地域密着型資源の可能性
生活環境主義の視点から、写真を撮り、文章を書いて発表してきた古谷桂信さん。その心に、ぐっと迫ってきたのは、小水力発電でした。小さな水の流れが力を秘めている。そのこと自体は間違いのない事実。しかも、物理的なエネルギーだけではなく、疲弊した地域を、資源の宝庫に変えるエネルギーをも秘めています。郷里・高知で、小水力利用推進協議会を立ち上げた経緯から、小水力利用の実際を学びます。
環境フォトジャーナリスト
古谷 桂信(ふるや けいしん)さん
1965年、高知県生まれ。関西学院大学社会学部で鳥越皓之教授のゼミに入る。海外ではグアテマラのマヤ民族、国内では水環境などをテーマに活動。高知小水力利用推進協議会事務局長、全国小水力利用推進協議会理事。
主な著書に『生活環境主義でいこう!』(共著/岩波書店 2008)、『どうしてもダムなんですか?』(岩波書店 2009)、『地域の力で自然エネルギー!』(岩波書店 2010)ほか
私は大学に入るまで高知県で育ち、子どものころから水辺で遊ぶことが好きでした。夏になったら水中眼鏡をつけて、川に潜って魚を捕ったり、エビを突いたりしてきました。関西学院大学に入って関西に来たら、そもそも近くに泳げる川がない。夏になっても「あっついのに、水にも入れんがか」と残念に思いました。
3年生のゼミのグループ研究でテーマを決めて研究することになったのですが、私は「四万十川に興味がある」と、みんなに言ったんです。グループの他のメンバーから意見がなかったので、遠いのに私のグループは四万十川をテーマにすることが決まってしまいました。それが1988年(昭和63)のことです。1983年(昭和58)に、NHK特集「最後の清流 土佐・四万十川〜清流と魚と人と〜」という番組が放映され、世間の注目が四万十川に集まり始めたころでした。
鳥越皓之ゼミの実習は琵琶湖でのフィールドワークで、その指導をしてくれたのが、現在の滋賀県知事、嘉田由紀子さん。当時、嘉田さんは、琵琶湖研究所の研究員でした。その後、嘉田さんを通じて、琵琶湖博物館の仕事として、水辺の暮らしの今と昔を比較する今昔比較写真の撮影もさせていただきました。
グアテマラをはじめとするラテンアメリカのこともやりながら、同時進行的に、水辺にはかかわり続けてきたんです。
2001、2002年(平成13、14)とグアテマラのアティトラン湖でも、マヤ民族が暮らす村の今昔写真をやりました。知事になった嘉田さんの政策の根幹を紹介する『生活環境主義でいこう!』(岩波書店 2008)を発表したり、淀川水系流域委員会のルポを取材している真っ最中に『水の文化』28号を読んで、小水力利用を勧める茨城大学の小林久先生の考えに出合ったんです。
生活環境主義をやり、吉本哲郎さんの地元学の発想から地域を見る。そういう経験をしていたところに、「地域の資源を地域で使おう」という小林先生の文章がすっと入ってきました。
「ほんまやろか」と思いましたよ。私の学生時代には、槌田敦さんが「自然エネルギーと化石燃料を比べたら、自然エネルギーなんておもちゃだ。太陽光なんて論外」という論陣を張っていた。原子力エネルギーはともかく、化石燃料を超えるエネルギーなんてあり得ない、と自然エネルギーを完全に否定していたんです。そりゃあ、エネルギー効率をまともに比べたら槌田さんの言うとおりでしたから、私も自然エネルギーにはちょっと期待したんですが、それを読んで諦めた経験があったんです。
一度諦めていたので、小林先生の話が余計、心に響いた。小さな水の流れが力を秘めている、そのこと自体は間違いのない事実。しかし、その力をうまく取り出せるかどうかが、当面の課題になっていたんです。
以前は、火力や原子力発電と同じく取り出したエネルギーを遠くに運ぶことを前提に考えていたためにコストが合わないと切り捨てられていたんですが、つくった電気をその場で使うことができれば、その地域を運営するのにとても意味がある。ここの部分で小林先生の言葉に説得力を感じました。
地方の歴史に目を向ければ、もともと小水力発電の適地である中山間地は、エネルギーの供給地だった。小水力の導入は、かつての供給地が、本来の姿に戻ることでもある。28号に掲載されていた千葉大学の倉阪秀史さん(「中山間地はエネルギー先進地域」参照)の主張する永続地帯も同じことを主張されていました。それで、高知県の大豊町が220%の自給率というのを読んで、町役場にすぐに電話しました。「小水力発電で220%をまかなっているそうですが、どこでやられていますか」と。すると大豊町の職員は「なんですか?それ」って言われてがっくり。単にポテンシャルがある、という話だけで、実際には1カ所もやっていなかったんです。
