片品村五千人の心意気
群馬県利根郡片品村村長
千明 金造(ちぎら きんぞう)さん
1948年群馬県片品村生まれ。片品村消防団長、
片品村議会議員を経て、2005年から現職。
片品村は、群馬県の北東部の県境に位置し、北は新潟県と福島県に、東は栃木県に接しています。周囲を山に囲まれ、火山群の活動によってできた湖沼や湿原が多く点在します。尾瀬沼南方と鬼怒沼山(2141m)西方に源を発した片品川が深い河岸段丘を形成し、その周囲に集落が発達しました。
片品川は、支流の笠科(かさしな)川や塗(ぬり)川、大滝川と合流して、沼田市の南で利根川に注ぐ、長さ約61kmの川です。この片品川に笠科川が合流した辺りは、谷あいからの流れが平野に開けた、古仲という地区です。その古仲地区に、中国の峋嶁碑(ごうろうひ)(注1)とほぼ同じ碑文が刻まれた〈大禹皇帝碑〉が、1874年(明治7)に建立されました。
1963年(昭和38)に書かれた村史には、大禹皇帝碑のことが載っていますが、残念ながら学校で教わるということはありませんでした。碑のそばの片品北小学校には拓本があって、中国の偉い人のことが書いてあるといわれていたそうです。ある年代までは「禹王様」と呼んでいたそうですから、ちゃんと教えられていたのかもしれません。
早稲田大学に問い合わせたこともありましたが、特殊な文字ですから専門家の間でも見解が分かれたそうです。中国で聞いたところによると、あれは書いた人が独自の表現をした文字だということですね。ですから、本人でないと本当の意味がわからないのでしょう。
時代背景としては、水害だけじゃなくて凶作もあったんです。日光白根山の噴火が起き、天明の飢饉と呼ばれた時代。食べるにも困って、あげくの果ては間引きという悲惨なことも起きた。当時の沼田の殿様(注2)が、これは人道上良くないことだからやめるように、といったという古文書も残っています。
片品は尾瀬沼を背後に控え、水が豊富です。戸倉は谷が深いので水害には遭わないんですが、古仲にきて一気に土地が開けるので川の水が広がって水害が起きる。しかも片品川と笠科川が合流して水量も増えます。
毎年のように田畑を流されて、年貢を納めるのもままならない状況でした。田畑が流されるといっても、ほかは傾斜地ばかりで田んぼはつくれませんから、また土を盛ってやるしかありません。
その繰り返しだったから、星野という地元出身の関守の一族の誉市郎(よいちろう)さんという人が、水害を治めるための碑を建立しようと一大決心をして、会津の藩校の親章先生(姓は不明)に大禹皇帝碑の碑文を書いてもらいに行った。私のお袋は古仲の出身なので、私の先祖も誉市郎さんと相談し合った一人だと思います。地元の人たちに働きかけて、みんなが協力することで、何年もかかって石碑建立を実現させています。
関東以北の最高峰である日光白根の2578mをはじめとして、2000m超級の山々に囲まれています。しかもそれらの山が全部火山系。山が急峻で表土が浅いから、降った雨がすぐに流れ下るんです。誉市郎さんの意に反して、それ以降もたびたび水害に見舞われています。古仲が近代土木技術で守られるようになるには、ごく最近まで待たなければなりませんでした。
(注1)峋嶁碑
湖南省長沙市の何致という人が1212年(南宋)に地元庶民の案内で、石壁の上に刻まれた文字を確認。何致は禹王碑であると確信して、長沙の岳麓山に復刻。時代は下り、明代の長沙太守の藩鎰という人物がこれを写した碑をつくり、中国各地(雲南・大理/四川・北川/江蘇南京/栖霞山/河南・禹州/陝西・西安碑林/浙江・紹興/湖北・武漢)から出土している、といわれている。これらの話は不確かな伝承とされているが、近年、研究が進み、越の朱句による刻石(前456年)で、信仰の山である湖南省の南嶽衡山への祭祀の文章であるとする説が発表されている。
(注2)
片品が属する沼田3万石は独立した藩ではなく、松代藩の分領(分地)だった。1656年(明暦2)沼田領は松代藩から独立して正式に沼田藩となり、真田信利が初代藩主となったが、悪政を敷いたため改易となり廃藩、天領となった。代わって本多正永が入り、再び沼田藩が立藩、黒田家を経て、土岐家の所領となる。
片品川は水害も引き起こしましたが、プラスの資源でもあります。実は片品村には七つの水力発電所があって、日光白根水系に丸沼、一ノ瀬、白根発電所と三つ。次に戸倉、その下に栓ノ滝、鎌田。鎌田発電所というのは、片品川と大滝川の両方の水を集めて使っています。そして幡谷で七つ。
普通、水力発電所というとダムを想像されるでしょうが、ダムではなく導水管で持っていって、落差を利用して発電しています。いったん落とした水で7回も発電して、沼田市利根町に持っていってもう一度使って、最後は吹割の滝の所で川に戻しています。川の水が少ないように見えるのは、導水管で引っ張っているからなんです。
