機関誌『水の文化』25号
舟運気分(モード)

商いの公用語は江州弁 近江商人の陸の商い

江戸時代後半から、全国各地で名産品がつくられるようになりました。 その土地だからこそ花開いた産物は、そのまちの歴史を背負っています。 味噌、塩、酒、醤油などの醸造品や織物が名産品の第一世代とすれば、 今でも続くそうした老舗には、取引の知恵と記憶が残されているはずですし、 そこからかつての川や海の道を想像できるかもしれません。 今回注目したのは、岡崎市の八丁味噌の老舗・カクキューです。 カクキュー史料館を訪ね話をうかがうと、 奥州や九州が船でつながった江戸時代・八丁味噌の世界が見えてきました。

宇佐美 英機さん

滋賀大学経済学部教授
宇佐美 英機 (うさみ ひでき)さん

1951年生まれ。同志社大学文学研究科修士課程修了。 主な論文に「初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一齣」(『同志社商学』2005)、「『近江商人』の家訓・店則にみる『立身』と『出世』」(『経済史研究』2001)他。

世間良しの意味

私は、近江商人を「本家(本店)を近江の国に置いて、他国稼ぎをした商人」と定義しています。近世社会の中で、もっとも近代的な経営に到達した商人と考えています。

近江商人というと、最近では「三方良し」の精神がCSR(企業の社会的責任:Corporate Social Responsibility)の原点であると注目されているようです。中村治兵衛宗岸という商人の遺訓(1754年)がもとになっているのですが、実はそこでは売り手良し、買い手良し、世間良しなどということも、「三方良し」という言葉も使われていません。実は造語です。

しかし三井や住友などの商人も、売り手良し、買い手良しという意味のことは言っています。むしろ大事なのは、近江商人が「他国であっても、自分の国のように大事にしなくてはいかん」と考えていた点にあります。そこが近江商人の偉いところで、他の商人との違いですね。

家訓や店則というものは、往々にして創業期には書かれないものです。三井もそうですが、近世的な「家」が成立してはじめて成文化する。家訓や店則でわざわざ文字にするということは、そうせざるを得ない状況になったとき、つまり守るべき財産ができた時点でつくるものなんです。近世の「家」というのは家名・家業・家産という3つが複合したものですから、継続すべき財産がないような家に家訓や店則はいらないわけです。

ですから、家訓や店則が書かれた時点でベンチャーではなくなっていて、「今ある財産を守れ」と書かれるのです。そのため歴代当主は「私はバトンを渡す役割」と認識していますし、先祖の財産を次の代に受け渡すリレーランナーであるにすぎないという意識を持つことが、商いを継続させていく条件でもあるのです。

したがって近江商人の場合、新規事業に参入するかどうかは、当主の独断ではなく、分・別家を含めた高級幹部の合議制で決定されます。無能で経営能力の無い当主は隠居に追い込まれます。その結果、家は継続されることが可能になるわけです。

そういう意味では、近世的な商人というのは地縁、血縁、職業縁で生きています。「世間」というのは、阿部謹也さんが言われるように地縁、血縁、職業縁で結ばれているもので、けっして社会(society)ではありません。ですから、近江商人は「世間良し」といってたくさんの社会貢献をしていますが、縁のないところに寄付はしません。近江商人にとっての「世間」は、現代的に考えられている「社会」ではないからです。

だから、世間への貢献事業をしたのは、近江商人の価値観からすれば当然のことでした。

飢饉のときにお助け普請をしたのも、ただの施しにならないようにとの配慮からです。飢饉で困っている人にただお金を渡したのでは、めぐんでもらう側からすると乞食と同じような関係になってしまってつらい。だから、必要でもない蔵を建て、その労働に対して賃金を支払うという形式を取りました。だから、お助け普請でつくった蔵がたくさん残っています。商人道というのはそんなもので、地域に根ざしていたからこそそれができたのです。つまり、地域とは縁でつながった社会なのです。縁があるからこそ、近江商人は「陰徳善事」を旨としてきたのです。

近江商人の社会貢献をCSRにつなげるためには、この「縁」という概念を現代の企業がどう捉え直すかにかかってくるでしょう。

他人の金で商売ができるか

商いがうまくいくかどうかというのは、器量の問題です。自己資本で全部差配できるから力量や才覚がものをいう。だから、他人の資本で経営をするという近代経営は、商人の本務ではないということになります。実際、明治の初めごろ、前川太郎兵衛という近江商人は、会社嫌い、法人嫌いでした。「他人様の金で商売するなら、わしは商売やめる」と言ったそうです。それが商人としてのプライドだったのでしょう。

