機関誌『水の文化』12号
水道(みずみち)の当然(あたりまえ)

《井戸》

水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄 (こが くにお)さん

1967(昭和42)年水資源開発公団に入社。勤務のかたわら30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。 昨年退職し現在、日本河川開発調査会、筑後川水問題研究会に所属。水に関わる啓蒙活動に専念している。

2002年9月現在、アフガニスタンは長年の戦乱と大旱魃を受けて、人々はいのちの源、水に難儀する日々が続いている。先日のテレビで「なによりも、水が欲しい」とアフガニスタンの子の訴える姿は、今でも脳裏から離れない。

福岡市に本部のあるペシャワール会は、アフガニスタン、パキスタンで難民たちの医療活動を支援している。ペシャワール会の現地代表者中村哲著『医者井戸を掘る』(石風社、2001年)は、「とにかく生きておれ、病気は後で治す」と、アフガニスタン人700人を指揮しながら、1000基の井戸を掘った記録である。同様な書に、青年海外協力隊員の諸石和生著『エチオピアで井戸を掘る』(草思社、1991年)が出版されている。

日本では古代から井戸が築造されており、考古学の立場からも調査がなされてきた。日色四郎著『日本上代井の研究』(内外印刷、1964年)は、奈良橿原の畝傍山東麓から発掘された板井22基の解明である。

この日色氏の調査の影響を受けて、山本博著『井戸の研究』(綜芸舎、1970年)が出版された。山本博氏は、全国の発掘遺跡を丹念に探求され、古代井戸の起源、構造、その変遷を明らかにしながら、古代人の水に対する神聖視について総合的に言及している。その中では、井戸の構造と各部名称を明確化し、板井、石井の型式や年代、古文献から見た井戸や清水の特質、全国各地による井戸発見略史などを掲載している。また、古代の朝廷で朝廷の飲料水や手水、氷をつかさどっていた「主水司(もひとりのつかさ)」の起源にも言及しており興味深い。

同じ著者による『神秘の水と井戸』(学生社、1978年)では、古代人が水に「水神」が宿ると信じてきたという信仰を取り上げている。その証拠は古代の銅鐸に描かれた「邪視文」(横帯がからんだ文様で、「人間の目」に見えるので、このように呼ばれる)を「水神の顔」であり、水神水波乃女神の加護を祈る表現だと論じている。井戸の研究について、新分野を開拓された山本博氏の業績は多大で、研究者にとって『井戸の研究』はバイブルとなったが、出版部数の少ないのは残念である。

  • 『医者井戸を掘る』

    『医者井戸を掘る』

  • 『井戸の研究』

    『井戸の研究』

  • 『神秘の水と井戸』

    『神秘の水と井戸』

  • 『医者井戸を掘る』
  • 『井戸の研究』
  • 『神秘の水と井戸』


東京都水道局勤務時から、水道史の研究をなされてきた堀越正雄著『井戸と水道の話』(論創社、1981年)は、近代式改良水道以前に視点を置き、水利用を井戸と水道の観点から捉えている。江戸時代、掘井戸の工事費は200両もかかり、大商人しか掘れなかったが、1788年頃、大阪で「あおり」という道具を用いると2〜3両で掘ることができ、大いに普及したという。江戸時代後期の俳人小林一茶は「新しい水湧く音や井の底に」と、水がコンコンと湧き出てくる様を喜々として詠んでいる。

上総堀りについては、大島暁雄著『上総堀りの民俗』(未来社、1986年)、木更津高等専門学校土木工学科編・発行『上総堀り技術の要点』(1989年)、千葉県立博物館編・発行『上総堀り』(2000年)がある。これは上総地方(現在の千葉県)に伝わった鉄棒を利用した突き堀り技術を工夫、改良して考案された井戸掘り技術で、上総の職人たちによって日本各地に広められたことから上総堀りと言われてきた。特に、明治時代以降はアジアにまで普及し、インドにおいては、イギリス人F・J・ノーマンによって『カズサ・システム』(1902年)が刊行された。

東京都下を中心として活動する「水みち研究会」は湧水や地下水の保全に関心を持つ団体や個人から構成され、地下水、井戸の調査がなされている。水みち研究会編『水みちを探る』(けやき出版、1992年)と『井戸と水みち』(北斗出版、1998年)では、元旦に「井戸神様」と言ってお酒を井戸に撒く話や、植木・野菜の育ちは井戸水の方が良い、お習字の先生は墨ののびが違うと言う、という聞き取りで得られた話を紹介している。

