機関誌『水の文化』4号
くらしと水の多様な関係

雨水利用の夢「生命と文化を育む雨をもっと大切に、もっと有効に利用したい」

身近な「水」について考える時、雨水のことを避けて通ることはできません。新聞記事にも繰り返しこのことが話題になっています。そこで、区役所に勤務しながらも「雨水博士」として話題になった村瀬誠さんに、雨の暮らしと文化についてうかがいました。

村瀬 誠さん

墨田区環境清掃部環境保全課環境推進係長
村瀬 誠 (むらせ まこと)さん

1976年千葉大学薬学部大学院製薬化学科修士課程修了。1996年薬学博士。墨田区本所保健所衛生課、向島保健所衛生課などを経て現職。自治体職員有志等から成る、エネルギー問題、水問題及びゴミ問題に関する自主研究グループ、ソーラーシステム研究グループの代表や、国際雨水資源化学会都市担当理事など多方面に活動している。 主な著書に『都市の水循環』 1982、『都市のゴミ循環』1985(共にNHKブックス共著)、『環境シグナル』1996 北斗出版、他多数。

雨に恵まれた国日本

――村瀬さんは、さまざまな国際会議や海外活動をなされていますが、海外との交流の中から目を開かれたものがあるのではないですか。

村瀬 私は現在、国際雨水資源化学会の都市問題担当理事という役割を担っています。その関係もあって、これまでに、アジア、アフリカ、南アメリカ、ヨーロッパなど世界各地をまわってきました。どこに行っても「たくさん雨が降るあなたの国は羨ましい」とよく言われますが、本当に、「日本って雨に恵まれた国だなぁ」と、つくづく思います。そのことを最も強く感じたのが、アフリカ南部のボツワナでした。ここの年間平均降水量は、約250ミリ。日本のそれが約1700ミリですから、日本の約15%足らずしか雨が降りません。しかも、降り方が極端なのです。日本は年間を通じてコンスタントに雨が降りますが、ここでは、一年のうち四日ぐらいしか雨が降らないのです。
 そのことを象徴するような、いくつかのエピソードがあります。まず、雨水タンクの蛇口に、鍵がかかるようになっていました。「雨水泥棒がいるから」と言うんですね。「雨水泥棒だって!」と目を白黒させていると、「雨水タンクの盗っ人もいる」と聞いて、これまたびっくり。

――この国では、雨がものすごく貴重なものなのですね。

村瀬 もう一つ面白いエピソードがあります。ボツワナは以前イギリスの植民地だったのですが、1970年代に独立した際に、貨幣の単位をシリングからプラ(Pula)という単位に変えたんです。イギリスの植民地だったケニアやタンザニアでは、今でも貨幣の単位はシリングですから不思議に思って訳を聞き、これまたびっくりしました。プラというのはこの国で一番大切なもの、つまり雨水/Rain waterという意味だというのです。ちなみに、これより小さい単位、コインの単位テーべ(Thebe)は、雨粒/ Rain dropという意味だそうです。こんなやりとりをしているうちに、はるばる日本からボツワナまで、なぜ雨水利用の調査に来たのかと聞かれたので、東京は毎年のように夏になると渇水の心配をしなくてはならないからだ、と答えると「うちのように雨が少ないところならまだしも、東京はたくさん雨が降るじゃないか。その東京が渇水になるなんて、何かおかしいんじゃないか?」と言われ、これまたカルチャーショックを受けたわけです。六年前ですから、1993年のことです。