だけど、しょせん個人の資産だけではジョイント・ストック・カンパニーはつくれないし、有限責任というものを自らのものとした近代的な経営者になれない。近江商人は幕末期400〜600人が諸国に稼ぎに出ていますが、その内、明治以降も続いているのは伊藤忠や日本橋の塚本商事などに留まり、決して多くありません。個人差配の商いからジョイント・ストック・カンパニーへの過渡期に、うまく移行できずに終焉してしまったからです。

例えば、塚本商事などを起こした塚本定右衛門は、後の孫世代の役に立つと考え、巨額の植林費を寄付しました。こういう行為を、勝海舟は『氷川清話』の中で誉めますが、一方で渋澤栄一が、「固陋頑迷の近江商人」「近江商人は金を持っているのに、ちっとも近代的な経営投資をしない」と批判する。それは渋澤から見れば固陋頑迷でしょう。でも商人経営者からすれば、どこの誰ともわからない人間に金は出せません。一銭というものを大事にして子どもを教育している人間にとって、血縁も地縁もない人に投資はできませんよ。だから、成功した近代的経営者から見れば、近江商人は商覚がないと言われます。

流通商業だけではなく、製造業をもたなくてはならないと最初に言った近江商人は、二代目の伊藤忠兵衛です。それでも、呉羽紡績のような糸偏の紡績業までしか持てなかった。忠兵衛はイギリスにも留学した近代人ですが、初代に仕えた高級幹部がなかなか首を縦にふらなかったそうですから、近江商人が大切に守ってきたものが、近代化への過渡期には、かえって転換することの妨げになったということは想像できます。

やはり日本では、教科書に書いてあるように「商業資本家が産業資本家に転換する」というようなわけにはいきませんでした。

近江商人のネットワーク

商人の本分とは需要と供給のバランスをとり、不足しているところにモノを運んでやることです。そのためには、遠方にも商品を持っていく必要がありました。近江商人は、特に東日本に向けて多く出店しています。

例えば、仙台に中井源左衛門という近江商人で一番大きい家が出店しています。中井の本家は近江の日野にありますが、本店機能は仙台にある。他にも店はたくさんあるんですが、仙台店(だな)が一番稼ぎが大きく、その下に出店・枝店(えだみせ)を東北一帯につくるわけです。仙台店から各出店(でみせ)にモノを売って歩きますし、取引先との間にまた店をつくっていく。だから分家・別家(注1)になる者がどんどん枝分かれしていきます。

枝店というのは、その地域の取引先で、委託販売をしてもらった店がなったり、別家の人間が開いた店もあります。そういう形で広くネットワークを拓いていきました。別家の人間の場合は、一応同族団に入っています。

中井家は、幕末に仙台藩の財政を任され、結局25万両を踏み倒された家です。このため当主は責任を取らされて、奉公人から強制隠居させられました。でも、家は潰れなかったのです。

(注1)別家
本家から家名と財産を分与されて独立するが、独立後も本家との主従関係が続く店のこと。

江戸時代における近江商人の出店分布
『近江商人と北前船』サンライズ出版2001より(江頭恒治博士「江州商人」より、彦根高商調査月報、第八号付図に加筆作成)



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商いの方法

近江商人というと、諸国産物回しが有名です。上方から江戸に運ばれた商品を「下(くだ)し荷」、上方や近江に運ばれた地方の物産を「上(のぼ)せ荷」といい、支店同士で荷物を回していくのが諸国産物回しです。

一口に近江商人と言っても、日野、五個荘、近江八幡、そして湖西の高島で商人の性格は微妙に違います。例えば、日野は日野商人団といえるくらいで、結束が固い。

近江商人は中山道などにそれぞれ定宿を持ったので、そこに行けば同じ出身地の仲間がいます。そこで「あそこで、これが売れそうだ」というようなリアルタイムの情報交換をしていたのです。人が行かないような辺鄙な所でも、「誰も行かんさかいに、行ったら売れるんやから、うれしい」と言って、険しい山を越えていく。市場開拓という点で近江商人のベクトルは、圧倒的にお客さんを向いています。この点は、日銭で商売している都市の商人とは全然違います。

