機関誌『水の文化』22号
温泉の高揚

農民の家 鳴子温泉に今も残る湯治の場

農民の家 鳴子温泉に今も残る湯治の場

農民の家 鳴子温泉に今も残る湯治の場



今野 清十郎さん

農民の家代表理事組合長
今野 清十郎 (こんの せいじゅうろう )さん

1923年(大正12)宮城県生まれ。 『農民の家三十年史』編集委員。2000年から現職

「農民の家」設立

農民の家は1949年(昭和24)に設立された、日本唯一の温泉保養施設としての専門農協です。

話の発端は、1946年(昭和21)10月。戦前からの農民運動指導者だった菊地養之輔、袖井開、日野吉夫が研究会で同宿した折に、「湯治をしながら、農業改革に取り組むことができるだけの教養を積むことができるような、農民の施設があったらよいのに」という話になりました。

翌年の1947年(昭和22)7月に全国逓信労働組合の講習会に講師として招かれた菊地養之輔、袖井開が、再び「昔は地主か金持でなければ温泉に入れなかったが、農民の力を結集したら、温泉に浸かって保養しながら教養を高めることができる、農民の別荘のようなものができるのではないだろうか」と鳴子の車湯で話し合い、袖井がこの件を真剣に考えるようになったのです。

その2ヶ月後の9月13日〜14日にかけて、カスリーン台風が日本を襲い、鳴子温泉を流れる江合川も氾濫を起こして、川沿いにあった東北大学医学部温泉医学研究施設鳴子分院が流されてしまいました。鳴子分院は現在地の新屋敷に農民の家鳴子温泉に今も残る湯治の場移転し再建されましたが、町有地である水害の跡地と残存建物をどうするか、という話し合いが当時の滝島藤三町長と袖井開、鳴子分院の院長だった杉山尚の三者でなされました。

その際、杉山尚は「温泉療法の医学的研究の場としての病院だけではなく、湯治の実践の場としての施設がどうしても必要と痛感していた」と述べ、強力に後押しします。

1946年(昭和21)に農地改革が行なわれ、それまでの小作人が多くの土地を手に入れていた時代でしたが、小作料を払わずにすむようになったとはいえ、決して生活が楽になったわけではありませんでした。みんなから一戸当たり200円の出資金を募りましたが、現金で払えない人は1升、2升の米を出資するような状況でした。病気になると借金ができるような、生活の保証もない、まだ貧しい大変な時代だったのです。そのためにも農閑期に体を休める保養施設を実現したい、お風呂ぐらいはゆっくり入りたい、というみんなの思いが結集して251万円の出資金を集め、110万円で土地を取得、やっと実現した夢のような施設だったのです(注1)。

どういう組織にするかは、みんなで考えた結果「農民のための農民による農民の組織として、農業協同組合が一番よい」ということになりました。それもよくしたもので、宮城県内の市町村すべてを対象にすると国の管轄になり、いろいろ煩雑な手続きや制限ができるので、一番の遠隔地にある町を対象から除いた「温泉利用農業組合」という全国でも異例の形が取られました。この年7月に農民の家で開かれた設立合同会議には、宮城県全域から150人を越える組合員が集まっています。

それまでの基本構想では単に「農民保養所」としていましたが、「働く農民の憩いの家」、後に「農民の家」という当時の志を反映した名前になりました。そして「宮城県農民の家農業協同組合」として、1949年(昭和24)に正式に設立しました。

(注1)
終戦後は猛烈なインフレで、物価がどんどん上がっていったから、当時の200円が高いのか安いのか、なかなか検討がつきにくい。目安としていくつかの値段を挙げてみた。1949年の巡査の初任給は3772円、水道料金が月65円、1950年の炭1俵(15キロ)が220円(いずれも東京)とすると、法外に高い金額ではなかったのだろう。

  • 創業時の炭酸泉浴槽は10名程度で満員であったが其の後拡張した浴槽(昭和25年当時)

    創業時の炭酸泉浴槽は10名程度で満員であったが其の後拡張した浴槽(昭和25年当時)

  • 創業時の炭酸泉浴槽は10名程度で満員であったが其の後拡張した浴槽(昭和25年当時)

自炊部と旅籠部

組合員は県内の人に限られますが、宿泊には県外からの人も受け入れています。それでも90%以上が、宮城県内のお客さんです。組合員の中から選ばれた500人強の総代がいて、私も確か1953年(昭和28)ごろから総代に選ばれ、1999年(平成11)からは常勤で働いています。