生命を育む雨

村瀬 今年の八月には、「究極の雨水利用」とでも言いましょうか、霧利用の調査のためにペルーに出かけました。ペルーのリマには、一年間で雨が2ミリしか降らないんです。でも近年は雨がよく降るようになったというので、「何ミリだい」と聞くと、「10ミリだ」というのです。これでは生きていけないではないか。水は一体どうやって確保するのだろうと思って「水源はどこ?」と聞くと、一つは川という答えが返ってきました。ペルーはアマゾン川の源流があるところですが、ほとんどの川はブラジル側に流れて行きます。しかし、一部はペルー側にも流れるのです。リマなどの都市では、その水を利用しているそうです。もう一つは霧利用/フォグ・キャッチメント・システム(Fog Catchment System)だというのです。山の谷あいにネットを張って、ネットの網の目を通った霧を水滴にして捕えます。一平方メートルのネット当たり、一日3〜12リットルの水が得られます。つまり世界では、一粒の雨で命をつないでいる人たちがいるのですね。その人たちから見れば、日本は天国のように見えるに違いありません。

二年前にはイランの砂漠地帯にあるカナート(地下水路)の調査にでかけたのですが、そこは信じられない光景でした。オアシスの町以外は、行っても行っても草木が一本も生えていないのです。降水量がわずかな上に、年間の蒸発量が降水量をはるかに上回るので、植物が育つことができないのです。そこで、ここでは砂漠の表面にアスファルトを撒くことで蒸発を抑えて、植物を生やす実験が行われていました。日本では、雑草が生えるのは当たり前で、抜いても抜いても出てくると邪魔者扱いされるのが普通ですが、考えてみればこれはとても有り難いことなんですね。日本は、生き物が再生可能な場所、つまりサステナビリティ/Sustainability(持続可能性)が高い地域なんですね。私たちは、この生命育む雨をもっと大切にしなくてはと、そのとき、つくづく思いました。和辻哲郎が『風土』の中で言っていますが、「日本の文化は、湿気の文化だ」というのはその通りです。吉田兼好も「住まいは夏を旨とすべし」と書いていますね。湿気があるということは、雨が降るということ。その雨が生命を育んでいます。だからアジアは、人口も多い。バングラデシュみたいに狭い所に、日本と同数の人口が住めるということは、稲作が二期作も三期作もできるからに他なりません。

国際会議で気がついた文化を育む雨

――五年前に墨田区で行われた雨水利用東京国際会議は、市民参加型の会議だったようですね。

村瀬 ええ、でも当初は国際雨水資源化学会の会長から私の事務所にファックスが入って、雨水利用の国際会議を墨田区でやらないかと。と言ってもどちらかと言えば、国際学会のイメージが強かったと思います。でも、市民が集まってわいわいやっているうちに、「自分達の国際会議をやろう」ということになり、雨水利用の技術、政策の国際交流だけでなく、雨の環境教育や雨の文化など、国際交流もやろうということになり、市民ならではのユニークな企画がたくさん出ました。雨の音楽祭も企画されました。ところが、雨の歌なんて世界中にいくらでもあると思ったら、意外とこれが少ないんですね。確かに「シェルブールの雨傘」や「雨に歌えば」など海外にもあることはあるのですが、歌詞の中に雨が出てくるのは、日本がダントツなんです。早い話が、演歌なんて雨と涙無しには語れません。歌に限らず、日本には雨を表わす言葉も、時雨、五月雨、氷雨、肘傘雨など、何通りもの表現があります。だから、雨こそ日本の精神文化の根底を表現している、と言っても過言ではないように思います。時代劇なんかでの幽霊は、必ずと言っていいほど雨の夜に出てきますね。これはきっと、周りの音が雨音で打ち消されるために、殺人者が人殺しをしてしまった自分と否応なく対峙せざるを得なくなるからではないでしょうか。すると、何でも幽霊に見えてきてしまうんでしょうね。ちなみにヨーロッパの幽霊は、霧のときに出てくることが多いように思います。ドラキュラなども、そうですよね。ヨーロッパの多くの地域は、日本の半分ぐらいしか雨が降りませんから。

