機関誌『水の文化』22号
温泉の高揚

ハッピネスを基準とする維持可能な感幸

石森 秀三さん

国立民族学博物館教授
文化資源研究センター長
石森 秀三 (いしもり しゅうぞう)さん

1945年生まれ。観光文明学・文化開発論専攻。 主な編・著書に『エコツーリズムの総合的研究』(国立民族学博物館、2001)、『観光の20世紀』(ドメス出版、1996)、『観光と音楽』(東京書籍、1991)

未知を感じるために旅に出る

観光の本来の意味を探っていくと、もとは宗教と同じ機能を果たしていたのではないかと、私は考えています。

宗教者に「あなたのやられていることは、観光と同じですね」と言ったら、まず怒られます。「宗教は人間を超越するものを学び、感じとり、信じることにある。それを観光風情と一緒にするな」と。でも、文化人類学者の私の目からはそう見えます。

かつての宗教者は、現在のように教団に属して教祖や教団の幹部から教えを受け、書かれたものを読んで学んだのではなく、一人ひとりが野山に分け入って数ヶ月放浪する中で、人間を越えるものに出会う体験をしていました。そういう形で、天とは何か、神とは何かと考えてきたのです。その放浪は旅ともいえるわけで、旅は宗教に大きな役割を果たしています。

同じように、日本の旅人もかつては自分の食べるものを背負って旅をしていたわけです。お湯を入れれば御飯になる「乾し飯(ほしひ)」と味噌を持っていけば、途中で山菜でも採って旅はできた。木賃宿というのは、「薪代を払う宿」という意味で、鍋を借り受けて自炊するのが旅のスタイルでした。江戸時代になって旅籠ができて、お金を払えば料理が出てくるようになるのです。

どこの国でも、少年が大人として認められるためには通過儀礼が不可欠で、ネイティヴアメリカンのある部族では、一人で森に行って熊を仕留めなくてはいけませんでした。その証拠として、熊の爪を持ち帰らなくては、部族に迎え入れてもらえないのです。若者はどうすれば熊を倒せるか、考えて工夫をし、恐怖と闘いながら数ヶ月過ごしました。こうした体験をして戻ってきた若者は、立派な大人になっています。このときの体験が生涯自分を守る後ろ盾になるのです。アフリカではライオンの耳たぶを取ってくる、ということが通過儀礼になっている部族もあります。女性の場合は初潮がきますから、大人になるための通過儀礼はあまり行なわれません。

旅というのも未知なる世界、自然との出会い、人との出会いです。日常を越えた出会いを通して、結果としてその人に何らかの力を与えるわけです。

こうしてみると、どうも宗教と観光は、根元をたどると一緒だったように思います。

観光から感幸へ

長らく日本の観光の主流だった、「名所見物」「団体旅行」「周遊」というスタイルは、価値観の変化から激変しています。立派な設備や品数の多い食事に惑わされず、日常から出ていき感動を得る、という観光本来の姿に戻りつつあるようです。五感を通して観光するという意味から、「感幸」と命名した人がいますが、私も賛同してこの言葉をよく使わせてもらっています。

温泉は、そのような意味での「感幸資源」の典型でしょう。温泉に浸かって「あー、極楽」と口にする瞬間は、まさにこの世にあらざる至福の時間です。

このような感幸の時代では、旅行代理店が商品化しないような所に好んで行く人もいて、何もないことに、やすらぎを感じる人がいます。水を例にとっても、おいしい水というだけで人を引きつけます。水というのは、見るだけでも、味わっても、浸かっても幸せを感じるものです。感幸という意味では、地域にとって大いに貴重な資源になるものと思います。

水の文化長野県野沢温泉村取材チームの外湯「大湯」男湯での、激熱ハッピネス

水の文化長野県野沢温泉村取材チームの外湯「大湯」男湯での、激熱ハッピネス

裸でともに浸かる効用

旅する人が幸せを感じることを求めるのに応じて、旅人を迎える地域の人たちも変化を迫られています。迎える側も、未知の旅人との出会いの中で、日常を越える幸せを感じられるようにならないといけません。旅人だけが温泉に浸かって「極楽、極楽」と幸せになる一方で、地元の人が「ようごみ捨てるお客さんや」と文句をいうようでは、うまくいきません。

