水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄 (こが くにお)さん
1967年(昭和42)西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。 30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川開発調査会。筑後川水問題研究会に所属。
「来年、運ぶとなると北廻りか西か早く決めなければならん」英之助が少し心配そうに言った。瑞賢は茶をうまそうに啜った。「西にしましょう」もう決めたのか、お主にはいつも驚かされる。
河村瑞賢の生涯を描いた小説、峯崎淳の『大欲』(講談社2001)の中の西廻り海航を決断する一場面である。寛文12年(1672)に、山形の酒田を起点に北陸から下関を経て、大阪、江戸に至る西廻り航路が結ばれた。瑞賢は鎌倉建長寺に眠るが、瑞賢没後300年記念シンポが1999年に開かれ、その記録をまとめた土木学会編・発行『河村瑞賢ー国を拓いたその足跡』(2001)は瑞賢の業跡を分析する。
瑞賢よりも早く、慶長19年(1614)角倉了以(すみのくらりょうい)は鴨川の水を利用して京都の中心部と伏見湊を結ぶ10.5kmの高瀬川を開削。この運河は伏見から淀川を経て大阪に通じ、さらに西国航路に結ばれた。石田孝喜著『京都 高瀬川ー角倉了以・素庵の遺産』(思文閣2005)は、この運河開削について詳細に論じる。了以は、和気川(吉井川上流)の高瀬船の往来を見て、大堰川・高瀬川の開削を計ったといわれる。
瑞賢と了以の功績は日本の舟運回廊をつくり上げ、江戸期の流通システムを構築した。古島敏雄は、幕藩体制における舟運の発達要因は、年貢米の回送が必要性を持ったこと、舟運は陸上輸送より安く、積載は運搬能力が大であったことを挙げている。
淀川水運について、日野照正著『畿内河川交通史研究』(吉川弘文館1986)は、同著『近世淀川水運史料集』(同朋舎出版1982)を駆使して、関料免除の特権を有する過書船を中心に、その過書船の成立経緯、過書奉行による過書株占有や大船重視の姿勢、幕府の伏見船公許と過書船との関係、過書船の運賃と上米、さらに外国人使節船団の通航、煮売茶船の営業との紛争などを論じる。
高瀬船は急流な山川を川瀬の浅い所も航行できるように底を平たくしたもので、奈良時代からあったという。利根川にも多くの高瀬船が往来した。渡辺貢二著『船頭』(崙書房1979)、同著『利根川高瀬船』(崙書房1990)は、利根川の堺河岸、小堀河岸の船頭たちの聞き書きによる利根川水運の盛衰を描く。おばあさんの子守歌、「ぎっこん、まんまさん お船が通るなに積んで通る まき積んで通る ぎっちら ぎっちらこぐはおえびすか、だいこくかこっちは福の神」と、遠くなった船頭さんの原風景を口ずさむ。千葉県印西町の木下(きおろし)河岸は、銚子往還の継場として、銚子と船で連絡し、陸路で江戸と結ばれていた。山本忠良著『利根川木下河岸と鮮魚街道』(崙書房1982)は、銚子沖や鹿島灘でとれた鯛、スズキ、ヒラメなどを木下河岸を通して、行徳または松戸ルートで日本橋市場へ輸送する推移を辿る。
利根川水運の発達は江戸市場の形成に大きな役割を持った。丹治健蔵著『関東河川水運史の研究』(法政大学出版局1984)は、上信越・東北地方と江戸との中継河岸(倉賀野・境・布施)の史料に即し、領主的河川運輸機構の一環として成立した河岸、農村向け登り荷物の独占的運輸業者・江戸の船積問屋の盛衰、前橋藩の廻米仕法や河岸支配の実態、幕府における川船政策、川船の種類や技術を追求し、河川水運を都市の発達、農村構造の商品化、さらに商品の流通化との密接な関連の視点から捉える。
渡辺英夫著『近世利根川水運史の研究』(吉川弘文館2002)では、特に水戸藩が藩領域を越えた水運機構を営んでいた点を解明する。それは、運送方役所を核とした江戸廻遭機構を組織し、運送奉行指揮のもとに、10艘前後の藩船を霞ヶ浦・北浦、利根川、江戸川に航行させ、国許の水戸城付領から江戸の藩邸に物資を輸送する。他方霞ヶ浦に面した地域では、農民たちによる年貢諸物資の江戸納めが義務づけられ、農民船が運航した。
