機関誌『水の文化』25号
舟運気分(モード)

八丁味噌 社史からわかる老舗の知恵
<愛知県岡崎市> カクキュー史料館

1927年(昭和2)に建てられた現事務所が、一際目を引くカクキューの外観。

1927年(昭和2)に建てられた現事務所が、一際目を引くカクキューの外観。

江戸時代後半から、全国各地で名産品がつくられるようになりました。 その土地だからこそ花開いた産物は、そのまちの歴史を背負っています。 味噌、塩、酒、醤油などの醸造品や織物が名産品の第一世代とすれば、 今でも続くそうした老舗には、取引の知恵と記憶が残されているはずですし、 そこからかつての川や海の道を想像できるかもしれません。 今回注目したのは、岡崎市の八丁味噌の老舗・カクキューです。 カクキュー史料館を訪ね話をうかがうと、 奥州や九州が船でつながった江戸時代・八丁味噌の世界が見えてきました。

編集部

まちのアーカイブ

岡崎市は、徳川氏とその家臣団が生まれた土地だ。三河湾に面した矢作(やはぎ)川沿いの温暖な土地を家康は愛し、幕府ができてからも手厚い保護を行なった。その岡崎の名産品として名高い一品に八丁味噌がある。水分の少ない赤い豆味噌で、名前の由来は「岡崎城から西に八丁の距離に店があったから」といわれている。

現在ここで八丁味噌づくりをしているのが「カクキュー」と「まるや」だ。どちらも舟運での荷の積み下ろしに便利なように矢作川の左岸に近く、旧東海道に面して並んでいる。実はこの両店は、江戸時代に姻戚関係があり、競合することで相乗効果を上げているところに三河商人らしさをうかがわせる。

カクキューの正式名称は「合資会社八丁味噌」。創業は江戸時代初期の1645年(正保2)で、362年前のこととなる。が、これはあくまでも公称であって、実際にはもっと前から商いを始めていたらしい。先祖は今川氏の家来から転身したという。社主は代々早川久右衛門を名乗っており、現当主は19代目。現在でも宮内庁御用達の老舗店として、多数のファンを獲得するまでになったのだが、そこに至るまでには多くの苦労があったに違いない。

さて、カクキューでは工場内に史料館を併設している。工場を公開するだけでなく、古くから残る古文書(早川家文書)を整理し、見学者に八丁味噌の製法や当家の歴史をわかりやすく解説している。こうしたいわば産業歴史館は、全国の企業でもつくられ始めているのだが、カクキューで特筆すべきことは、矢作川のたびたびの水害のために行政史料も多数失われているために、意図せざる結果としてまちのアーカイブ(史料館)としても機能していることだ。

上:矢作川。八丁の土場も川べりにあり、積荷の積み下ろしで賑わっていた。 下:吉野杉でつくられた仕込み桶には、6tの味噌が仕込まれ、3tの味噌石が載せられている。

上:矢作川。八丁の土場も川べりにあり、積荷の積み下ろしで賑わっていた。
下:吉野杉でつくられた仕込み桶には、6tの味噌が仕込まれ、3tの味噌石が載せられている。この丸石の多くは大正時代までに矢作川上流で採取されたもので、今後は補給できる見込みがないため大切に使われている。積むのは、すべて手作業。しかしクレーンを使わないで、歴史的建造物である蔵で味噌づくりを続けるためには、最良の方法だ。地震の際にも崩れることがない、秘技とも呼べる手法で積み重ねられている。

裾野が広い味噌商い

味噌・醤油・酒などの醸造品製造業では、比較的古い店が全国に残っている。こうした醸造品の来歴を調べると、その土地のおおよその性格・暮らしがわかることが多い。醸造品は保存がきくために仕入れ先及び販売先の流通範囲が広くなり、必然的に広がった取引ネットワークのあれこれが商いの帳簿類から推し量ることができるからだ。また、多くの地元職人を雇用するとともに、難しい発酵管理の技術開発のために、今で言うR&D(企業の研究開発業務および部門)や人材育成の技術にも独特のノウハウを持っている。それが地域密着型企業として存在していたのだから、土地の風土を知るにはもってこいだ。