やはり旅人とともに、地域の人も、「今日は素晴らしい人と出会えた、喜んでもらって良かった」と感じられることが大事な点です。

四国のお遍路さんは、そういう気持ちが生きている旅の典型例でしょう。僕はお遍路というと、病苦を癒す、人生の危機にある人ばかりがお遍路に行くのかと思っていたのですが、今は多様な目的で歩いているようです。地元の人は、そうしたお遍路さんをさまざまな方法で接待します。お遍路さんに150円渡す人がいますが、それで缶ジュースを買ってください、ということです。それには「自分は何もできないけれど、気持ちだけ受け取ってください」と、土地の人の心が込められています。義理とか義務とかいうのではなく、自分の代わりにお参りをしてくれている、という思いがあるわけです。

そういう点から考えると、温泉もまさにこの世にあらざる体験空間で、そこにかかわる人々がなぜか力を与えられる相互的な交流の場なんでしょう。仮にドイツ人が温泉に入って病気が治っても、極楽で癒されるような気持ちにはならないでしょう。これは日本独特の美学で、ルースベネディクトもハッピネスを基準とする維持可能な感幸『菊と刀』の中で「耽溺の美学」と表現しています。為すすべもなくお湯に身を預けるということで、言い得て妙ですね。

外国の研究者を日本の温泉に連れて行くと、最初は戸惑いますが、次第に喜んでくれます。桶に熱燗などを入れてもらうとさらに高揚して、裸のつきあいで隔てのない極楽感を味わえる。世界の国々は緊張関係を強いられる厳しい時代になっていますが、そんな中でこそ、温泉の持つ効用を活用したいものです。

自律的観光の時代

このように旅の力点が「感幸」に移ると、「旅人」、「旅行代理店」、「宿泊施設・観光地」という関係も変わってきます。

以前だと、旅行代理店に行って「ちょっと北海道行きたいのだけれど」と頼むと、カウンターの女性はほとんど例外なくパッケージツアーを勧めました。敢えて「パッケージに含まれていないこの場所に行きたいのだけれど」と言うと「ここに寄ると、ちょっと割高になりますね」と言われました。

つまり、典型的なパッケージツアーに乗っかってしまうほうがはるかに安かったし、そこそこ満足できる旅が組み立てられていました。このような旅行代理店のパッケージツアーを、「実に芸術的。きめ細かくオプションを利用者のためにつくる。アメリカではとてもこんなことはできない」と、あるアメリカの研究者は評価したことがあります。そういう意味では日本のパッケージツアーは確かにすごいし、重要な役割を果たしてきました。しかし、そこから選ぶしかないという点では他律的です。

ところが、今では旅程を組み立てる環境も大きく変化し、インターネットで情報は集められるし、ネット予約した方がディスカウント率も高い。このため旅人自身が、自律的に旅を組み立てられるようになりました。

ところが、旅人を受け入れる宿泊施設・観光地の側に目を向けるとどうか。かつての熱海、鬼怒川、白浜などマスツーリズムの時代に大規模施設で観光客を収容していた施設は、旅行代理店に部屋を売っていました。ですから、そういう宿に僕が連絡して「一人で泊まりたい」というと、たとえ空き部屋があっても、「申し訳ありません、満室でございます」と丁寧に断られます。一人客を入れるよりも、何部屋も確保している旅行代理店が送客してくれるのを待っていたほうがいいわけです。この構造は今でも残っていて、旅行客は自律的になりつつあるのに、大規模な地域宿泊業者は旅行代理店頼みで、他律的のままです。

大規模温泉ホテルでは、さらに温泉を囲い込み、ホテルの中にいろいろな店舗を置き、まちの機能までも囲い込み始めました。朝市までもが、ホテルのロビーで行なわれる始末です。この結果、ホテルと地域とのつながりは薄くなって、旅人を迎える地域の人たちが関与できない状態にまでなってしまいました。また最近増えた自律型観光客にとっては、こうした他律的大規模ホテルのやり方は、きっと耐えられないことでしょう。

こういう宿で「6時に夕食です」と言われると絶望的ですよ。宴会がひかえているため、その前に宿泊客全員が集中的に湯に入るため、まるで芋洗い状態です。これでは温泉に浸かっても極楽とは思えない。第一、温泉に対しても失礼です。

ですから、囲い込み型の温泉地が総じてだめになり、大規模温泉ホテルと観光地が共倒れになっている一方で、20部屋未満の宿が大変な勢いで伸びています。こういう宿では、旅行代理店が仲介しないケースが多い。温泉にもゆっくり入れるし、サービスも行き届いています。

「感幸」に焦点が当てられ、これまでの観光産業も構造的な変化を迫られています。いわば「21世紀は自律的観光の時代」ということができるでしょう。

地域の幸福基準

そうなると、これまでは「観光地間での競争」ありきだったものが、「どれだけ自分の暮らす地域の価値を高め、それを旅人に理解してもらい、広めていくか」が重要になってきます。

