機関誌『水の文化』40号
大禹の治水

禹王の足跡を巡る旅

岩流瀬土手のそばにある文命宮。大脇さんが指を指し示している部分には、縦に2文字ずつ「水土」「大禹」「神祠」と刻まれている。

岩流瀬土手のそばにある文命宮。大脇さんが指を指し示している部分には、縦に2文字ずつ「水土」「大禹」「神祠」と刻まれている。

歴史好きの大脇良夫少年は、島根の高校時代に素晴らしい恩師との出会いがきっかけで生涯の宝物・禹王と巡り会いました。禹王碑建立には、必要条件として「治水の要衝」、十分条件として「治水家としての禹王を知る思想家・土木家がいた」、維持条件として「バックアップする組織の存在」が必要と主張しています。日本の禹王碑の背後に見え隠れする、中国、台湾、朝鮮半島と日本各地の文化交流の実相。大脇さんの〈禹王探求〉はまだまだ続きます。

大脇 良夫さん

全国禹王の碑探求家
足柄の歴史再発見クラブ顧問
大脇 良夫(おおわき よしお)さん

1941年生まれ。慶応大学経済学部卒業後、富士フイルム(株)入社、本社人事部長などを歴任。2003年フリーになって郷土史研究に専心、2006年〈足柄の歴史再発見クラブ〉を立ち上げ、初代会長を務める。(株)心理技術センター客員研究員、神奈川県日中友好協会会員。

〈西の文命〉京都加茂川に触発

地元酒匂(さかわ)川の治水神として、中国の古代王朝である夏王朝の初代皇帝である禹王が祀られています。

禹は大禹、夏禹、戎禹ともいい、夏王朝成立後は夏后と名乗ったといいます。名は文命(ぶんめい)、姓は姒(じ)。足柄上郡開成町には文命中学校という公立学校まであるのです。

南足柄市大口の福沢神社内に文命東堤碑と文命宮、足柄上郡山北町岸の岩流瀬土手脇に文命西堤碑と文命宮をつくったのは、東海道川崎宿本陣名主を務めた民政家の田中丘隅(きゅうぐ)(注1)です。

文命宮は笠石とご神体を祀る祠部分と台座の石で構成された祠です。大口の文命宮は1923年(大正12)に起きた関東大震災で倒壊したまま地中に埋まっていましたが、道路拡幅に伴って福沢神社が移転する際に、地元有志の働きかけによって2009年(平成21)復元されました。笠石と台座の石は失われていたため、班目(まだらめ)地区の有志が酒匂川の川原で適当な石を選び出し、中央の祠と組み合わせてつくられています。

〈足柄の歴史再発見クラブ〉は、神奈川県西部を流れる酒匂川のほとりに居住する、ごく普通の市民の集まりです。足柄の郷土史を子どもたちに伝えたいという想いがもとになって、2006年(平成18)1月に誕生し、最初に小学生、中学生向けの副読本として『富士山と酒匂川』を作成しました。

副読本づくりで田中丘隅の事績研究を進めるうちに、

西の文命と申すは、京都加茂川の堤にあり
東の文命と申すは、相州酒匂川の堤にあり

という記述を見つけました。これは1829年(文政12)に行なわれた酒匂川の公儀御普請の際に、御勘定役の関七郎兵衛が村役人に対して「畏れ多くも、酒匂川文命宮の石碑について、者どもに言い聞かす」という口上で説明したくだりの原文です(南足柄市史別編8史料89より引用)。

加茂川の表記は多々あって、『日本紀略(にほんきりゃく)』(814年の項)では鴨川、『山城国風土記稿』では賀茂川と記しています。ちなみに現在は高野川との合流点(下鴨神社辺り)までを賀茂川、それ以南を鴨川と呼ぶのが通例のようです。

(注1)田中丘隅(1662〜1730年)
寛文2年、武蔵国多摩郡平沢村(現在のあきる野市平沢)の名主窪島(久保島とも)家の八郎左衛門の次男として生まれる。兵太夫、兵庫、重閭(しげさと)、休愚、休愚右衛門、喜古(よしひさ)などと称す。
窪島家は甲斐の武田氏の家臣であったが、武田氏滅亡後は武蔵国平沢村に移り、農業と絹物行商を生業としていた。行商に出かけた東海道川崎宿で、誠実な人柄を見込まれて22歳のころ本陣名主田中家に夫婦養子として迎えられた。
隠居後には回想録『走庭記』を著し、14カ条の教訓を子孫に伝えた。翌年、農民の生活実態、年貢徴収の実情、凶作対策、治水策などを論じた『民間省要』全17巻を著す。8代将軍吉宗に献上されたことから、1723年(享保8)江戸町奉行大岡越前守忠相に登用が促され、川方御普請御用を拝命する。荒川、多摩川の治水、二ヶ領(にかりょう)用水、大丸用水、六郷用水の改修工事、酒匂川の補修などを行ない、その功績が認められ、1729年(享保14)武蔵国内3万石を管轄する支配勘定格(代官)に任ぜられた。