高知県って、明るい土地柄ですが、過疎と高齢化は非常に激しい。経済指標で表わされる発展の可能性も低い。だから、あるものを使うしかないわけなんです。まさに、地元学。
その当時、かかりっきりになっていた淀川水系流域委員会の取材は、大変重要な仕事で、尊敬するべき多くの方々との出会いをもたらしてくれて有り難かったのですが、水辺にかかわる仕事って楽しいはずなのに、それほど楽しくはない。「淀川」の仕事は、完全に守備、ディフェンス世界なのです。無茶な税金を投入するダム建設はもちろん止めなきゃいけないんですけれど、ディフェンスばっかりだと楽しくないんですよ。それから、官僚組織を批判せざるを得ないことでも、すごく疲弊しました。
淀川水系流域委員会の取材の仕上げのころ、嘉田さんから「ダム水没地域の人たちの暮らしに役立つ何かいい手立てはないかなあ、古谷さんも考えてよ」と言われたんです。川に関する専門家の集まりである流域委員会が何年もかかって一生懸命考えても妙案はないのに僕なんかが考えたって、と思ったんですが、「待てよ、小水力発電なら」と思いました。
関西で小水力発電の適地、水量があって落差があるといったらイコール、ダムの適地なわけです。そうしたらダムの建設予定地は、小水力の適地ではないのかと、現地を見に行きました。それで一番揉めていた大津市の大戸川ダム建設予定地を見に行ったら、そこには、約10mの砂防堰堤が二つありました。しかも、そこの上流でも、下流でも、関西電力が既に小水力より大規模な発電をやっていました。でも、ダムの建設予定地の所だけ、発電していなくて、ポコッと空いて水が流れていました。そこで発電したら、ちょうど移転してしまった55軒分ぐらいの電気がまかなえるのではないかと思いました。かなり、ハードルは高いですが、国土交通省は、小水力利用に積極的になっていますので、可能性はあるかもしれません。
水、風、地熱、太陽光といった再生可能な自然エネルギーは、それぞれの土地に向き、不向きがあります。その土地に最も適したものから優先的に利用していくべきです。また、自然エネルギーのもう一つの特徴は、地域に密着した分散型の資源であるという点です。3・11の原発事故以降、自然エネルギーに注目が集まっているのは喜ばしいことですが、推進の大合唱は、導入にあたって優先すべき資源を取り違えていたり、地域に密着した地域の資源である点を無視していたりする例が、多く見られるように思います。
また、膨大なエネルギー量を持つ地熱利用は、大いに可能性を秘めていますが、地球と太陽の熱交換システムから外れており、過度の利用には賛成できません。もっとも、原子力という自然の熱交換システムから外れたものを我々は使ってきましたから、地熱も、かつての原子力発電くらいまでは、許されるのかもしれません。
最も身近で、歴史的なつき合いも長い〈水力〉はもっと見直されてもいい資源といえるでしょう。しかも、昼間や晴天時にしか発電できず、年間約1000時間ほどしか稼働できない太陽光発電に比べ、水力はおよそ5〜7倍の稼働時間があります。さらに優先水利権のある用水路などでは、24時間、ほぼ365日発電できることもあります。
水力の中でも、我々は、環境に対する悪影響が少ない小水力発電に注目しています。既存の用水路や砂防堰堤などを利用する小水力発電は、風力や太陽光のように新エネルギーに位置づけられています。小水力の最大の魅力は、「電力創出に自分たち市民がかかわっていいのだ」と、地域住民の意識を変えるのに役立つことです。高齢化や人口流出で疲弊した、今〈限界集落〉と呼ばれるような地域は小水力発電の適地と重なることが多いのです。身近な水が持つ可能性に気づくことが、「自然エネルギー資源は、自分たちの宝だ」と気づいてもらう近道ともいえるのです。
2008年(平成20)末から2009年(平成21)はじめにかけて、雑誌『世界』(岩波書店)での淀川流域委員会の連載が一段落したころ、茨城大学の小林先生に「高知で小水力発電の勉強会を企画しているのですが、講師をお願いできませんか」と電話をしました。すると、「行きます」と即答してくれたんです。なんて敷居の低いフットワークの軽い人だ、とビックリしました。
