機関誌『水の文化』40号
大禹の治水

《黄河は流れる》

古賀 邦雄さん

古賀河川図書館長
水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄(こが くにお)さん

1967年西南学院大学卒業
水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社
30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集
2001年退職し現在、日本河川開発調査会筑後川水問題研究会に所属
2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設

孟子は「禹の水を治むるは、水の道なり」と言っている。禹は黄河において大治水工事を行なったが、それはただ水の本性に従って、水に逆らわず流すべき所に流したまでであったという。「黄河を制する者は、中国を制す」、これは初めて黄河の治水に成功した禹のことを指している。黄河は暴れ黄竜と呼ばれるように、夏には激しい雨が洪水を起こし、その洪水によって山西省・陝西省地域には大量の黄土の泥が流れ込み、この泥が黄河の川底を浅くして、氾濫の原因となる。

ジュリア・ウオーターロー著『黄河』(偕成社 1995)に、禹の治水方法は、川底をさらって多くの水が流れるようにし、さらに大量の水を分散させる運河までつくったとある。工事には大勢の人を使い、13年間かけて行なった。おかげでその後何百年洪水を免れたとある。それ以後の古代王朝でも禹の治水方法を踏襲するが、政治が不安になると、治水事業は疎かになっていき、その後洪水は頻繁に生じた。K・J・グレゴリー著『黄河』(帝国書院 1987)は、上記の書『黄河』と同様に児童書であり、コンパクトに書かれている。

黄河の流れは、標高4300mのチベット高原を源とし、蘭州から内モンゴル自治区へ。オルドス草原の防風林を過ぎ、山西省・陝西省の険しい峡谷の黄土高原で渭河と汾河と合流し、その後東に向きを変え、峡谷地帯三門峡を流れ、三門峡ダムを通って華北平原へ流れる。華北平原は海面すれすれの低い平原で、大量の泥が堆積し天井川になっており、他の川が合流することができず、この後河口までの800kmあまり、黄河はただ1本の川として流れる。夏には大洪水を起こすが、一方肥えた土地が拡がる華北平原は中国農業の中心地でもある。最後には渤海に流れ込み5464kmの長い旅を終える。流域面積75万㎢、支流約40本、年間流出量480億m3、年間16億tの土砂を運び、大小80の水力発電所と174の貯水池があり、延長6300km、流域面積180万㎢の長江に次いで、中国第2位の河川である。

黄河の流れを歩む紀行書はいくつか発行されている。江本嘉伸著『黄河源流行』(読売新聞社 1986)、黄河万里行編集グループ編『黄河万里行』(恒文社 1984)、田川純三著『大黄河をゆく』(中央公論社 1989)、朝日新聞黄河取材班著『黄河行』(朝日新聞社 1981)。小松左京著『黄河—中国文明の旅』(徳間書店 1986)は、1985年5月から約3カ月かけての旅で、黄河の中国文明4000年の歴史をたどる。河南省鄭州の悪名高い暴れ河をはじめ、陝西省西安十二王朝の古都、青海省日月山脈農牧二大文化の分水嶺、青海湖アジアで最高所に位置する大湖、寧夏回族自治区・内蒙古自治区黄土高原、山西省・山東省晋陝峡谷壺口瀑布・黄河のナイアガラ、黄河河口龍頭より鉄尾へ至る旅を綴る。旅を終えて小松左京は「黄河という河の途方もない雄大さと、その地理的な、歴史的変化、さらに各地域での社会や技術とのからみあいの複雑さは、日本では到底想像もできないという事である。治水といっても、巨大な河の、源流、上流、中流、下流において、それぞれ異なった性格の計画をそれぞれに密接に関連づけながら行わねばならず、その作業の複雑さと厖大さに気が遠くなりそうだ。にもかかわらず、現在の政府は、革命後、いくつかの試行錯誤を繰り返しながら、この老大河のコントロールに基本的に成功しつつある事はたしかである」と述べている。