創業期は天秤棒を担いで商いに出ますが、後に彼らが持ち歩いているのは商品ではなくほとんどが見本帳です。

最初は見本帳を各地の小売商さんに見せて注文を取り、デザインどおりにつくった商品を出店、もしくは契約の宿に送ります。商品を送るのには、飛脚を使います。陸運です。出店や契約の宿に荷物が届くと、そこに地域の小売商たちが集まってきてそれを買う、というシステムです。

だんだんお得意さんが増えてくるようになると初めて出店をつくって、そこに商品を送るようになります。

こうした出店が増えると、本家は毎年1回、各店を回り始めます。会計監査とお得意様への挨拶まわりの合間に物見遊山もしますが、それが情報収集も兼ねていました。

関東後家という言葉がありますが、旦那が出店回りで10カ月ぐらい関東に行っているので、その間奥さんは後家になるという意味です。普段本家を守っているのは、奥さんなんです。

だから女性が有能じゃないと近江商人は成り立たない。当然、婚姻も「縁」を第一に考えて行なわれていました。地方につくった出店にいても、近江商人の心がけをわきまえた女性を妻に迎え地元に住まわせていました。

1650年代以降、西回り・東回り航路ができて全国市場が形成されます。その中にあって近江商人は薄利多売を旨とします。リスク分散するために兼業をして、質屋をやり、小間物、荒物を売り、呉服太物(ふともの)を売る。どこかの部門で流行すたりによる損があれば、それを別の部門でカバーするというやり方です。利益が出ると「三ツ割制」といって、本家、積立、奉公人への配分をし、働くモチベーションを上げるとともにストックを蓄積していきました。

近江商人は信用を大事にします。「よそ者の近江者だからこそ、地域で可愛いがってもらわないといけない」と子どものころから教え込むわけです。北関東には日野商人が多いのですが、儲けたお金を地元に投下し、醸造業者となって地場産業を興しました。ですから、一揆が起こっても、打ち壊しにあいません。秩父で一揆が起きたときも、一揆衆は「ここだけは潰すな」と言って止めたそうです。そう見てみると、商売人に道徳とそろばんが分離していなかった時代だということですね。だから、両者が分離した近代になると、近江商人が取り残されていったのは当然のことかもしれません。

近江商人の出身地 ●の大小は出身者数とほぼ比例する。

左:近江商人の出身地 ●の大小は出身者数とほぼ比例する。
『近江商人と北前船』2001サンライズ出版より作図 
右:「江戸時代における近江商人の出店分布」の関東拡大図



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北前船主と近江商人の違い

北前船というのは、当初は蝦夷地交易をやっていた近江商人の雇い船の船主たちでした。近江商人は手船も持っていましたが、敦賀や橋立で廻船問屋の船を雇うことも多かったのです。その内、廻船問屋も近江商人の荷物だけでは利益が薄いので、北前船主として展開を始めました。

富山の北前船主の屋敷などを見ますと、近江商人とは違い、屋敷は小さいし、庭の三和土(たたき)に大きな一枚岩があったりするのが自慢なんですね。

一方、近江商人の屋敷は、船板塀に囲まれた表向きは質素倹約な造りです。ところが一歩中に入ると、ものすごい庭があり、蔵には書画骨董が収まっています。自然を愛でながら、琵琶湖をデフォルメしたような池をつくり、書院をつくり、サロンをつくって芸術と文化をたしなむ空間をつくります。北前船主の家に、そんな空間はないですよ。そんなところに、危険を背負っている船主との気質の違いが出るんじゃないですか。

近江の街並

近江の街並

陸運の担い手は飛脚

近江商人は、蝦夷地の海産物なども扱いましたが、上方ものは菱垣廻船で大坂を経由して江戸に運びました。そこから北関東へは利根川水運で入る。北へは奥筋廻船で石巻に持っていく。

先ほど挙げた、仙台の中井家へは陸送と海運の両方あったと思います。舟運の場合、中井家はまず大坂や鈴鹿の白子に運ぶ。そこから江戸に直行します。近江国内の買い継ぎにきたものは白子に卸す場合もあるし、敦賀から北前船で北にいく場合もある。

琵琶湖の湖上運送は単純明快で、北前船が敦賀か若狭に来ます。そこから馬の背に乗せて山越えをして、塩津か海津あるいは今津に出る。そこから京都・大坂への荷は船で運んで堅田に入る。その途中で長浜や彦根、安土に下ろされます。