ここの特色といえば、自炊の部屋が多いということでしょう。もともと昔の湯治場の名残で、自分の家から野菜や米、味噌や醤油を持参し、自炊しながらノンビリと農閑期をすごしたのです。昔はそうした湯治場は、いくらでもありましたけれど、今の時代には少ないのではありませんか。

うちは逆に旅籠部(食事付の宿泊)では、1日150人しか受け入れることができません。農民の家の収用人員は1061人ですから、ほとんどが自炊客向けということです。旅籠部客室が48、自炊部客室が274あります。旅籠部客室も泊まりやすいように宿代を抑えていますが、自炊はその半額ぐらいだから長く滞在してもらうことが可能なのです。

自炊部には包丁と箸は置かない主義ですが、冷蔵庫から鍋や食器等必要なものはみんなそろえてあります。1階に売店があって、毎日新鮮な食料品や衣類、生活雑貨も買うことができます。

農閑期に客が集中するので、11月から3月までで1年分稼ぐといった感じです。多いときには1日750人から800人も宿泊して、宴会場に布団を敷くこともあるほどです。

高齢化はここでも同じで、仲良く2人で来ていたご夫婦も、どちらかが倒れると来なくなるケースが多く、淋しく思います。だいたい家族が車でおじいちゃん、おばあちゃんを送り届け、一緒に1泊ぐらいして帰り、何週間かすると迎えに来る、ということが多いようです。だから売店には孫が喜ぶようなおもちゃも置いてあるんですよ。

  • 旅籠部の夕食直後のカラオケタイムは、それまで配膳をしていた職員の司会で始まる。

    旅籠部の夕食直後のカラオケタイムは、それまで配膳をしていた職員の司会で始まる。

  • この夕食と朝食がついて1泊7,455円から。

    この夕食と朝食がついて1泊7,455円から。組合員と一般の人の料金には区別がない。

  • 現在、自炊部の客室は基本的に台所付き。

    現在、自炊部の客室は基本的に台所付き。

  • 共同の台所を利用する、リーズナブルな客室を選ぶこともできる。自炊部宿泊客のためにマーケットが設けられ、生鮮食料品はもちろんドテラに至るまで充実した品揃えだ。

    共同の台所を利用する、リーズナブルな客室を選ぶこともできる。台所にあるガスコンロは、ガスのつけっぱなしに対する配慮からコインを入れて稼働させるが、コインは後から戻ってくる仕組みだ。自炊部宿泊客のためにマーケットが設けられ、生鮮食料品はもちろんドテラに至るまで充実した品揃えだ。

  • 旅籠部の夕食直後のカラオケタイムは、それまで配膳をしていた職員の司会で始まる。
  • この夕食と朝食がついて1泊7,455円から。
  • 現在、自炊部の客室は基本的に台所付き。
  • 共同の台所を利用する、リーズナブルな客室を選ぶこともできる。自炊部宿泊客のためにマーケットが設けられ、生鮮食料品はもちろんドテラに至るまで充実した品揃えだ。

根強い人気はまだまだ健在

高齢化してはいますが、年間利用人員は約14万人。一番のピークは平成元年で18万人いました。現在の組合員数は約6万人です。

バブルの時代に建てた平成館の借入金も無事に完済して、2005年5月末の出資金は約14億円あります。私が入ったときに200円だった出資金も、今は3万円になっています。出資金集めが大変なのは、今も昔も変らないですが、利用してもらうことが一番の協力と宿泊客が多いことを感謝する思いで一杯です。

観光協会とつながっているわけではないので、地域の旅館との関係はほとんどありません。『農民の家三十年の歩み』には、「鳴子駅に降車した人の大半は、駅前に客引きに出て待っている旅館の番頭に声をかけられると『アア、おらあ、農民の家さ行くんだ』と言ってゾロゾロと農民の家に足を向けるのを舌打ちして横目で睨みながら呆然としているというような有様であった。開所してから五ヶ月半、施設も設備もまだまだ不十分な農民の家は、旅館業者からは早くも、憎い強敵と見られるようになったのである」とあるように、昭和24年の設立当初からたくさんの宿泊客に恵まれて、ここまでに成長できました。