その催しは、ラテンアメリカの先住民族の支援活動を続けていた仲間と企画しました。近年、先住民族の人たちは、企業主導の開発のために生活を脅かされることが多くなっています。パームオイルなどバイオ燃料のプランテーションをつくるために土地を追われたり、レアメタルの発掘で追いやられたり。そういう人たちの支援のために、日本ラテンアメリカ協力ネットワークを創設した青西靖夫さんが、〈開発と権利のための行動センター〉というNGOを立ち上げたのです。その青西さんが、「古谷さんが、小水力、小水力と言っているから、国内向けに、小水力を中心にした組織を立ち上げようか」と〈水と大地のネットワーク〉という市民団体をつくりました。
2009年(平成21)2月28日、〈水と大地のネットワーク〉として国内最初に行なったイベントが「地域の力で温暖化を防ぐ」という梼原町(ゆすはらちょう)での小水力セミナーだったんです。
高知でやるとしたら、馬路村か梼原町だと思っていたんですよ。どちらも高知の中で頑張っている元気な地域ですから、必ず動いている人がいるだろうと予測しました。大江正章(ただあき)さんが出した『地域の力―食・農・まちづくり』(岩波書店 2008)の中にも梼原町の森林組合のことが取り上げられていて、山の人たちが熱心なところは可能性がある、と書いている。それで梼原町森林組合の組合長、中越利茂さんに「小水力発電に関心はないですか」って、電話したんですよ。そうしたら「古谷さん、うちはもうやりゆうで。動くがは、4月からやけど、もうほとんどできちゅうで」と言われました。それが2008年(平成20)末くらいでした。
中越組合長は会ってもいないのに、「町長に話しちゃる」と言ってくれました。実は、いまだにお目にかかったことがないんですけど。中越組合長の紹介だからといって、日曜日に役場を開けてもらい、セミナーを開催しました。
梼原町って中越さんだらけなんです。前・町長も中越さん。その中越前・町長が、自然エネルギーをどんどん導入したんです。梼原は、そこまで進んでいるのかって、逆にこちらが驚ろかされました。
事前の下見をするお金も、時間もなかったんで、ぶっつけ本番。小林先生と会うのも、10時に空港に迎えに行って、そこで会うのが初対面。でも、空港からの車中での小林先生の話は面白くて、もう何年も前から知っていたような気分になりました。
小林先生の話では「ドイツの水力発電施設では小規模になるとグッと数が増えるのに、日本では、逆にがくっと少なくなってしまう。1万kW以下になると、日本はがたっと減る」と。「大規模と小規模施設の比率を、ドイツ並みにすると小規模施設は、日本に2万カ所はあってもいい。河川勾配からいっても、2万カ所はつくれるはずだ」と。
セミナーに集まってくれたのは梼原町の人がおよそ半分。その他には、越知町(おちちょう/高知県高岡郡)の横畠というところから「11人ぐらいで行きたいけれどいいですか」と電話がかかってきていました。鳥越先生がよく言うことなんですが、「どこかの村で面白いことがあったら、村人がわあーっと見に行く。そういうときに、一人では行かなくて必ずみんなで見に行く」と。ちょうどこの越知町くらいの人数で行くのが典型的な例だそうです。琵琶湖の知内(ちない)という所で、湧水の河川から生活用水を取っていたところ、農薬で飲み水が汚染されるようになり、簡易水道を入れなきゃいけない、といったときに、7、8人で兵庫県の明石の簡易水道を見に行ったそうです。必ず集団で見に行く。だから、越知町ではそうした伝統が息づいていることを感じて、「おお!」と思いました。
高知は想像以上に山が険しくて、水路に水車をつけて利用するような伝統は育たなかったんです。田んぼもすごく少なく、ほとんどの人が山で生活を立てていた地域です。
薪炭から化石燃料にエネルギーが移行したことで、都市から地方に流れていたお金の流れが止まってしまい、山に人が住めなくなった。数世代にわたって山に暮らす人にとって、建築材として切り出す材木はボーナスのような臨時収入で、普段の暮らしを支えていたのは薪炭の販売でした。それがなくなり、労働力を欲しがる都市からの要請もあり、一気に人々は山を下りたんです。その人たちは高知市に吸収されたり、関西や関東にも出ていった。梼原町も今は人口約4000人ですが、50年ほど前は1万1200人も住んでいたんです。