  • 黄河

    黄河

  • 『黄河—中国文明の旅』

    『黄河—中国文明の旅』

  • 黄河
  • 『黄河—中国文明の旅』


小松がたどった黄河の流れ5464kmはまた4000年という歴史を浮かび出させる。その時代時代による社会情勢に伴う中で黄河の洪水との戦い、そして黄河の文明をも論じられる。濱川 栄著『中国の古代の社会と黄河』(早稲田大学出版部 2009)では、「中国の社会は、黄河が形成した肥沃な低平地の開墾や、黄河およびその支流・分流を利用した灌漑、さらにはそれら河川や運河を利用した人的・物的交流などにより、歴史的に形成されてきたとも言える。しかし、その一方で、中国の社会は不断に発生する黄河の氾濫・決壊との果てしない戦いを余儀なくされてきたのである。中国社会の変転の背景に、黄河との戦いが無視できない要素として存在したこともまた事実である」と主張し、春秋・戦国時代、宋代、明・清代などの中国古代帝国の成立に果たした黄河の役割、西門豹建造説・史起建造説による戦国・秦代の大規模灌漑機構及び鄭国渠灌漑をめぐる諸問題、武帝期の黄河の決壊などの前漢時代の黄河問題、両漢交代期の黄河決壊と社会状況、「王景の治水」以降の黄河下流域と黄河問題、黄河下流域の古代帝国形成期などを論じる。

吉岡義信著『宋代黄河史研究』(御茶の水書房 1978)は、北宋期(960〜1127年)167年間の黄河に関する治水の研究である。1048年河川決壊によって、過去1000年間東流していた黄河が北流して新局面を迎えた。繰り返す決壊とその治水には、河北等北方六路の30万人と多大な物資とが投入される。ここに黄河治水技術は国家的要請に応じ、堤防の護岸工事において、画期的発展を遂げる。吉岡は長江を「経済の河」とするなら、黄河は「政治の河」ということができるとし、それは宋代の黄河は皇帝を中心に中央集権的官僚制度により、その治水が進められたからだと言う。さらに、鶴間和幸編著『黄河下流域の歴史と環境』(東方書店 2007)では、中国大陸の東に拡がる朝鮮半島と日本をつなぐ海域、即ち東アジアに海の文明が伝播したのは古代の黄河下流域から始まったと、論じる。

  • 中国の古代の社会と黄河

    中国の古代の社会と黄河

  • 宋代黄河史研究

    宋代黄河史研究

  • 中国の古代の社会と黄河
  • 宋代黄河史研究


さて、戦前における黄河に関する書に次のようなものがある。大阪毎日新聞社編・発行『大黄河』(1938)は、黄河の歴史、地質、鉱産資源、河口の移動、舟、果物、魚類、古伝説等を捉えている。小越平陸著『黄河治水』(政教社 1929)は、大正11年に黄河を踏査し、黄河の治水の困難性に直面しながらも、治水には全水域を測量し、測候所を設け、雨量や解氷量を測り、水量の増減を測り、海の深浅を測り、風向を測らねばならないとし、治水の根本は植林であるという。黄河流域は夏季には豪雨となり、冬季には異常なる乾燥を示し、水位、流水量の増減は常に極めて大である。これらの気象調査について、胡煥庸編『黄河誌気象篇』(東亜研究所 1940)がある。福田秀夫・横田周平著『黄河治水に関する資料』(コロナ社 1941)は、既に黄河を治水の観点から国際連盟が調査した、フリーマンとトッド、エリアッセンの報告を紹介している。洪水の原因の一つ堤防の弱点について、防禦線が非常に長いこと、異なる地点で堤防の質が違うこと、関係諸省に権力を及ぼし得る中央の権威ある監督機関が欠けていたこと、資金の無いこと、そして、黄土を大量に搬出する黄河とその支流に固有な沖積現象を挙げている。このことから、平原における治水工事の改善が必要であり、それには堤防組織の強化と同時に平水時を固定する方法であると説いている。

