そもそもソバとはどのような植物で、どのような栄養素があるのか。また、信仰とそばにはどんな歴史があるのか――。農学におけるそば食文化の研究者、氏原暉男(うじはらあきお)、俣野敏子(またのとしこ)両氏の教えを受け、以前は雑学と捉えられていたそばについて、食品科学を中心に民俗学や心理学など別の分野からもアプローチした『そば学(sobalogy)』を上梓した信州大学名誉教授の井上直人さんに、水とソバ(植物)、そば(食品)の関係について聞いた。
多年生の宿根ソバ「シャクチリソバ」の葉も一緒に練り込んだ「シャクチリ曼荼羅そば」
撮影協力:蕎麦 きし野
インタビュー
信州大学名誉教授
井上 直人(いのうえ なおと)さん
1953年東京都生まれ。帯広畜産大学大学院卒業後、長野県農業試験場研究員、京都大学農学部講師、同助教授を経て2002年に信州大学教授。農学博士。ソバをはじめとする穀物の生理生態、食品科学、育種、土壌学の研究教育に取り組む。著書に『そば学―sobalogy 食品科学から民俗学まで』『おいしい穀物の科学』『雑穀入門』などがある。
ソバは五穀(コメ・ムギ・アワ・キビ・マメ)のなかに入っていません。多くの穀物のようにイネ科ではなく、タデ科ソバ属の植物です。食品中に含まれる必須アミノ酸が必要摂取量を満たしているかどうかを示した「アミノ酸スコア」が、そば粉は100。この数値は、必須アミノ酸9種類がすべて一定の基準値を超え、バランスよく含まれた食品であることを意味しています。他の穀物に比べ、ソバが抜きん出て栄養豊富であることは、昔から体験的に知られていました。
天皇家とかかわりがあった修験道の総本山、京都の聖護院(しょうごいん)に残された1600年代の古文書に、吉野熊野で修行した親王の日記があります。それによると、断食の行に入る直前、鶏卵をつなぎに使ったそば切り(そば粉を練った生地を包丁で細く切ったもの)を大量に食べていました。室町時代から続く比叡山延暦寺の千日回峰行は100日間、五穀と塩を断つ荒行ですが、そばだけは食べてよいことになっています。ソバは五穀ではないからです。
長野県旧伊奈村(現・伊那市)の伝説の修験者、寂本先明(じゃくほんせんめい)(1847-1931)は40歳から15年間、ソバの実を粉にして練り上げたそばがきだけを食べて修行したそうです。
京都大学の故・大西近江(おうみ)教授らの研究によると、ソバ栽培の起源地は中国の三江(サンジィァン)地域とされています。四川省、雲南省、東チベットの境界付近で、三つの大河が南北に並行して流れる地域です。考古学による種子と花粉の分析では、およそ4000年前のこと。初めて栽培化したのは少数民族のイ族だと推測されています。
標高差が大きく、荒れた土地で、コムギやオオムギは栽培できなかったので、土地に適応していたソバの野生種が利用されたのでしょう。苦味の強いダッタンソバ、多年生の宿根ソバ、今の日本で食べられている普通ソバの直接の祖先種と近縁野生種。これらすべてを見ることができるのが三江地域です。
雲南省や四川省とチベットを結ぶ道は「西南のシルクロード」と呼ばれ、中国では「茶馬古道(チャマグゥダオ)」として知られています。チベット族では野菜が不足し、雲南の部族では戦争に必要な馬が不足していました。そこで、野菜代わりの保存食になる雲南の黒茶の塊と、チベットの馬が交易されていたのです。
茶馬古道の遠路を乗り越えるための携行食がそばでした。栄養価が高く、生食でも消化がよいダッタンソバや普通ソバを「粉」の状態で利用していたと考えられます。
日本でそば切りの最古の文献は戦国時代の1574年(天正2)。長野県木曽谷(現・大桑村)の臨済宗定勝寺の工事の際、寄進にそば切りが振る舞われたという記録があります。
そば切りは、どの地域でもハレの日の祝い食でした。それが江戸で庶民の食文化として花開いた理由の一つと考えられるのは、各地から大工職人が流入したことです。
過密都市の江戸では火災が頻繁に起き、建物の普請に大勢の大工職人が必要でした。彼らが喜ぶ食事は田舎の祝い食であるそば切り。さほど加熱しなくても消化がよいし、上方から来たしょうゆを使ったそばつゆにつけて、ズルズルッと一気に食べられます。しかも安くて栄養満点。忙しい仕事の合間に、片膝立ててサッとかきこめる食事として重宝され、江戸の街角で大流行したのでしょう。