雨の音を楽しむことも、なくなってしまいましたね。我々の世代は「雨、雨、降れ降れ、母さんと、蛇の目でお迎えうれしいな。ピチピチ、チャプチャプ、らんらんらん」を歌った世代ですが、子どもの頃、水たまりにできた波紋と音を楽しんだものでした。真夏の夕立の後は、「いいお湿りですね」なんて声を掛け合いました。しかし、今はどこもアスファルト、コンクリートジャングルです。夕立の後はかえって蒸し暑くなり、すぐに「クーラーで除湿しよう」となっちゃう。雨を楽しみ、雨に親しみ、雨を恐れ、雨を敬う、といった雨との多様なつきあい方を通じて、日本人特有の感性が育まれてきたと思うのですが、どうも日本人は、戦後この大切なものをなくしてしまったのではないでしょうか。

同じように、雨によって育まれた食文化も、失われようとしているように思います。おいしい酒も、酢も豆腐も、食はすべて水次第ですよね。でもいつからこうなったのか、現代人はH2Oとしての水にしか関心を持たなくなっちゃった。おいしい水が飲みたいのならペットボトル入りの水を買えばいいというのが、当たり前になってしまった。でもおいしい水の元は、雨水なんですね。雨水が地下に浸透して、大地のフィルターを通して、長い時間を経ておいしい水が生まれます。水道水だって、元をたどれば雨水です。だから「あなたの体にも、あるゆる生き物の体にも、雨が流れているよ」とよく言うのです。雨は循環している。雨は循環しながら、生命と文化を育んできたのです。

失われた雨の文化その結果は・・・

――こうした雨の文化が失われてきたのは、やはり、戦後のことでしょうか。

村瀬 戦後、高度経済成長期に効率優先主義に陥ったことが問題でしょう。その象徴が都市で、雨というのは排除すべき存在になってしまったわけです。例えば、東京の人の考え方は、足元に降る雨は迷惑だけれど、水源地である群馬には降ってほしいというものでしょう。こんな天の邪鬼な人種は、世界中にいないでしょうね。東京ではトイレが水洗化され、降った雨も速やかに下水道で排除されるようになって、人々はとても便利で快適な暮らしを手に入れることができるようになりました。しかし18年前頃から、都市型洪水がたびたび起きるようになったのです。東京では一時間に50ミリの大雨が降っても大丈夫なように、下水道が設計されてきましたが、それはあくまで降った雨のおよそ五十%近くが、地下に浸透することを前提としていました。ですから、都市のコンクリート化、アスファルト化が進んだことで、雨を排除する下水道の能力を越えて一挙に雨水が集中すれば、下水道から下水が逆流するのは当然の結果だったのです。18年前頃といえば、東京のコンクリートとアスファルトに覆われた面積の割合(不浸透域率)が、ちょうど50%を越えた頃と一致します。今では、東京の町の不浸透域率は、82%にも達してしまいました。

今年の七月、新宿区内のマンションにおいて都市型洪水で地下室が水没し、様子を見にエレベーターで地下に降りた人が水死するという、痛ましい事故がありましたね。十八年ほど前にも、死亡事故にはならなかったものの、墨田区で同様の事故がありました。ビルの地下の飲食店が、逆流した下水で天上まで水没したのです。私は、現場で立ちすくんでしまいました。私が雨水利用に関わるようになった、直接のきっかけはこの都市型洪水だったのです。

と言っても、私の専門は薬学ですから土木学や建築学は門外漢ですし、当時は保健所に勤務していましたから、土木や建築の部局とは無縁でした。そこで、専門、部局を越えて、都区の職員に呼びかけて、都市型洪水の処方箋を、共同で自主研究することにしました。現場主義を貫き、フランクに話し合う中で見えてきたものは、都市型洪水の本質は、地域水循環の破壊の産物だったということです。