1949年毛沢東による中華人民共和国成立後、黄河の水害を根治し、水利開発による総合計画を策定した。上流ではダムによる水力発電、中下流では灌漑と水運の発展、黄土高原は水土保持により河道への泥の流出を和らげる計画である。黄河水利委員会治黄研究組編著『黄河の治水と開発』(古今書院 1989)では、黄河委員会が成立し、黄河が戦争時期の地域的治水から全流域の統一的な治水と開発を論じる。低くて破損された昔の堤防は千里の堤防として高く強化され、堤防に生える木や草などで堤防が保護され、表法先前には水防林、堤防天端には並木が植えられた。また、ダムによる治水、河道掘削、低水路の安定、更に水利工事において砂防と排砂がなされ、洪水と土砂を利用して生産を発展させた。

  • 黄河治水に関する資料

    黄河治水に関する資料

  • 黄河の治水と開発

    黄河の治水と開発

  • 黄河治水に関する資料
  • 黄河の治水と開発


1963年黄河中流地区の土壌保全事業を推進し、土壌保全事業の結果、土砂流失地区が減少し、農業生産が改善された。灌漑面積は80万haから350万haと拡大した。水力発電ダムは、三門峡ダムを初め天橋ダム、青銅ダム、八盤峡ダム、塩鍋峡ダムなどが完成した。

しかしながら、黄河流域は降水量が少ない。黄河はユーラシア大陸の東縁に位置し、流域の年平均降水量はわずか450mmに過ぎず、流下の途中には草がまばらな乾燥地帯や草木も生えない砂漠を抱えている。加えて1970年代以降、水資源開発が進み、中流において灌漑用水等を大量に取水した結果、断流現象が起こり、流れが河口まで達しなくなった。

1990年代には毎年のように断流となり、1997年には断流日数が226日間にもなる異常事態が生じた。断流が続くことによって河口の渤海の環境は悪化した。この断流問題については、上田 信著『大河失調』(岩波書店 2009)、勉誠出版編・発行『アジア遊学75 黄河は流れず』(2005)、福嶌義宏著『黄河断流—中国巨大河川をめぐる水と環境問題』(昭和堂 2008)、福嶌義宏・谷口真人編『黄河の水環境問題—黄河断流を読み解く』(学報社 2008)がある。『黄河の水環境問題』では、断流について、黄河流域の社会経済発展と水資源からアプローチしている。黄河流域の大規模灌漑農業、黄土高原の地理学的・気候学的特徴を捉え、さらに人工衛星と水文・気象データを用いた黄河流域の土地利用・水収支及び土砂流出解析が成されている。なかなか解決方法が見出せないが、2002年「新水法」が発布され、各大型灌漑地域には節水努力が課され、違反した場合は罰則規定が設けられた。「南水北調」と呼ばれる長江からの導水計画があり、南の長江から最終的には合計488億m3が輸送される。このときは黄河の水質問題が生じると指摘する。

おわりに、李国英・芦田和男・澤井健二・角哲也編著『生命体「黄河」の再生』(京都大学学術出版会 2011)を挙げる。李国英は、河川を広義の生命体として定義する。即ち、生命体にはエネルギー移動、物質循環の機能が備わっているが、河川の水文循環過程もエネルギー移動、物質循環の特徴を持っている。陸地と海洋の水が太陽エネルギーを吸収して水蒸気となり、大気と混合して地球の引力を克服して位置エネルギーに変換する。この過程で土壌侵食・土石の運搬・堆積により水成地形をつくり、それを生息地として進化して多くの生きものを育み、恵みを与える。このような考え方から、黄河の健全な生命の維持とそのシステムについて、黄河治水の終極目標として、河川を生命体としてとらえ、それを侵略しないように、過度な水資源利用を慎み、汚染しないように注意し、生態系を守り、土砂堆積を制御して、危険を回避する必要性が述べてある。具体的に、黄河再生に向けて、黄河の調水調砂、黄河の粗粒土砂制御、黄河下流河道の整備方針を論じる。

  • 黄河の水環境問題

    黄河の水環境問題

  • 生命体「黄河」の再生

    生命体「黄河」の再生

  • 黄河の水環境問題
  • 生命体「黄河」の再生


以上、黄河に関する書についていくつか紹介してきたが、黄河は年間16億tの土石問題、断流現象、流域の砂漠化、水質の問題を抱えながらも、流域に約2000万haの耕地、人口1億人余を支えている。黄河は1億人余の生活の中を今も流れている。

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