  • 肖像画提供:世田谷郷土博物館

    肖像画提供:世田谷郷土博物館

  • 文命宮と並ぶ文命西堤碑。すぐ脇に川丈六地蔵の内の1体が〈山北岩流瀬のお地蔵さん〉として安置されている。

    文命宮と並ぶ文命西堤碑。すぐ脇に川丈六地蔵の内の1体が〈山北岩流瀬のお地蔵さん〉として安置されている。

  • 肖像画提供:世田谷郷土博物館
  • 文命宮と並ぶ文命西堤碑。すぐ脇に川丈六地蔵の内の1体が〈山北岩流瀬のお地蔵さん〉として安置されている。

〈東の文命〉の謂われ

幸いにして〈東の文命〉酒匂川の文命宮と石碑に関する史料は、はっきりしています。建立はいずれも1726年(享保11)で旧暦の4月に文命宮がつくられ旧暦5月25日に文命堤碑が建てられました。時代は下りますが、1841年(天保12)に完成した『新編相模国風土記稿』にも「享保11年4月、文命堤修築を記念し、永久の鎮護のために神禹を祀る」とあります。

『明治12年文命社など神社明細帳』にも、祭神は「夏禹王」とはっきり書かれています。1906年(明治39)に出された勅令第220号「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲渡ニ関スル件」に端を発した神社の統廃合政策の結果、各地で一村一社が目指され、文命社でも1909年(明治42)に近隣11社が合祀されました。その際も〈夏禹王〉は祭神の一つとして祀られ続けています。以来、今日まで、東堤と西堤の文命宮に為政者と地域住民がお参りして、堤防の安全と豊穣を祈願してきました。

禹を探せ

〈西の文命〉の存在と文命社の祭神が〈夏禹王〉であることは、会が発足した2006年(平成18)の11月初旬に判明したことなのですが、早速、15日には京都の歴史博物館や土木事務所に赴きました。〈西の文命〉加茂川の禹王廟は、江戸時代直前ごろまでは鴨川・四条橋〜五条橋辺に複数存在したものの、現在はすべて失われていることを確認しました。

しかし、この調査の過程で高松・香東川(こうとうがわ)、大阪・淀川、群馬・利根川上流に2カ所、大分・臼杵(うすき)川と合計5カ所の新たな〈禹にまつわる碑〉を発見したのですから、大きな収穫でした。

2年目には、小冊子『酒匂川の治水神』が完成し、地元への啓発活動を行ないました。

1990年代に京都で禹王廟論争が展開されたことを知り、2008年(平成20)には、当時、論争の主役だった武蔵大学の瀬田勝哉教授、立命館大学の川嶋将生教授、同志社大学の山田邦和教授にその後の研究についてうかがいましたが、新たな進展は見出せませんでした。その後、山梨県富士川町鰍沢(かじかざわ)の〈富士水碑〉に禹の名があること、同じく富士川に禹之瀬という地名があることを確認。高松や大分、大阪、広島、群馬にも脚を伸ばし、現地視察を重ねました。

こうして、各地で地元研究者と禹王への熱い想いを語り合う中で、第1回禹王・文命サミット開催(2010年11月)の手応えを得ていきました。

禹による日中の文化交流

私は〈西の文命〉に触発され、中国の治水神が足柄平野の鎮護役を300年にわたって担っているという不思議にハートを揺さぶられました。このときの想いが、禹王についての探求を深めていったのです。

禹王に関心を持った理由の一つに、日本と中国の不幸な歴史の回復をしたい、という気持ちがありました。1894年(明治27)の日清戦争から始まり、盧溝橋事件、太平洋戦争を経て、1972年(昭和47)に国交正常化を果たすまでの78年の間にも、治水神である禹による文化交流は途絶えることがなかったのです。実際、この期間中に大阪・淀川に3基、群馬・利根川上流の泙川(ひらがわ)、広島・太田川の計5カ所に新たな禹王碑がつくられています。

中国は4000年の歴史を持ち、日本の文明の兄として多大な影響を与え続けてくれました。不幸な諍いの結果、こうした過去の貢献が霞んでしまい、正しい評価がされていない状況に陥っています。禹はそうした日中関係を改める、素晴らしいきっかけになってくれると思います。

当時の開成町町長の露木順一さんとともに法政大学の王敏教授を訪問し、文命社の存在を報告したところ、8月には王教授と新華社通信が見学に来られ、以降、日中友好協会や中国人、中国人留学生などの見学が盛んになりました。