高度成長期からバブルの時代に、観光地は地域振興、観光振興と掛け声を掛けたのですが、そのときの指標は「観光入り込み客数」でした。その観光地に何人が訪れたかという、客数が問題にされました。これからは発想を逆転させて、経済効率だけでなく、自分たちの生き方や幸福感を視野に入れて、入り込み客数を算出する時代になっています。それを元に、それぞれの地域でどれくらいの入り込み客がないと生きていかれないのかを計算したらいいでしょう。

しかし、このようにいうと「幸せを計測できるのか」と尋ねられます。国全体の経済活動の指標としてGNP(国民総生産)が使われますが、GNH(国民総幸福:Gross National Hapiness )はないのだろうかと思います。これまで政策的には前者は数値化できるから政策課題になるけど、幸せ、感動などは数値化できないため、評価しづらいので無視されてきました。

しかし、海外の事例でいえば、ブータンがGNHを使うことを提唱しています。ブータン国王は、「隣国ネパールのカトマンズを見た限り、近代文明は国民すべてを幸福にしていない。国内に近代文明の負の部分を導入したくない」と言っています。今のブータンの状況は、決して悪いわけではないから、伝統的なライフスタイルを守っていきたい。それで国民の幸せを確保できるのなら、それは悪いことではない。こういう理屈です。

この考え方は、日本の観光や地域づくりにも応用可能です。これまで「入り込み客数」を気にするあまり、外から来る人ばかりを相手に考えていました。しかし、旅人を迎える地域の人たちが自分の土地に誇りを持ち、幸せを感じられるようにする地域づくりをすることが、自律的観光の時代の本当の観光・感幸です。

地域社会の人が自ら立ち、地域の資源をどう維持可能にするかは、みんなで試行錯誤しなくてはなりません。自然資源、文化資源だけでなく人的資源も見直したいですね。昔話をよく知っているお年寄りとか、竹細工の技術を伝承している人なども重要な人的資源です。

こうした地域の光、地域の宝を、どう発掘していくかが問われます。これまでは旅行代理店任せだったけれど、自分たちで魅力をアピールするためには、メーカーが商品開発をするのと同じぐらいの努力をしなくてはならないでしょう。それが自律的な旅人に訴えかける最善の策であり、かつ、その地域が維持されていくためのプロセスなのです。

そのとき、温泉というのはまさしくかけがえのない資産だし、滞在型の拠点としても有効です。この資産を元手に、地域の人々が力を合わせ、総合力で勝負し始めています。

長野県の飯田市は、住民参画型で観光プログラムをつくる「体験観光」で注目されています。小中学生がおじいさん、おばあさんの介護を手伝う体験をし、さらに水引の伝統的な産地だということを生かして、水引づくりを習います。子供たちが「すごい」といって驚いてくれるのが教える側はうれしいし、生きがいにもなります。「お金にすると何円に換算できる」という話ではないのです。

飯田で農家民宿を経営している人にお話をうかがったのですが、以前、自閉症の人が泊まりに来たことがあるそうです。1日目はこちらが話しかけても、何もしゃべらない。2日目に、「ちょっと畑に出ましょうよ」と声をかけたら、おじいさん、おばあさんと一緒に畑仕事をしたそうです。帰って2、3ヶ月すると、「またあの民宿に行きたい」と言ったそうです。それを何回も繰り返していく内に、自閉症の人と宿の人の間で少しづつ話ができるようになったといいます。話をうかがった50歳代の農家の主婦が、「本当に喜んでもらえたので、こちらも民宿を続けてよかったと思う」と語っていたのが印象的でした。その家は別に農業だけでも暮らせるのだけど、市の呼びかけに応じたわけで、最初は見知らぬ人を家に入れるのだけでも抵抗があったそうです。でも、さっきの言葉のように、今では本当に民宿をやってよかったと思っておられる。

これは迎える側にもハッピネスがあるんだ、という発見です。ホスピタリティというのは、本来相互に与え合うものだったのではないでしょうか。このことは長い間ないがしろにされていましたが、飯田の農家民宿の話は、感幸に気づいたことで迎える側のハッピネスが再認識されたという好例だと思います。

ハッピネスを感じる最適な受け入れ数

感幸というキーワードは、エコツーリズムと密接な関係にあります。エコツーリズムで一つの地域にどの程度の人数を受け入れられるかをキャリング・キャパシティと呼びます。

つまり、「お客のニーズに合わせて地域を変える」のではなく、「地域のキャパシティに合わせて受け入れる数を調整する」という考え方です。地域の自然資源、文化資源、人的資源を適応させていくことが、結果として良好な資源循環を生むことにやっと気がつき始めたのです。これが、維持可能な観光の本来の姿と呼べるかもしれません。