ソバと水との関係でいえば、中国の陝西(せんせい)省で調査したときに驚いたことがあります。乾燥していて日中は葉が萎れているのになぜソバが栽培できるのか不思議でした。早起きして外に出ると謎が解けたような気がしました。気温の日較差が20度もあり、朝霧でソバの葉がびしょ濡れです。葉の表面を電子顕微鏡で観察すると、意外にも表側に気孔がたくさんありました。通常は、他の作物では気孔は裏側だけにあります。つまり、雨だけではなく霧や露をも葉の表面から直接取り込む高い能力がソバにはあったのです。
ソバは「他殖性」の植物で、一つの花のおしべの花粉がめしべに受粉しても実はつきません。めしべがおしべより短い花の個体と、めしべがおしべより長い花の個体の間でだけ昆虫を媒介に受粉し、実がつきます。遺伝的には繰り返し交雑しているわけです。「自殖性」のイネのように1個体から増やせないので、品種改良をして安定的に大量生産することが難しい。
逆にいえば、それぞれの地域で栽培しているソバはすべて在来種になります。その土地ごとに適応した独自のソバがあるのです。
日本の伝統行事には、古代中国から渡来し独自に発展した陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)の自然観が深く根づいています。伝統食としてのそばも陰陽五行説の影響を受けていると考えています。
陰気と陽気が交合し地上に派生した「木(もく)」「火(か)」「土(ど)」「金(ごん)」「水(すい)」の五気のうち、ソバ産地の多くは江戸から見ると北にあたるため、ソバは方角として北に相当する「水気」の性質をもつと考えられました。五気の間には「水生木(すいしょうもく)」(水気から木気が生まれる循環)や、「金克木(ごんこくもく)」(金気は木気に勝る)といった関係が成り立ちます。
長野県伊那市高遠(たかとお)町の伝統食「高遠そば」は、大根おろしと焼きみそを薬味にして食べます。陰陽五行説では、白くて硬いダイコンやダイズは「金気」のシンボル。金気は「木気」である作物の敵なので、金気のシンボルを徹底的に潰し豊作を祈願したのです。そばは元来こうした「まじない食」でした。
徳川家康の孫で家綱を補佐し幕府の政治運営に大きく貢献した保科正之は、陸奥国会津藩初代藩主を務めましたが、もともとは信濃国高遠藩の藩主でした。領地替えのとき、そば職人を引き連れて行ったことから、会津にも高遠そばが定着し、今もその名が残っています。
江戸の「更科(さらしな)そば」も、保科正之の勧めで開業し、当時のソバの集散地が信濃国更級で、「級」に保科の「科」をあてたものです。この更科そばが流行した背景にも陰陽五行説があると見ています。東方は木気で、それを治めるには木気に勝る金気が重要と徳川家では考え、金気の白い色を重視しました。玄ソバ(殻付きのソバの実)は黒く、色では水気を表す黒ですが、製粉方法の工夫で、金気を表現した白い更科そばが誕生したと考えられるのです。
大学の研究室で寒冷地に伝わる伝統的な収穫後の加工法「寒(かん)ざらしそば」を再現する研究をしました。玄ソバを大寒の時期に河川の冷水に約10日さらしたあと、雪の上に広げて約1カ月低温で乾燥させ、貯蔵します。こうするとソバの雑味が消え、虫の防除もできて貯蔵性が増すのでそば粉の品質が高まります。
しかし、冷水中では、健康維持に効果的なGABA(γ-アミノ酪酸)が約10倍に急増するものの、水から出して乾燥するとGABAは次第に低下することがわかったのです。
そこで、水の力をそのまま活かせば、おいしくて栄養価のさらに高いそばができるのではないかと考えました。冷水に2〜4日浸した丸抜き(玄ソバの殻をむいた実)の水を切り、GABAの低下を避けるために雪上で乾燥させず、無製粉で、杵(きぬ)と搗(つ)き臼(うす)を組み込んだ「胴搗(づ)きそば自動製造機」を独自に開発し、そばを打ってみました。
例えば、多年生の宿根ソバであるシャクチリソバを使い、その葉も一緒に練り込んで、この製法で打った緑色のそばは、ソバが本来もつ強い風味と生命力を引き出すことに成功したと思っています。
こうしたそばにまつわる貴重な資料や製麺道具は各地にありましたが、全国的に施設の閉館が相次ぎ、収蔵品が散逸しつつあります。2023年(令和5)9月、信州そば発祥の地とされる伊那市高遠町をPRするために開館した「そば博物館」には、江戸時代に活躍した石材加工集団「高遠石工」が今の東京都あきるの市でつくった石臼など、貴重な資料が約2000点展示されており、寄贈を受けたものも多数見ることができます。
■そば博物館
〒396-0211 長野県伊那市高遠町西高遠1695
※不定期開館のため訪問前に要連絡
連絡先:竹松旅館(Tel.0265-94-2113)
入館料:解説なし200円/解説あり500円
(解説員は常駐していないため要相談)
(2023年11月22日取材)