また、全国に多くの仲間ができ、2011年(平成23)には、その仲間たちと中国本土に禹王を訪ねる旅を持つまでに発展しました。

実は河南省の龍門(禹門口とも 写真下)の見学に同行してくれた張仲勛さんが話しているときに、盛んに「リーベンレン」とおっしゃる。中国行きが決まってから、仲間と中国語のレッスンを受けましたのでその単語が「日本人」を指すのではないかと思ったのですが、中国人通訳の口からは「日本人」に関する言葉が出てきません。それで、「張先生は何度もリーベンレンとおっしゃっていますが、日本人について何かおっしゃっているのではありませんか」と質問しました。

すると通訳は「実は禹門口には立派な禹王廟があって、信仰する人たちで賑わったのだが、太平洋戦争のときに日本軍が破壊してなくなった、と張先生はおっしゃっています。しかし、私はそれを言うことを憚(はばか)ったのです」と答えが返ってきました。

私たちは本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、張先生に謝りました。そして通訳の人の気持ちも理解できたので、その配慮についても感謝の言葉を表わしました。少し緊張感も覚えましたが、このあと、さわやかな風が流れ、お互いが近づきあえたようにも思えました。

実在が認められた夏王朝

2000年(平成12)11月9日新華社通信は「中国の歴史が1200年遡る」と報道しました。当時の私はまだ企業に勤める一般人でしたが、テレビニュースに釘付けになりました。中国政府は中国第一線の研究者200名を擁して〈夏商周年表プロジェクト(注2)〉を進めてきましたが、研究結果として「夏代は紀元前2700年、商は紀元前1600年、周は1046年に始まる」と発表したのです。

神話の国 出雲の出身のせいか、生来、歴史に興味があった私は、伝説上の人物と思われてきた夏王朝の禹王について、定年を迎えて時間に余裕ができたら取り組みたい、と思っていましたから、このニュースがとりわけ胸に響いたのかもしれません。

幸い、地元の仲間にも恵まれ、中国古典を漁り、みつけた新しい情報を交換し合う楽しみもできました。中国人の治水の神といえば禹と言い伝えられてきた長い歴史の中で、中国古代の思想家たちが、禹をどのように評価してきたのかは中国古典の基本である『書経』や『論語』からうかがい知ることができます。これらから禹の位置づけを知るとともに、古代中国の治水思想や国づくりの思想に触れることができました。そして、それらから日本が受けた影響を想像するようになりました。

(注2)夏商周年表プロジェクト
中華人民共和国の第9次5カ年計画のプロジェクトの一つ。具体的な年代が判明していなかった中国古代の3代について、主に天文学的な手法、考古学的手法、文献学的手法といった多面的な視点から具体的な年代を確定させた。

日本と中国の禹を結ぶ、琉球と朝鮮半島

中国・紹興大禹陵の〈禹跡館〉という史料館には、中国全土の禹にまつわる遺跡をプロットした大地図があり、朝鮮半島と日本は空白になっていました。私は「日本にもこんなに禹の遺跡がありますよ!」と知らせたい気持ちになりましたし、近いうちに朝鮮半島や台湾にも禹を探しに脚を延ばしたい、と思っています。

昨年、高松・栗林(りつりん)公園で大禹謨のシンポジウムが開催されたときに寄せられた情報から、沖縄本島(沖縄県島尻郡南風原町)に宇平橋(うひいばし)碑の確認に行ってきました。薩摩・島津家の影響か、琉球王朝独自の文化によるものか、とワクワクしながら訪問したところ、冊封(さくほう)していた中国本土からの影響ということがわかりました。伝播のプロセスがわかれば、大陸から日本につながるミッシングリンクの小片が一つ、はまるような気がします。

稲作や仏教が中国から朝鮮半島を経由して伝わったように、禹もやってきたのです。仏教が、中国〜朝鮮半島〜日本、と違う性質に変化していったように禹への想いも違ってきているかもしれません。しかし、超え難い自然の脅威に対して、禹に求めた人々の想いはそれほどかけ離れてはいないはずです。

〈西の文命〉京都・加茂川の禹王廟をはじめ、全国の碑や地名の中には謂われがわからなくなったものも多く、謎解きには一層の情熱が鼓舞されます。謎解きを助けてくれるのは中国の圧倒的な歴史の厚みであり、それを学ぶことは違いを理解しながら認め合うための第一歩かもしれません。

大口土手そばの福沢神社に隣接した文命宮と文命東堤碑。

大口土手そばの福沢神社に隣接した文命宮と文命東堤碑。



(取材:2011年9月26日)

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