例えば近江の蚊帳を、上州に運ぶ場合はどうか。まず、江戸まで荷物を持っていきます。そこから表向きは、江戸の問屋組が配分の権利を持っていますから、利根川水運で上げていきますね。そこで別の問屋仲間に渡される。ところが、近江八幡の新商人は直接持っていったこともあったらしく、問屋組と争いも起きました。そういう新商人も、基本的には株仲間に入れということになります。

飛脚は、舟運と違って陸路で安全ですから、普段はそちらを使ったようです。ただ、飛脚仲間のことは、よくわからないんですよ。普通、飛脚といって思い浮かべるような、手紙を運ぶ三都間の飛脚については、ある程度明らかにされているのですが。

荷物を運ぶ飛脚には、「宰領」と呼ばれる親方がいて、その仲間があることについてはわかっています。三井も、特定の飛脚商人と契約していたと思います。近江商人も、地元近江の飛脚仲間に頼んでいるところまではわかっている。ところが、人名まではわからない。だから、例えば上方ものを買ったときに、最終的に誰がそれを運んだのかはわかりません。京都の飛脚仲間が運んだのか、近江の飛脚仲間が運んだのか、現在のところ実態はほとんどわかっていません。

このことは近江に限らず、全国的にわかっていない。おそらく、陸送を請け負った親方が最後まで荷物を運んでいったのではないかと思います。ただ、それも飛脚の名前がわからないと、棚卸し帳に名前が出てきても、それがどういう業者なのかもわかりません。おそらく勘定費目の細目を分析すれば、どのように運ばれたかがわかってくるのでしょうが、今の研究段階では総勘定元帳の集計の部分だけで分析が行なわれています。だから、日本の商業史におけるロジスティックス(物流システム)というのは、海のところはそれでもまあまあわかり始めていますが、いまだに解明されていないんですよ。

陸路の場合、多くの近江商人は中山道を通ります。東海道は川留めもあるし、第一に鈴鹿山を越えるのが大変なんですよ。それに、中山道のほうが辺鄙だからそちらを開拓するメリットもある。このため、18世紀初頭には、信州と上野(こうずけ)の国境辺りまで近江商人の商圏に入ります。

18世紀の終わりぐらいから藩専売制が展開しだし、社会が重商主義的になって、他国の商人よりは自国内商人を保護するようになりますが、実際は近江商人がいなくなったら消費経済が成り立たない。そこで、必要悪のような形で各地に入り込みました。その時期は、農村が豊かになって農民の手元にちょっとしたお金が残るようになったときと重なります。その「ちょっと」を目当てに、近江商人は荷物を持っていくんです。例えば、農家の亭主が「古女房に紅でも買ってやるか」というときに、城下町まで足を運んで高価な品を買うか、安物だけど近江商人が運んでくる京紅を買うか。どちらを買いますか? 城下町へ行けば何でも売っているけれど、農民の「ちょっと」では買えないんですから。

「商いは牛のよだれの如し」と言い「細く長く」、つまり薄利多売、少しずつでも買い続けるモチベーションを消費者に喚起することです。一代で一万両儲けるのも、三代で一万両儲けるのも同じ一万両です。近江商人は、後者に価値を見出したんです。

商売の公用語は江州弁?

僕が一つ気にかかっているのは、商売の公用語です。実は近江商人の「商売の公用語は江州弁」と思っているんです。たまたま栃木の二宮町の近江商家に調査に行ったときに、奉公していた80歳過ぎの方にお会いしたら、その方、江州弁を話していらっしゃるんですよ。50年もそこに暮らしていても、栃木の言葉になっていない。

日本の近世の商売人がどこの言葉でしゃべっていたのか、実は大問題なんですね。仙台で近江商人が南部弁をしゃべっていたとは思えないんですよ。金を持っているのは中井家ですから、商売していく以上借りなくてはならない金は、中井家から工面していたと思う。地元の多くの商人は金を貸すほどの資力がないので、近江商人の出店は地域の金融センターを兼ねていたんです。そうした場合、おそらく江州弁をちゃんと理解して、金を借りていたんじゃないですか。

近世では、文書は基本的にお家流という文字で書かなくてはならないことになっています。東北の人と九州の人が文章で意思疎通できたのは、お家流で書いていたからです。

でも、話し言葉では通じ合わなかったはずです。それは近江商人に限ったことではありません。だから、わからなければ筆談でしょう。蝦夷地の場所請けだったら、アイヌ語をしゃべる何人か通詞が必要でした。

取引関係が広がるということは、共通言語が普及することでもあるんですね。



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