まだ稼働していないけれど準備中の小水力発電施設も見せてもらって、その晩は梼原町に泊まりました。宿泊した8人ほどで、宴会後、一升瓶を三本空けるほど、狂ったように酒を飲みました。それなのに、小林先生は翌朝5時には起きてきて、水路を見に行っていた。二日酔いで「頭痛い、頭痛い」と言いながら。
イベントの最後に「小林先生が帰るまでに時間がありますから見学してほしいという希望がありましたら、手を挙げてください」と言ったら、越知町・横畠と南国市の方が「見に来てください!」と言ってくれたんで、翌日、見学に行きました。
越知町というのは、仁淀川(によどがわ)の中流、真ん中ぐらい。梼原から、矢筈峠トンネルで山を抜け、長者川に出ると仁淀川水系です。横畠地区は、標高400mほどの山の稜線にあり、水は山の稜線を7kmほど遡った所からきていた。〈虹色の里 横畠〉という組織のメンバーの一人が、慣行水利権を持っていて、山の上の貯水池に水を引いて代々、米をつくってきた。そのころは、水利権があればすぐに発電できるもんだと思っていたんです。でも、新たに発電をするとしたら、発電のための従属水利権を新たに取らないといけない、と知ったのはそのあとのことです。
その横畠の計画は、引っ張ってきた水をタンクに溜めて、池まで落とす落差が25m。1秒間に10L弱の水量。だいたい、一斗缶が3秒で一杯になる水量です。これだけでも2kW弱の出力は出るでしょうから、公民館の電気には充分使える。ものすごく良い景色の所で、まさに天上の小水力発電っていう感じ。梼原町に宿泊した8人は、しみじみと「ここで水車が回ったらすごいね」と言いながら、横畠地区からの眺望を堪能しました。このときの徳島県からの参加者が、2年後、徳島小水力利用推進協議会を立ち上げる豊岡和美さんと吉田益子さんでした。
もう一カ所見に行った南国市では、高知県で3番目に大きい川である物部川(ものべがわ)の用水路でした。左岸から右岸へと川の下を抜けてサイフォン導水しているんです。3kmほどの長さです。それが、すさまじい水量と勢いで、1秒間に約2t。それがただ落ちるんじゃなくて、向こう側の落差もすごいのです。そこは香南(こうなん)市の旧・野市町(のいちちょう)の三叉(みつまた)という所なんですが、土佐藩の江戸時代初期に活躍した野中兼山(注)が拓いた用水路がもとになっています。
高知県は、高知市の西と東に、ほんのわずかに平野があるだけで、ほとんどは山なんです。山地率84%は全国一位です。野中兼山は、その東の平野に用水路をつくって土佐藩の収穫高を倍にしました。そのときの用水路のベースが、今でも生きていて、野中兼山がつくった古い三叉も現存しています。400年前に野中兼山がつくった水路が、現代に小水力発電として甦るなんて、美しいストーリーですよね。
三叉の中で一番水量の多い水路がサイフォンで川底を抜けてきているんです。もう一カ所、下の田んぼに落とす所に6mぐらいの落差があって、利用しやすい状態です。堰をつくって、水を引いて、という条件はすべて整っていて、発電機をはめるだけ、という状態になっています。適地の一つですが、今は設置する予定はありません。まあ、この話は福島の事故が起こる前の話ですから、それ以降、進展があるかもしれません。なんとか始められたら、と思っています。
(注)野中兼山(のなか けんざん)
(1615〈元和元〉〜1663年〈寛文3〉)
17世紀半ば、土佐藩2代藩主山内忠義の時代に、奉行だった野中兼山は藩政改革を行なう。物部川の水を野市台地に引いて原野を開発するなど、土木事業で功績を残すが、長宗我部の遺臣を郷士に登用して上士の反発を買い、過酷な年貢の取り立てなどで農民の不満を招いたため、忠義が隠居すると失脚。一族の幽閉は、兼山死去の40年後まで続いた。
小林先生は、なんとか高知に協議会をつくれないかと、県にも行きました。2009年(平成21)の県の組織では、資源エネルギー課と環境共生課というのがあって、当時は、小水力利用をどの課が担当するのか、まだ、決まっていなかったんです。梼原町と大川村では既に導入していましたが、県は直接はかかわっていなかったので。
こういう状況からスタートしたわけですが、知事が県の産業振興計画に小水力利用の推進を明記してくれたおかげで、県はその後、一気に変わりました。