流せば洪水、溜めれば資源

村瀬 ところで東京には、一年間に25億トンもの雨が降ります。これに対して東京で消費される水道水は、二十億トンです。しかし、東京ではほとんどの雨が下水に流され捨て去られています。この捨ててきた雨を、資源として積極的に利用してみたらどうでしょう。東京は水が足りないからといって、利根川上流にたくさんダムを建設してきましたが、ダムを造るということは、上流の村や谷が水没するということで、大変な犠牲を伴うんですね。「ダムの水の一滴は、水没した村人たちの涙の一滴」でもあるのです。利根川上流での巨大なダムはもう限界にきていますし、これまで建設してきたダムも長い年月の間には、徐々に堆砂で埋まっていきます。ですからこれからの東京は、これ以上上流のダムに頼るのではなく、自らの水はできるだけ自前で確保していくといった、水源自立の道を目指すべきではないでしょうか。東京に一年間に降る雨を七%溜めたとしますと、それは利根川上流の最大のダム、八木沢ダムの総貯水量である一・七五億トンに匹敵するのです。「水源地、遠くのダムより軒の雨」というわけですね。

雨水を溜めてみると楽しくなってくる

村瀬 1982年に、国技館が蔵前から両国に帰ってくる話が持ち上がりました。でも、当時両国駅周辺では都市型洪水がたびたび起きていました。私はその頃保健所で相撲の営業を許可する立場にありましたので、許可にあたって日本相撲協会に雨水利用をお願いしました。つまり、国技館の大屋根に降った雨水を溜めて洪水を防ぎ、溜めた雨水は興行のときのトイレや冷房の水に使い、非常時には防災用水として役立てようというわけです。でも当初相撲協会は、あまり乗り気ではありませんでした。そこで上司の助言もあり、私は多くの区の仲間とともに区の職員提案制度を活用して、雨水利用の提案をまとめ、墨田区から日本相撲協会に雨水利用を申し入れてもらおうと考えました。幸い、この提案が山崎榮次郎墨田区長の目に留まりました。最終的には山崎区長が日本相撲協会の春日野理事長に雨水利用を申し入れ、結果は設計が変更され、日本屈指の雨水利用施設が誕生することになったのです。

以来墨田区は、区の施設のほとんどに雨水利用を取り入れてきました。現在では、東京都庁、東京ドームなど、区外でも官民合わせて700以上の施設が、雨水利用を導入しています。今から考えれば、国技館の雨水利用が、その先鞭をつけたといえるかもしれませんね。

墨田区の雨水利用で、何といってもユニークなのは、向島地区から始まった、住民主体の雨水利用への取り組みでしょう。それが「路地尊」(下写真)であり「天水尊」です。路地尊とは、もともとは防災のシンボルのことでした。コミュニティを支えてきた路地を尊び、町を災害から守ろうという、住民主体の防災まちづくりの中から生まれました。向島地区では五基の路地尊に、雨水利用が導入されています。最初の路地尊雨水利用は今から十二年前、私と、地元で防災まちづくりをリードしていた徳永さんとの出会いが、きっかけとなって実現しました。仕組みはいたって簡単で、路地の一角に雨水タンクを埋め込み、隣接する屋根から雨水を集め、手押しポンプで押し出すというもの。普段はその水で町の緑を育て、非常時には消火や飲料水に活用します。徳永さんはこの路地尊がきっかけとなって、家庭用の雨水タンクを開発、とうとう「水商売の道」に入り込んじゃいました(笑)。私自身、自宅で雨水利用をやってみて実感することですが、雨水を溜めて利用していくうちに、それまで雨が降ると嫌だなあと思っていたのが、恵みの雨だと思うように意識が変わることに驚いています!なんだか楽しくなる。節水というと、何だかケチケチ気分ですが、雨を溜めるのは貯金みたいで豊かな気持ちになる。これは、雨水利用のとても大切な効用だと思います。

――国際会議の結果はいかがでしたか。

村瀬 結局、国際会議が終わって、「雨水利用東京宣言」を出し、会議のテーマだった「雨水利用で地球を救う」を進めていくために、雨水利用の運動ネットワークを広げていこうということになりました。当初は六十名ぐらいで、「雨水利用を進める市民の会」ができました。これができたのが、1995年の4月です。それから宣言文の実現に向けて、動き出したのです。毎年のように海外に出かけて、ネットワークを作っています。その年に行ったのは、中国。国際会議への参加と、黄土高原上流域の雨水利用の調査に入りました。以降、農村と都市で雨水利用の国際交流をしていこう、ということになりました。来年は、アジアの農村と都市の水危機を打開していくために、中国の農村での雨水利用と、日本の都市の雨水利用の事例をまとめ、日中で共同出版する予定です。ドイツとは、技術開発に関する交流をしています。2001年に、ドイツで雨水利用の大きな国際会議があるのですが、私もその実行委員のメンバーになっています。これは、雨水利用をヨーロッパ中に広めようというものです。