診療所のある本物の保養所

うちは高齢のお客さんが多いこともあって、診療所をおいています。常駐の看護師さんの他、土曜日には先生も来るし、何かあったらすぐに救急車を呼ぶ態勢が整っています。

これは設立時の組合長だった小野寺誠毅を中心に主唱された『三養の精神』を基本理念としているためです。『三養の精神』とは保養、療養、教養の3つで、農民の解放のために、これからの生活で欠かせない3つの要素ということです。ですから農民の家は、単なる温泉娯楽施設とは違う理念で運営されています。

精神と肉体の両方の大切さを訴えた『三養の精神』は、身体が資本の農民にとって一番大切なことを言い当てている、優れた考えと思います。

中には一年中いて、年金暮らしをするお客さんも現れて、老人ホーム化する恐れを危惧しています。

しかしこうした傾向が、我々の目を逆に老人ホームへ向けさせてくれました。町立鳴子温泉病院のように、温泉と特別養護老人ホームを結びつけることは、高齢化が進む上で農民の家にとっても視野に入れなくてはならない課題かもしれません。

農民の家ができたときは、まだ温泉法による規制がなかったために、いくつか掘削したところ4種類の違う源泉に行き当たりました。ですから、農民の家ではいながらにして4種類の違う泉質のお湯を楽しむことができます。

これも昔ながらの方針で、混浴がメインです。男湯と女湯が純粋に分かれているのは1つだけ。女性客から、混浴だと入りづらいという声が大きくなり、大浴場には女性だけ入浴できる時間帯をつくりました。混浴にしているのは、夫婦で介護しながら入る必要がある場合が結構多いからです。

長年来ていると、お客さん同士の交流も深まり「今年はうちは何日から行くから、一緒に行かないか」と誘い合うこともあります。

  • 本館事務室の隣にある明るい診療所。

    本館事務室の隣にある明るい診療所。

  • 農民の家総務課長の斉藤誓司さんが敷地内にある源泉を案内してくださった。

    農民の家総務課長の斉藤誓司さんが敷地内にある源泉を案内してくださった。

  • 本館事務室の隣にある明るい診療所。
  • 農民の家総務課長の斉藤誓司さんが敷地内にある源泉を案内してくださった。

農民の家音頭も誕生

1960年(昭和35)には、農民の家音頭もできました。それ以外にも、演芸会をしたり、ダンスパーティをしたりして、長期滞在中に飽きないで楽しめるように工夫しています。今はカラオケが人気ですから、夕食後の宴会場で時間を区切ってカラオケを楽しんでもらっています。

また、職員全員がゲートボールの指導員の資格を取得しています。国道沿いのゲートボール場で「農民の家の職員さんは、ゲートボールの審判の声がよく通る」と、国道まで聞こえると言われるほどです。耳の遠いお年寄りにも楽しんでもらえるように、職員が努力しているのです。

110万円で取得した土地の代金返済に窮して、手放そうと真剣に考えたことも2度あります。初めは2m四方足らずの湯船一つからのスタートでした。こうした設立当初の困難を思うと、今の発展が夢のように思えます。

農業のあり方や農民の生活も、大きく変りました。しかし、療養、保養と並べて教養を入れて三養とした設立当時の人たちの精神には、心から敬服するものがあります。どんなときも、この気持ちを失わないでいきたいと思います。

農民の家音頭

農民の家音頭

【三養の精神】

農民の家創立時の組合長、小野寺誠毅らによって『三養の精神』が主唱された。戦後の農業を担う者に対し、教養と療養、保養の場を提供する。これが『三養』であり、農民の家はこの家訓に則って運営されている。訓を逸脱した運営を厳に慎んできたからこそ、今日までの発展があるに違いない。

また、農民の家設立趣意書の説明に、この夢の発案者でもあった袖井開は次のように記している。なぜ農協活動と保養所が関係するのかがわかり、たいへん興味深い。

一、おくれている日本の農業を急速に前進させねばなりません。即ち能率の低い人間の体を農具の代わりに使って来た旧来の半封建的農業をさらりとすてて、農地改革の基盤の上に一気に近代農業をうちたてねばなりません。

二、近代化された農業とは、能率のあがる、生産費のかからない、そして苦労が少なくて収益の多い農業なのです。この近代化が成功すれば農業恐慌に恐れるには足りませんし、農民生活そのものも過去のみじめな姿から解放されて自由な、平和な、そして幸福にみちたものになるのです。

三、この日本農業の近代化は、分散された農地と微弱な資本と、思い思いの考えだけでやっていたのでは実現できるものではありません。協同組織の力でみっちりした経営をやってこそ、その目的が達せられるものです。