良い味噌をつくるためには当然、原料となる大豆と塩の仕入れには格別のこだわりを持つこととなる。

史料館研究員の後藤公子さんは

「関東の北条氏が滅びた後、徳川家康が大勢の家臣とともに江戸に入りました。当社では、江戸に移った大量のお客様の要望で、八丁味噌を運ぶようになったようです」

と言う。

塩は一貫して「饗庭塩(あいばじお)」を使用していたそうだ。饗庭塩とは三河湾に面した吉良吉田地域で製塩された塩。忠臣蔵で有名なあの吉良の塩だ。饗庭は矢作古川の河口に位置し、岡崎からは約15kmの距離にある。

大豆の仕入れ先からわかる船の道

八丁味噌の原料となる大豆はどこから運ばれてきていたのだろうか。実は、カクキューには江戸時代の「大豆買帳」「才木買帳」「塩買帳」「奉公人切米帳」「江戸当座帳」などの文書が残されている。古文書として保存され、整理も少しずつ始まっている。岡崎市史などを編纂するための貴重な史料にもなっており、一部は史料館にも展示され、これをもとにした社史『カクキュー 山越え谷越え350年』(2000)も発行された。

「大豆買帳」に記された、江戸後期〜明治時代における大豆の仕入れ地域を地図に並べ、「地元」「尾州廻船エリアと九州」「奥筋廻船エリア」「北前船エリア」に分類し、その仕入れ推移をグラフにしてみた。

まず、大豆仕入れ先が全国へ拡がっていることに驚かされる。この地名を現在の実際の地図と照らし合わせてみると、航路沿岸の浦・港、あるいは大きな川の河口から遡った所にある町が多いことがわかる。特に地元では矢作川流域が多いのは当然だが、奥州では北上川沿いの地名が見られる。

また、この間約100年の前期には、上州産の大豆の割合が高い(グラフでは、尾州廻船エリアに含まれる)。

上州の大豆産地で有名な場所というと現在の吾妻町、長野原町、嬬恋村、中之条町といった吾妻川流域で、水田には適さない土地だ。そこでつくられた大豆が吾妻川〜利根川経由で運ばれてきたのだろうか。あるいは、ここが中山道沿いにあたることも、関係があるのかもしれない。

九州は扱い高は少ないが、瀬戸内から玄界灘を通り長崎に至る航路沿いに博多〜唐津、平戸、長崎、島原の沿岸、さらに有明海に注ぐ川を遡った地名も見られる。

なぜこれだけバラエティーに富んだ仕入れ先を選んでいるのか、興味はつきない。大豆の仕入れ問屋の帳簿なども、ついつい見たくなる。こうしたデータを並べ直して見るだけで、岡崎地域経済の一つの核である八丁味噌が、実は取引と物流で全国の港とつながっていたことが実感できる。その港は、河口にある港もあれば、後背地はないが入り江になっているような港もある。さらに、川の中流の湊(土場)もあって、かなり内陸まで大豆の仕入れ先が広がっていたことがわかる。

さらに面白いのは、矢作川上流から仕込み桶の上に積む石や大豆を蒸すのに使った薪を運んできたことが、多くの史料から判明している。

カクキューの大豆 仕入量の推移と仕入先地

カクキューの大豆 仕入量の推移と仕入先地



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仕入れ地の長期変動

100年間の仕入れ先推移を見ると、やはり変化が起きていることがわかる。当初は圧倒的に多かった上州大豆が徐々に減り、代わって地元産の比率が高くなってくるのだ。

奥州大豆はコンスタントに2割程の比率を保っている。この変化が幕末以降は顕著になり、以後、地元大豆と奥州大豆が中心になり、上州大豆は姿を見せなくなる。そして明治23年あたりから「蔚山(うるさん)(韓国・釜山北方)や「支那」「大連」「浦塩(ウラジオストク)」などの地名が混じるようになる。