南国市の用水路と三叉を案内してくれたのが〈エコネット南国〉という市民団体の代表をしている横田日出子さんでした。高知大学農学部の篠和夫先生のことを教えてくれたのは、横田さんです。篠先生は、当時、農学部の学部長で、高知の農業用水路のことは全部調べているという話でした。3月に予定していた第3回目のイベントは、「兼山の『水の仕事』を今に活かす」というタイトルで、篠先生に「野中兼山とその時代—水路、水田に基づく日本の原風景から新たな可能性を—」という講演をお願いし、会場も高知大学をお借りしました。同時に、篠先生に〈市民ネットワーク〉の代表をお願いできないかと思いました。高知では当面、会費を集めるような本格的な組織としての協議会はできそうにないので、関心を持っている方々のゆるやかな連絡網として、〈高知県小水力利用推進市民ネットワーク〉(以下、市民ネットワーク)を立ち上げることを目標に据えたのです。
篠先生は、会場は快く貸してくださったんですが、市民ネットワークの代表は固辞されました。イベントは3月20日で、3月いっぱいで学部長を辞めたら、公的な仕事は全部断るつもりでいるから、これだけ引き受けるわけにはいかない、と言われたんです。
その後、ダメでもともとと、小林先生と会場で再度お願いしました。その間に小水力発電のことも調べてくれたみたいで、行きがかり上仕方がない、と引き受けてくれたんですよ。それで、イベントに参加していた62名と、その場で〈高知県小水力利用推進市民ネットワーク〉を発足させました。2010年(平成22)のことです。
そうこうしていたら、環境省が容量拡大事業を始めて、全国から5地域を選んで小水力の協議会づくりを支援する事業を始めました。これに北海道の富良野と長野と岡山、徳島、高知が選ばれました。
その一環で、都留市の第1回小水力サミットや那須塩原の那須野ガ原土地改良区連合に見学に行ったりしました。篠先生も何カ所か一緒に見に行っているうちに乗ってきてくれて。特に那須野ガ原のことは、相当驚いて「わしらもやらな、あかんな」と。
2011年(平成23)1月中旬に、土佐町で50年間も小水力発電で生きてきた、というご夫婦の暮らしが、高知新聞の一面にどーんと載りました。その2週間後ぐらいに、三叉を小水力発電の適地として検証するための勉強会を2月11日にやる、といった、少し踏み込んだ良い記事を載せてもらいました。
そうしたらその勉強会に、すごい反響があったんです。資料も35部しかつくっていなかったんですが、狭い部屋に60人以上が詰めかけてくれました。
ほかの4地域はどんどん進んでいったけれど、高知はちょっと、協議会までは無理かなあ、と思っていたんですが、思わぬ高知新聞効果があったおかげで、一気に協議会の設立の機運が高まり、設立までこぎつけることができました。
高知小水力利用推進協議会には、さまざまな方が参加してくれています。高岡郡四万十町にスカイ電子という小型の高性能発電機をつくっている会社があって、社長の廣林孝一(たかかず)さんはものすごく忙しい人なのに、市民ネットワークに参加していただき、集まりには必ず来てくれています(「ものづくりの底力」参照)。2月11日以降、出席率は100%です。原発事故以降、それまで月に20件だった相談が2000件になったそうです。協議会の理事も務めていただいています。
人口約1900人の三原村には関西からUターンして、「いきいきみはら会」というNPOを立ち上げた増井三郎さんという方がいて、是非とも小水力発電をやりたいと相談を受けました。三原村には、水量豊富な下ノ加江川が流れていて、有望な砂防堰堤が何カ所かあります。
岩崎弥太郎の生家がある安芸市では、地域おこしの団体「やらんかえ」の代表の小谷博司さんが、設立総会に来てくれ「良い水路がある」と、安芸川の栃の木堰用水路の落差3mの水路を紹介してくれました。ここも無理のないように計画したら、実現できます。
四万十町にある中津川渓谷の最奥の集落の森ヶ内という所では、林幸一さんという人が自作の水車で発電を目指しています。自分の山の木を切って製材し、水車をつくる技術を持つ叔父さんに組んでもらった水車は、直径約6mあります。パイプで谷から水を引いて、発電機をつければすぐに稼働できるところまでできています。許可が取れたらすぐに始めようとしていて、県と町に相談している状態です。
高知の場合、このような源流域の候補地がどんどん出てくることが予想されるので、正式な許可を取って進めたいと思っています。
林さんに「水車の製作にはいくらかかりましたか」と聞くと「自分の山の木やし、お金はかかってないで」という返事です。林さんのような、技術を持ち、地域をなんとかしたいと考えている地域の個人の力と、そこに都会の人たちの市民力や、他の地域の人々の知恵を加えたら、すごいことができるんじゃないかと思っています。