武蔵野には鎌倉時代に築造されたと推察される五の神まいまいず井戸(現在、東京都羽村市にある。水を汲みやすいようにすり鉢状に穴が掘られている。周りのらせん状の道がカタツムリに似ているためにこの名がついた。)がある。羽村町郷土史家桜沢孝平著『鋳物師と梵鐘とまいまいず井戸の話』(武蔵野郷土史刊行会、1981年)によると、武蔵野の地には、金脈、水脈を探しあてる製鉄業者(鋳物師)の技術集団がおり、その集団がこの井戸を掘ったという。さらには、製鉄業者と水霊信仰について書かれた、乗岡憲正著『古代伝承文学の研究』を引用しながら、藤太、藤次、藤四、藤五は井戸掘りを業とする者につけられる名前であること、その「藤」は水の「淵」と同語で、水の精霊を象徴し、藤原秀郷(別名俵藤太。竜神に見込まれて大ムカデ退治をしたという伝承で有名)は、それら技術集団の祖であると論じている。

  • 『井戸と水みち』

    『井戸と水みち』

  • 『鋳物師と梵鐘とまいまいず井戸の話』

    『鋳物師と梵鐘とまいまいず井戸の話』

  • 『井戸と水みち』
  • 『鋳物師と梵鐘とまいまいず井戸の話』


高知県の井戸あれこれの書、橋詰延寿著『庄屋井戸』(庄屋井戸刊行会、1963年)の中に、土佐清水市の庄屋井戸は、慶長8年(1603年)に田村平兵衛忠重が掘ったとあり、忠重は藤原秀郷の遠孫にあたると「田村家庄屋井」の石碑に刻まれている。井戸掘りの技術集団藤原氏一族は四国土佐まで赴き、活躍したとされている。この著者は、土佐藩家老で治水家である野中兼山の研究者でもある。沖縄では、井を「カー」と呼び、川を「カーラ」と言い区別している。長嶺操著『沖縄の水の文化誌 - 井戸再発見』(ボーダーインク、1992年)は、井戸調査のため、伊平屋島、伊江島、宮古島、伊良部島、石垣島まで踏査し、150基の井戸について、築造年代を、先史遺跡の井戸(石器時代)、グスク井戸(13世紀〜15世紀)、村落井戸(17世紀〜19世紀)へ変遷していったと分析している。

沖縄には、井戸の水が男女の仲を取り持つ逸話が残っている。人知れず結ばれた男女は所あかしをまたず、女はこっそりと井戸の水を汲んできては、男の家の備え付きの水瓶を満たす。まだ親族でもない女の親切に、村の人たちは婚礼が間近になったことを悟る。井戸の水が男女の仲を結ぶ風習はほほえましい。

  • 『庄屋井戸』

    『庄屋井戸』

  • 『沖縄の水の文化誌 - 井戸再発見』

    『沖縄の水の文化誌 - 井戸再発見』

  • 『庄屋井戸』
  • 『沖縄の水の文化誌 - 井戸再発見』


その他にも、上原敬二著『井戸・滝・池泉』(加島書店、1958年)、村下敏夫著『水井戸のはなし』(ラティス、1968年)、酒井軍治郎著『井戸のたわごと』(北方新社、1973年)、大島忠剛著『ポンプ随想』(信山社、1995年)、かつをきんや著『井戸掘吉左衛門』(アリス館牧新社、1975年)などの書がある。

最後に、カナートに関する書を挙げる。乾燥地帯のイラン、イラク、ギリシャにはカナートと呼ばれる地下用水路が造られ、水社会を構成している。岡崎正孝著『カナート - イランの地下水路』(論創社、1988年)は、イラン高原に3千年前から5万本のカナートが掘削され、砂漠にオアシスが造られることを紹介し、カナートに依存する政治、経済、文化の構造について論じている。

日本のカナートと呼ばれるマンボは浅層地下水を水源として横穴式暗渠(横井戸)を掘ったものである。三重県北部鈴鹿山麓に多く存在し、主に灌漑用水に利用されている。このマンボについては、小堀巌編『マンボ - 日本のカナート』(三重県郷土資料刊行会、1988年)、阪野優著『写真集マンボ灌漑』(中部日本教育文化会、1983年)が刊行されている。

  • 『カナート - イランの地下水路』

    『カナート - イランの地下水路』

  • 『マンボ - 日本のカナート』

    『マンボ - 日本のカナート』

  • 『カナート - イランの地下水路』
  • 『マンボ - 日本のカナート』


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