四、長い封建の殻の中に住みなれてきた農民にとっては、それは非常に難しいことです。茲に大精神革命がなされなければなりません。然し農地改革によって精神革命の基礎はすでに出来ているのですから、先ず農民個個の教養を高めて農民自身の工夫する力を呼びおこすことが先決問題です。教養のないところに工夫は起こりません。

五、働きに疲れた体を休めながら、同時にこれ等近代精神を中核とする高い水準の教養を身につける施設、これが「農民の家」です。

六、湯治をしながら講演を聞いたり、雑誌や書物を読んだり、映画を見たり、又、実際の経験をお互いに語り合う所です。尚、農民の家には休養、療養、娯楽、教養のための施設ばかりではなく、温熱利用による農業(促成栽培、各種育苗育成等)の研究や、農村工業設備をします。又特に、農産物直売所を設けます。これは組合員の生産物を温泉客や業者へ販売して現金を持参しなくとも楽に保養が出来る様にしたいためです。(以下略)

※参考『農民の家三十年の歩み』(宮城県農民の家農業協同組合1979)、『宮城県農民の家五十年史』(宮城県農民の家農業協同組合1999)

【町村合併】

2006年3月31日から古川市・鹿島台町・松山町・三本木町・岩出山町・田尻町と鳴子町の「1市6町」が合併して、大崎市となる。現在の鳴子町だけでも、その面積はたいへん広い。鳴子温泉、川渡温泉、東鳴子温泉、中山平温泉、鬼首温泉などを含み、人口は約8600名、約3200世帯。生活圏は宮城、山形、秋田の三県にまたがっている。そこに、年間約81万3000人の宿泊客が訪れる(2003年)。

そんな鳴子町が広域合併を行なうのだが、東北新幹線の駅がある古川市と鳴子温泉は約30kmしか離れていないにもかかわらず、鳴子で大雪でも古川ではそれほど降らない。「なかなか雪国の苦労はわかってもらえない」と町役場の人は言う。約400名ほどいる独居老人を巡回訪問することも、地域によって温度差がある。

新生・大崎市は、鳴子温泉の雪による苦労と温泉の有り難さを、共有することができるのだろうか。

  • 鳴子温泉の雪

    鳴子温泉の雪

  • 鳴子町役場総務課長の高橋幹夫さん

    鳴子町役場総務課長の高橋幹夫さん

  • 鳴子温泉の雪
  • 鳴子町役場総務課長の高橋幹夫さん

【間欠泉】

鳴子温泉の北、鬼首温泉には間欠泉がある。地下にある空洞内で、行き場のない水蒸気が液体である温泉を押し下げることで、一定以上の圧力に達したときに吹き上げるのが間欠泉の仕組みだ。水から水蒸気に気化すると、体積が1600倍になる話を思い起こしてほしい。いったん吹き上げると圧が下がり、再び圧力が一定レベルに達するまで休むため、間欠になる。

  • 間欠泉

    間欠泉

  • 鬼首温泉は鳴子温泉の北に位置する

    鬼首温泉は鳴子温泉の北に位置する

  • 間欠泉
  • 鬼首温泉は鳴子温泉の北に位置する

【早稲田湯】

鳴子温泉の歴史は古い。温泉神社は837年建立。そのそばにある外湯「滝の湯」をはじめ、いくつかの外湯を中心に鳴子温泉は発展してきた。

温泉街のはずれ、江合川の川沿いにある「農民の家」が設立された前年の1948年(昭和23)に、東京からやって来た早稲田大学の学生7名が、温泉街の真ん中でボーリング実習を行なった。それまで温泉を掘るといえば上総堀が当たり前の時代だったが、このときは当時最先端の方法で掘削が行なわれた、それは鉄のパイプを継ぎ足しながら、先につけたロッドを回転させて堀る、今でも行われているコアー掘削だ。このやり方だと、手元に伝わる振動によって数十m下の岩石の硬さや種類を見極めることができるという。このとき掘り当てた源泉は共同浴場「早稲田湯」と名づけられ、170名あまりの組合員に利用されている。

この早稲田湯は、1998年(平成10)早稲田大学教授の石山修武さんにより改装され、「早稲田桟敷湯」と名前を改めた。まちのシンボルとして、多くの観光客を集めている。

早稲田桟敷湯

早稲田桟敷湯

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