なぜ上州大豆が減少したかという理由もはっきりしないが、明治20年代になると仕入れ範囲が朝鮮半島や中国北東地域にまで一層広がったことが記録から読み取れる。

味噌はどこへ販売したか

製造した味噌はどこへ、どのように出荷したのだろうか。

でき上がった味噌は、まず矢作川の荷物積み下ろし場である「土場」に運ばれた。そこで川船に載せ、江戸への積み出し港である平坂(へいさか)に向かった。運送にあたったのは中畑(なかばた)(現・西尾市)の船頭が多かった。天保期には江戸、名古屋(馬で運ばれたものもあった)、京都のいくつかの問屋に卸されていた。特に江戸には生産された味噌の約四分の一が出荷され、1846年(弘化3)にはその45%が伊勢屋吉之助(日本橋呉服町)に卸されている。ほかにも三河屋又右衛門(南鍋町一丁目)、三河屋次郎八(麹町五丁目)などの名前が見える。

この年、江戸の卸し先は12店で、その量は約1万3200貫。一貫が3.75kgだから、現在の重さで49.5t。「今も一つの仕込み桶で6tの八丁味噌がつくられている」という後藤さんの話を聞くと、江戸への年間出荷量は約8桶分だったことになる。

商いの歴史を残す意味

商いの帳簿類が、後世に史料として利用されるとは、記していた当人はもちろん誰も思っていなかったろう。ところが史料がきちんと残っていることで、カクキューの商いの遺伝子も解読できるし、それをもとに土地の歴史まで想像することが可能になる。企業が、残された古い史料を整理することの意味の一つが、ここにある。商いの知恵を残すには、記録を残すことそのものに意味があるのだ。

カクキュー当主であり代表社員である早川純次さんは、社史刊行にあたり、次のような言葉を『刊行の言葉』に記している。

「売り手と買い手がじかに接する取引の現場では生(なま)の人間同士の理解が欠かせません。直接の商品宣伝はもちろんですが、それとは別に消費者と企業とが理解し合える場がもっとあってもいいのではないでしょうか」

今、各地でさまざまな「産業歴史館」や「史料館」などがつくられている。カクキュー史料館はその中で、どちらかというと地味な部類に入るかもしれない。しかし、老舗として八丁味噌の伝統を守り続け、史料を整理することで、結果として岡崎市商業史アーカイブの一つとして機能していることは、とても意義深いことだ。商いの知恵を発掘する体勢を社主が謳う姿は、これからの地元と企業の関係を示すモデルケースのようにも思える。

  • 八丁味噌の郷・史料館は、1907年(明治40)に建築された味噌蔵を改造して、1991年(平成3)にオープンした。直接味噌づくりに関係するものだけでなく、桶づくりの道具や当時の風俗をうかがい知るための貴重な史料が展示されている。膨大な古文書も、着々と整理が進められている。

  • 右:明治中期の仕込み風景を再現している。

「老舗」を「続ける」

とはいいながら、「本業を今後も続けてこその史料館」であることも事実だ。この場合、老舗とは350年の歴史を背負っていることだが、同時に営業を続けるためには顧客の求めにうまく適応していかねばならない。この2つをバランスさせることに困難を伴うであろうことは想像に難くない。

広報の太田高司さんは老舗ならではの悩みをこう語る。

「戦時中の統制で八丁味噌はつくれませんでした。1950年(昭和25)に統制は解除されましたが、戦後になったら日本人の味噌への嗜好が変化し始めていました。甘さを好むようになったほか、八丁味噌のような固い味噌は扱いづらいということで、軟らかい味噌を求める人が多くなっていきました。そこで1957年(昭和32)に、甘口の白味噌を合わせて『赤だし八丁味噌』を売り出したのです」

現在でこそ知名度がある「赤だし」という言葉は、ここから始まったのだ。太田さんはまた、

「うちは中小企業として、大企業でやっていないことをするしかない。それは何かといえば、昔からの味を守っていくことなんです。売上げ拡大を狙って量産すると味が落ちてしまう危険がある。生産量は上げずに付加価値を向上させるにはどうしたらいいのか。その方法については、いつも社内で検討しています」