河川舟運をライフワークとする川名登著『河岸に生きる人びとー利根川水運の社会史』(平凡社1982)は、利根川沿いの河岸形成とその実態を実証する。同著『近世日本水運史の研究』(雄山閣1984)では、奥州福島から江戸へ米穀を運ぶ場合、瑞賢が寛文11年(1671)に東廻り航路を開発した福島より、阿武隈川水運によって太平洋岸の荒浜湊まで下り、そこから回船に積み替え、太平洋岸を南下し、利根川の河口の銚子湊に入港、ここより利根川、江戸川水運によって、江戸に到達する。この書で、輸送システムは河川水運−海運−河川水運によってはじめて完結すると主張し、東廻り海運と利根川水運、江戸幕府の内陸水路と川船支配機構と流通体制を追求する。
また、同著『河川水運の文化史』(雄山閣1993)によれば、幕末の国学者平田篤胤(ひらたあつたね)が利根川流域に来遊すると、その影響を受けて草莽の国学である「下総国学」がおこり、国学者宮負定雄(みやおいやすお)、農村指導者大原幽学らを輩出し、また布川河岸の医者赤松宗旦は千葉周作や葛飾北斎ら、多くの文化人との交遊を通じ「利根川図志」を著すなど、利根川の水運によって絵画、俳句などの江戸文化が流入し、独自な利根川文化圏を生み出した、と考察する。
さらに、同著『近世日本の川船研究(上)』(日本経済評論社2003)、『近世日本川船研究(下)』(2005)は、岩木川、雄物川、北上川をはじめ、各地の古文書から全国の河川にかかわる舟運の成立、各藩の川船支配、川船の種類(高瀬船、角倉船、小廻船)、川船の分布などを実証する。岩木川をみてみると、弘前藩は(1664年)寛文3蔵米輸送5艚を建造し、岩木川を上下するとともに十三湊から海上に出て鰺ヶ沢まで航行。藩は船頭や水主を召し抱えるが川船の運営から利益が上げられず、民間船(農民船)に援助を与えて、藩の物資を輸送する経過を論じる。
正保4年(1647)川越城主松平伊豆守信綱が、荒川の支流新河岸川に多くの屈曲をつけ、舟の運行に適する水量を確保する改修工事を行ない、江戸と川越を結ぶ運河が完成した。斉藤貞夫著『川越舟運』(さきたま出版会1982)に、新河岸川舟運の盛衰を次のように述べている。
上・下新河岸、扇、寺尾、牛子の5河岸が発展を遂げ、舟は高瀬船で、70〜80石積で米俵で250〜300俵を積んだ。舟の種類は、並船は浅草花川戸まで一往復7日〜20日ほどかかる不定期便の荷船、早船は乗客を主として運ぶ屋形船、急船は一往復4日ほどかかる荷船、飛切船は今日下って明日上る特急便であった。川越方面からは俵物(米、麦、穀物)、さつまいもや農産物、木材などを運び、江戸から肥料類をはじめ日用雑貨を運んだ。
舟運の全盛期は幕末から明治初年で、明治28年に川越鉄道、続いて川越電気鉄道、東上鉄道が開通すると舟運の輸送が低下、水害を防ぐ河川改修によって流路が真っ直ぐとなり、水量が保てず昭和6年、舟運は幕を閉じた。
新河岸川舟運に関し、斉藤貞夫著『武州・川越舟運[新河岸川の今と昔]』(さきたま出版会1990)、埼玉県立さきたま資料館編『新河岸川の水運』(埼玉県県政情報資料室1987)、上福岡市立歴史民俗資料館編・発行『新河岸川(舟運)の福岡・古市場河岸』(1990)、同『新河岸川舟運 九十九曲がりの船頭と船大工』(1994)、花井泰子・文、まえだけん・絵『新河岸川の八助』(けやき出版1990)の書がみられる。
終わりに、関東地方の河川水運について、埼玉県立さきたま資料館編・発行『荒川の水運』(1987)、同『元荒川の水運』(1991)、玉川上水通船研究会編著『玉川上水通船史料集』(たましん地域文化財団1998)、松戸市立博物館編・発行『特別展 川の道 江戸川』(2003)、北野道彦著『利根運河』(崙書房1976)、工藤忠道著・発行『那珂川の歴史』(1991)、杉山久吉著『相模川の船』(平塚市教育委員会1973)、進藤文夫著・発行『相模川の渡船 付 舟運と筏流し』(1979)を掲げる。
このように河川舟運の発達をみてくると、運河も重要な役割を持ち、物資のみを運ぶだけでなく、人や文化をも運び、自然に優しい運送手段であった。しかし、明治以降、鉄道や道路の開通によって次第に河川舟運は衰退していった。河岸を形成していた河川沿いの町もまた消えていく。時代の流れとはいえ寂しい。これからの河川整備の一つに舟運の復元を図りたいものだ。