現実に温泉の湧出量が減少したり枯渇している所もあり、それを隠していたことがここ数年告発され、問題にもなりました。でも、まがいものの温泉はいやだという人がいるのと同じように、「きちんと情報を明かしてくれれば安心できるから、その温泉でいい」という人もいる。温泉の表示問題については、「成分にこだわる人は、どうぞ他に行ってください。でも、当地は、こういうおもてなしで、こういう満足を提供します」と、はっきり言い切るという姿勢があってもいいと思います。

湿地を保全するために定められたラムサール条約に「賢明な利用(ワイズユース)」という言葉が使われています。湿地のワイズユースとは、「生態系の自然財産を維持し得るような方法での、人類の利益のために湿地を持続的に利用することである」と定義されています。これは湿地だけではなく、温泉も同様です。

これからは地下水資源としての温泉量と観光資源としての温泉利用が、両立しない場合も出てくるかもしれません。しかし、危機感を持って自律的観光地をつくることで温泉資源を持続させることは、結果として観光資源を持続させることにつながるわけです。おそらく、これからは、温泉資源のワイズユースをできる所とできない所で差がついてくるでしょうね。

最後に、もう一点、心配していることがあります。私は以前から、2010年代のアジアで観光ビッグバンが起こると予測してきました。中国を中心に膨大な観光客が日本に押し寄せてくると唱えてきたのですが、そのとき日本側にこれをきちんと受け止める用意があるのでしょうか。もしかしたら、高度成長期のように、大量の観光客をどんどん受け入れ、結果として温泉を過剰揚水し、自律的観光、温泉資源のワイズユースと逆行することになるのではないか。そうならないためにも、感幸を賢明に維持するという資源観や方法を養っておく必要があるでしょう。

【地域の自律性を生かすコモンズ支援・長野県】

長野県にはコモンズの名がつけられた部局が存在する。長野県経営戦略局コモンズ・地域政策チームの企画員、加藤浩さんにどのような活動をしているのか、お話をうかがった。

長野県経営戦略局コモンズ・地域政策チームの企画員、加藤浩さん

長野県経営戦略局コモンズ・地域政策チームの企画員、加藤浩さん



経営戦略局コモンズ・地域政策チームの設立経緯

2002年(平成14)11月に、長野県で中長期ビジョン「未来への提言」をつくろうと検討し始めたときに、発想の転換を図る必要性が議論されました。つまり、国から地方という中央集権的な政策の流れではなく、地域で暮らす人々が「大切だと感じるもの」を大事にして、それを我々行政が補完するという、政策発想の転換です。職員にも、強烈な意識改革が求められました。この理念をコモンズという言葉で表したわけです。

2004年(平成16)の5月から当チームが編成され、10の現地機関にも職員を置いてプロジェクトが進められています。

コモンズ支援金

コモンズ支援金は、いわゆる補助金制度ですが、10億円規模の予算を組んで、地域活動に対して、建物などのハードの事業には3分の2以内、ソフト事業については10分の10以内の補助を出します。

さらに、財政支援だけではなく、県の職員の知恵をお貸ししようということで、「コモンズ支援隊」という取り組みも行なっています。

これらのプロジェクトの特徴は、企画段階で住民にかかわってもらうことです。つくっていくプロセスで絆が深まること、自分たちのものとして大切に思う気持ちを育んでもらいたい、ということが目的です。また、実践時にはできるだけ多くの人にかかわってほしい。それと従来と大きく違う点として、実施後の評価もきちんとしてもらいます。税金をもらっている以上、説明責任を果たすべきだという意識を持ってほしいからです。この3つがうまく回るように支援しています。

コモンズ支援金は基本的に、運営経費に支援はしません。なぜなら、運営経費を補助すると、補助が無くなったときに活動が止まってしまうからです。むしろ、立ち上がりにかかる経費や人のネットワークの形成に支援していくのが目的です。

したがって、地域の特色を生かそうとしている事業、住民の多くが関わろうとしている事業が選ばれています。

今年度は856の申請があり、540事業を採択しました。7万円から1500万円まで、というのが今回のコモンズ支援金の結果で、この金額の幅を見てもわかるとおり、バラエティー豊かな事業を支援しました。

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    機関誌 『水の文化』 22号,石森 秀三,長野県,温泉,観光

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