と言う。

老舗だからこそ抱える「守る」と「続ける」のジレンマは、戦後の消費拡大・多様化の中で常にあった悩みでもある。その中で、自社のみができることを少しずつ着実に行なってきた。史料館も、その一環である。

ベンチャー企業であるカクキューが、文書と商品という形で八丁味噌の知恵を堅実に受け継いでいるからこそ、見学者は小学生からシニアまでに及び、2006年にはNHK連続ドラマのロケ地にもなって、ちょっとした八丁味噌ブームを起こす結果にもつながった。

このことは何も岡崎だけの話ではない。全国の小都市のどこにでも、古いお店がある。閉じた田舎町と思っていた所が、意外な場所と取引があったかもしれないのだ。そこがダイナミックな世界の一部だったことに、その社史や仕入れ・販売の記録が教えてくれるかもしれない。

そこには「守りながらも市場に適応してきた」、あるいは「適応しようと思ったが失敗した」老舗の軌跡が詰まっている。残った史料を単なる文書で終わらせるか、未来への史料として使うか、それは利用者自身である私たち。アーカイブの世界は奥深い。

  • 竹で編み上げた「たが」は、材料もつくる職人もないために徐々に鉄製のワイヤーに代えられている。ワイヤーの赤い塗料は、塩分による錆びを防止するため。目の詰んだ良質の吉野杉でないと、良い味噌づくりのための桶はできない。

    竹で編み上げた「たが」は、材料もつくる職人もないために徐々に鉄製のワイヤーに代えられている。ワイヤーの赤い塗料は、塩分による錆びを防止するため。目の詰んだ良質の吉野杉でないと、良い味噌づくりのための桶はできない。

  • 左:史料館研究員の後藤公子さんと渡辺則雄さん 右:広報の太田 高司さん

    左:史料館研究員の後藤公子さんと渡辺則雄さん 右:広報の太田 高司さん

  • 左:伝統の技を今に伝えながら、生業を続けているカクキュー。建物の土台に江戸中期に積まれた石垣も、当時のまま。 右:粘りの強い松材を生かして組まれた、蔵の梁。味噌づくりに欠かせない菌が住みついた昔ながらの蔵は、時間が育んでくれた大切な財産だ。

    左:伝統の技を今に伝えながら、生業を続けているカクキュー。建物の土台に江戸中期に積まれた石垣も、当時のまま。 右:粘りの強い松材を生かして組まれた、蔵の梁。味噌づくりに欠かせない菌が住みついた昔ながらの蔵は、時間が育んでくれた大切な財産だ。

  • 左:建物の前面が、かつての東海道。当時はさぞかし賑わっていたに違いない。
    右:温暖な気候のため、米味噌が腐ってしまうことから豆味噌をつくり始めたという。江戸にいた三河人は、この色艶を見て故郷をなつかしく思い返したことだろう。
    三河は気候が温暖なため、米や麦を使うと傷んでしまうことから100%豆を使った味噌になったという。一般に大豆は煮て柔らかくするのだが、八丁味噌の場合蒸すことで赤みが増すそうだ。水分が少なく固いが、独特の味わいには根強いファンが多い。煮込んでも風味が損なわれないのが特徴でもある。(写真はカクキューの有機八丁味噌)

  • 竹で編み上げた「たが」は、材料もつくる職人もないために徐々に鉄製のワイヤーに代えられている。ワイヤーの赤い塗料は、塩分による錆びを防止するため。目の詰んだ良質の吉野杉でないと、良い味噌づくりのための桶はできない。
  • 左:史料館研究員の後藤公子さんと渡辺則雄さん 右:広報の太田 高司さん
  • 左:伝統の技を今に伝えながら、生業を続けているカクキュー。建物の土台に江戸中期に積まれた石垣も、当時のまま。 右:粘りの強い松材を生かして組まれた、蔵の梁。味噌づくりに欠かせない菌が住みついた昔ながらの蔵は、時間が育んでくれた大切な財産だ。


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