とよばれ材木町、西岸は西万河岸とよばれ堀江町(魚類御用)になっていきました。
堀留公園で休憩をとりながら先生の解説を聞きました。
関東・奥羽との取引を専門としていた「奥川積問屋」が並んでいた地域でした。今は高速道路で隠れていますが、かつては木更津や奥羽へむかう舟が出る一大ターミナルで、蔵がたくさん並んでいたそうです。
明治5年(1872)までは橋が架かっておらず、渡しがあったそうです。 源頼義が奥州攻めに向かう時暴風に遭い、海中に鎧を投げ入れて海神に祈願したところ無事に渡ることができたことから、「鎧の渡」と名づけられました。
そして、霊岸橋を渡り、新川に向かいました。
一面に茅が生い茂っていたことが茅場町の名の由来。まさにウォーターフロントでした。
江戸前握り寿司大成に関する歴史もご紹介いただきました。
先生の解説を聞いている間にも船が通りました。
新川の堀の両側には酒問屋が並んでいました。今は道路から歩いて神社に入りますが、本来は神社の前は運河だったため、舟で訪れ、直接上がることができていました。
最終地点は昨年同様隅田川河口です。そよ風に吹かれながら今回の街歩きを振り返りました。
今日につながる江戸の文化や流通のあり方には、運河や舟運といった水辺が深く関わっていることを実感することができました。