「市民の会」のほうの大きな仕事としては、雨の暮らしと文化を集大成しようということで、「雨の事典」を作ろうとしています。着手して二年になりますが、いよいよ2000年の10月には出版する予定です。

  • 雨水貯水井戸“路地尊”

    雨水貯水井戸“路地尊” 写真提供:墨田区

  • ー 雨水貯水井戸“路地尊”のしくみ ー

    ー 雨水貯水井戸“路地尊”のしくみ ー

  • 雨水貯水井戸“路地尊”
  • ー 雨水貯水井戸“路地尊”のしくみ ー

「国際雨水センター」を目指して

村瀬 これからは、雨水利用を社会の仕組みにしていく取り組みを、推進していきたいと考えています。墨田区は平成5年から7年にかけて、日本で初めて都市における雨水利用の普及に伴う利水、治水及び防災効果に関する政策的な検討を行いました。結果、雨水利用を一定案件のもとで普及していくと、それらに効果があることがわかりました。たとえば、30%のビルや住宅で雨水利用を導入していくと、約一カ月間雨が降らなくても、毎日2,400トンの水が利用できます。これは、区民一人当たり11リットルの水を供給できるということにほかならず、防災的にも意義があることがわかりました。

区はこの検討結果を受け、平成7年に雨水利用推進指針を作成、同年に雨水利用促進制度もスタートさせました。これまでに115の雨水タンクが、助成を受けて区内に設置されています。現在、区内の雨水利用の総貯水量は、約8000トンになっています。

墨田区には、毎年500〜1,000人ぐらいの人が、国内外から雨水利用の視察にやってきます。墨田区を参考に、雨水利用に取り組む自治体も増えてきました。そこで墨田区は、雨水利用を一層推進していくために、全国の自治体に呼びかけ、自治体レベルで雨水利用の情報交換や政策交流を行う「雨水利用自治体担当者連絡会」を、発足させました。現在までに、93の自治体が参加しています。墨田区の事例などを参考にして、雨水利用に助成する自治体も25になりました。

今後、都市への人口集中が開発途上国を中心に急速に進み、2025年には世界の人口の三分の二が、都市に住むことになるといわれています。急速な都市化と人口の集中は、洪水と水不足を深刻化させます。私は、そういう点で、これまで雨を排除してきた東京の教訓と雨水利用の経験は、これらの問題を解決していく上できっと役に立つと考えています。

日本は、現在食糧の多くを、世界中から輸入しています。これほど雨に恵まれ、食糧再生産可能な地域が、世界中から食料を買いあさるというのは、何かおかしいと思いませんか。食糧を作るには大量の水を必要とします。川の水も元はといえばすべて雨ですから、言ってみれば日本は「世界の雨の輸入国」であると言えるのではないでしょうか。雨の豊かな国が、世界中の雨を買いあさっていいわけがありません。二十一世紀は人口の増大により、食糧戦争が心配されています。食糧戦争とは、水戦争にほかならないのです。私は、昨年八月ストックホルムで開催された国際水シンポジウムでの招待講演で、「No more Tanks for War.Tanks for Peace.」(水戦争のための戦車はいらない。平和のための雨水タンクを)と訴えました。

今後、雨水利用を社会の仕組みにしていく取り組みを、国際的なものにまで広げ、水戦争を何としても阻止していきたい。そのために、将来は国境を越えて市民、行政及び企業の三者で構築するグローバルネットワークづくりに取り組み、「国際雨水センター」を実現していきたいと考えています。



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