片品村の七つの発電所で、6万4000世帯分の発電をしています。仮に1世帯が1年間に10万円分の電気代を払っているとしたら、東京電力は片品川で64億円の利益を得ていることになります。今の発電所はまったく無人でできますから、無人で、自然エネルギーで、365日、半永久的に発電して、およそ64億円もの利益を毎年生み出すんです。これは、片品川が生み出してくれる大きな恵みです。東京電力は、利益の一部を環境保全のために使っています。
東日本大震災の被災者支援で一躍有名になりましたが、最後の一人が9月29日に帰られて終了しました。
片品村は、上尾市や蕨市と防災協定を結んでいるんです。それで震災が起きた当日に、担当課長に、上尾市と蕨市と日光市に被害がなかったか確認させました。
ここは表土が浅くて岩盤なんで、2009年(平成21)に内閣府が発表した地震マップで見ても、強いんです。30年以内に震度6以上の地震がくる確率というのが0.1%程度なんですよ。と言いますのも、地震を経験した人たちが避難先でまた地震に遭うというんじゃ気の毒ですから、ここだったら安心して生活してもらえるという確信があった。それとここでは計画停電もないということもわかった。
それで3月14日の朝、いつもの散歩コースを1時間歩きながら、どういう風ならやれるか、頭の中で組み立てたんです。
私が村長に就任した6年前は、この村の財政も破綻状態。それを2011年(平成23)3月の時点でプラスにした。村長の手当ても群馬県内の35市町村中一番低く抑えさせてもらっている。だから、1億円を使って被災者を受け入れさせてもらっても文句は出ないだろう、と。それですぐに幹部会議を開いて1000人を1カ月間受け入れる、と申し出ました。
私は最初から、被災者を体育館なんかに受け入れるつもりはなかったんです。それで民宿旅館連合会長のところに話を持っていき、それから県庁に向かいました。
私が安心したのは、そんなことをしている矢先に「被災者に何かしてあげたい」と相談が携帯電話にどんどん入ってきたことです。そういう声に後押しされて「もう、その方向で動いているから」と答えました。
被災されて来られる人たちのほうは、「群馬のそんな所までは」と言って、なかなか決まらなかったんですが、原発事故の避難勧告で、17日に双葉町から2000人、南相馬から1000人の受け入れ要請がありました。さすがに3000人は無理ですから、福島県庁に調整をお願いし南相馬の1000人を受け入れることになり、18日には23台の大型バスが到着し、938人が来村されました。
翌日からは、実際に問題が出てくるわけですよ。一番は、医療、薬の問題などです。しかも19、20、21日が連休だった。村に一つの医院にあんまり大勢押し掛けたんで、19日の午前中で薬がおしまいになってしまった。それで隣村の医院にまでお世話になりました。運が良かったことに、その医院のご夫妻が阪神淡路大震災の被災者だったから、よくしてくださった。
もう一つは燃料不足。ボイラーが焚けなくなる事態が発生しました。しかし、沼田のJAがなんとかしてくれた。その内、ボランティアも動き始めてくれて。
いろんな問題が起きましたが、職員に最初から「マニュアルがあってやることじゃないんだから、どんなことが起きても恐れるな」と発破をかけたんですよ。よく言いますが、火事場の馬鹿力。みんなやる気を出してくれて、乗り切ることができました。
寄付を申し出てくれた人がガソリンスタンドの人だったんで「今は金より燃料のほうが有り難い」と言って、灯油を給食センターと保育園に寄付してもらったりしました。民宿旅館の組合も六つあって、最初は45軒、最終的には90軒強の宿泊施設が受け入れてくれました。こういうことも、小さい村だからこそみんなが顔見知りでやれたことかもしれません。5000人の村で1000人の被災者を受け入れたと、全国から励ましや共感のメールをいただきました。私はそれを全部取っているんですが、この村の宝です。
避難された方と宿の人とのは、今でもおつき合いが続いているようですから、2012年(平成24)8月開催の名水サミットや10月開催の尾瀬片品禹王サミットにも、是非来ていただきたい。
片品っていう村は、もともと人情が厚いところなんですよ。茅葺き屋根の屋根替えなんていうのも、村中総出でやってきた。それは厳しい自然環境が育んでくれたことかもしれません。今までは尾瀬やスキーといった自然資源に頼る部分が大きかったのですが、大禹皇帝碑は全国でも貴重な文化遺産。歴史や文化を再発見することで、片品の住民が地元に誇りを持ってくれたら、と思います。
(取材:2011年11月14日)