技術を出す人、お金を出す人、知恵を出す人、いろいろなかかわり方があっていい。発電の事業主体としては、特定組合形式にしてやるのが、一番いいのではないかと思います。地域ごとに独立した発電組合をつくって、あとから連合会にしたらいい。お金を集めるのは、一括でやってもいいかもしれません。労働金庫や信用金庫に建設資金を融資してもらうのも、手ですね。地方自治体主導で進む地域もありますが、やはり市民運動として、市民の力で始めたほうがいい、と思います。
地方の疲弊を大変だと思っている人は結構いて、小水力発電はその解決の糸口になる、と多くの人が感じてくれたからパッと人が集まったんだと思います。面白いのは、平和運動には反応しないような年配の男性も来てくれたことですね。普通の市民運動とちょっと違っています。
いろいろな立場の人が入ったほうがいいと思うんですよ。高知小水力利用推進協議会には、電力会社のOBもいますし、明確に反・原発の立場の方もいます。どちらの意見も自由に述べて、みんなで合意形成をしていくような運営体制を取りたいと思っています。
「こんなに小水力発電の適地があり、どんどん小水力発電所ができているのに、原発なんているのかな?」と、多くの人々が自然に感じるようになればいいなあ、と思っています。
土佐町・伊藤 登さん
伊藤さんご夫妻は、50年以上自家製の小水力発電で暮らしを営んできた。なぜなら、標高550mのこの集落には電気も水道も引かれていなかったからだ。水は沢から引いた。それを利用して発電できないか、と思い立った伊藤さんは、発電の教科書を買って独学で設備をつくってしまった。
伊藤さんの家は、オール電化。何しろ電気はCO2排出ゼロの自家製水力発電でタダだから、節電なんて無縁。
ところで伊藤さんの家には赤と白のコンセントがある。赤は有料、つまり四国電力から買う電気がきている。テレビだけが赤いコンセント。その理由は?「小水力の電気は安定しないから、テレビが壊れるかもしれない、と言われた。だから金を払った電気を使っちょる」
あとは停電しても、気にしない、気にしない。頼りになる父さんがつくり上げた、素晴らしき天然生活だ。
土佐藩の石高を倍にしたという野中兼山の新田開発。物部川に1644年(正保元)上井堰をつくり、用水路を巡らせた。物部川よりも高い位置にあった野市台地全域に水を行き渡らせるために、三叉をつくって分水。三叉という名称であるが、実際には十善寺溝、町溝、東野溝の三つの大きな溝と原田溝、武市溝の二つの小さな溝の五つに分けている。
この用水路は単なる歴史遺産ではなく、現役の用水路として改築しながら使われている。豊富な水量と高い有効落差があって、小水力発電適地としてはキング級だ。
四万十町・林 幸一さん
アスリートであり、高知市内の有名スポーツ店で働いていた林 幸一さんは、27年前に故郷にUターンしてきた。ここは檜の一大産地で、水車で製材していた歴史を持っている。4年前からは、先祖が植えてくれた木を生かそうと、4人の仲間で林業を始めた。
木を愛する林さんは、仲間と集う溜まり場として、素敵なログハウスをつくった。イチゴや農作物をつくり、自分の森の木で家をつくって自給自足を目指すうちに、エネルギーも自給したい、と思うようになった。
大工の叔父さんに水車をつくってもらい、弟が勤めるスカイ電子の発電機をつけた。
「スカイ電子の発電機は300回転という低回転でも出力するんですよ」と林さん。1kmほど離れた中津川渓谷の渓流からパイプで水を引く。四万十町の許可を待って、発電を開始する予定だそうだ。
安芸市・小谷博司さん
「栃ノ木用水の落差工は、どんとと呼ばれて親しまれてきました」というのは、岩崎弥太郎の生家がある安芸市で、生家の観光ボランティアガイドをやっている小谷さん。幅3mの水路を轟々と音を立てて流れる栃ノ木用水ができる前は、芝堰が幾つもあって、水争いが絶えなかったそうだ。関西で電気関係の仕事をしていた小谷さんにとって、この水の力は垂涎ものに映ったようだ。古谷さんたちの催しに参加して、どうしたら利用できるか相談を持ちかけたという。
「土地改良区や市に取り組んでもらい、農家や市民に利益を還元できるようになったら」 と夢を描く。適地に加え、実施しようとする人と適切な利用法を考えるのが、今後の課題だ。