機関誌『水の文化』42号
都市を養う水

たんけん・はっけん・ほっとけん
琵琶湖の石けん運動から学ぶこと

滋賀県では琵琶湖をMother Lakeと呼んでいます。琵琶湖は自然環境だけでなく、たくさんの文化と歴史を育んできました。そんな琵琶湖でも高度経済成長期には水質汚染が浮上。〈石けん運動〉が起こりましたが、残念ながら、その気運は途絶えてしまったのです。住民運動が継続するのに必要なことは何か、水への関心がいつ、どこで、なぜ失われてしまったのかを、フィールドに寄り添いながら琵琶湖を見つめてきた小坂育子さんからうかがいます。

小坂 育子さん

水と文化研究会事務局長 子ども流域文化研究所代表
地元学ネットワーク近畿代表
小坂 育子(こさか いくこ)さん

1947年三重県伊賀市に生まれる。結婚を機に比良山系の麓である滋賀県旧・志賀町(現・大津市)に移り住む。〈水と文化研究会〉の10年に及ぶホタルの調査〈ホタルダス〉と〈水環境カルテ調査〉で中心的な存在となる。
著書に『聞き書き 里山に生きる』(サンライズ出版 2003)、『台所を川は流れる 地下水脈の上に立つ針江集落』(新評論 2010)

人の暮らしを育んだ琵琶湖

最近は、滋賀県知事の嘉田由起子さんが「琵琶湖に恋した知事」として琵琶湖問題に取り組んでくれているお蔭で、滋賀県もずいぶん注目を浴びるようになりました。

嘉田さんは琵琶湖を「地球環境を写す小さな、しかし重要な窓」と言っています。キャッチコピーは「Mother Lake 母なる湖、琵琶湖。預かっているのは滋賀県です」。嘉田さんには感心させられることばかりです。多くの人たちを巻き込んでその気にさせながら、「自分たちのことは自分たちで考えて、行動しよう」と導いています。

琵琶湖は日本で一番大きな湖。昔から人や生きものたちにたくさんの恵みを与えてきました。琵琶湖博物館の初代館長を務めた川那部浩哉さんは、「琵琶湖は人と湖との関係がわかる、最古の湖の一つ」といい、琵琶湖博物館を「〈人と湖との関係〉を考える博物館」と定義づけしています。周囲に広がる歴史的な遺跡を見るだけでも、琵琶湖が人の営みに深いかかわりを持っていたことがよくわかると思います。

琵琶湖には一級河川だけで約120本、小溝を含めると400本もの河川が流れ込みますが、出口はたった一つ、瀬田川だけです。

また、琵琶湖から流れ出た水は、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて、大阪湾へ注いでいます。大阪の人たちの飲み水ももちろん琵琶湖からで、私たちは水でつながっています。

水の流出入が乏しい環境にある海や湖沼は、自然による自浄作用が低いために、人間が負荷をかけると環境悪化につながりやすくなります。そういう水域を閉鎖性水域と呼びますが、琵琶湖も流出する川が瀬田川だけなので、昭和40年(1965)以降は、都市化や工業化が進んで水質汚染を加速させる結果になりました。

琵琶湖の水利用と周辺環境の転換点になったのが、〈琵琶湖総合開発(注1)〉です。

〈琵琶湖総合開発〉は、環境保全対策や治水・利水対策などを目的に推し進められましたが、水辺がなくなり、特に生きものにとっては実に棲みにくい環境をつくることになりました。1970年代(昭和45〜)は、水道導入と相まって生活環境を激変させました。特に湖水や川水、湧き水、山水、井戸水などを飲用水として利用してきた地域にとって、水の合理的利用は、水への意識を大きく変えるきっかけになりました。

自然水を利用していたころは、〈排水〉といわれる無駄な水はなく、すべてが養(やしな)い水となっていました。水を生活の中で循環利用することで水質を保っていた琵琶湖も、人の暮らしと密接だった水も、心理的、物理的、地理的に遠い存在となり、関心も薄れていくことになりました。地域の共有財産としてみんなで使っていたからこそ保たれていた、水使いの〈しきたり〉や〈わきまえ〉が遠い存在になってしまったのです。

(注1)琵琶湖総合開発
高度経済成長期の京阪神地域の工業化と人口増加に伴う新たな水需要に対応するために、1972年(昭和47)国などが始めた水資源開発事業のこと。これに伴い、同年から〈琵琶湖総合開発特別措置法〉が10年の時限立法として、開始された。新たに40m3/毎秒を大阪府と滋賀県の都市用水として利用するために、湖岸堤のコンクリート化などを進めた。

国土交通省国土数値情報「河川データ(平成21年)、湖沼データ(平成17年)、行政区域データ(平成24年)」より編集部で作図

嘉田さんとの出会い

1989年(平成元)に、〈水と文化研究会(注2)〉でホタル調査(注3)をするという記事が新聞に出ました。嘉田由起子さんとの出会いはそのときです。

今の私を知る人は考えられないと思いますが、子どものころは、無口で人見知りな子どもだったんです。いつも姉の後ろに隠れているような引っ込み思案な子ども。高校時代は生物部で蘚苔類(せんたいるい)の研究をしていました。コケの採集なら一人でも行けるし、その植物体を研究室でじっと顕微鏡を眺めていればいいし。しかし、そのことが今の私の出発点だったんです。指導してくれた恩師 山田耕作先生から「継続は力なり」の姿勢を学びました。

そんな内気な人間だったから、結婚して大津で所帯を持ってからも、人としゃべるのが苦手。子どもを学校に送り出すと、一人で比良山に登って、やっぱりコケの採集をしていました。

新聞でホタル調査を知ったのもそのころでした。これなら一人でもできるし、もともと田舎育ちですから、「ホタルなら任しとき」って感じですぐ応募したんです。

事務局から送られてきた調査票に書いたコメントがすぐ嘉田さんの目に止まりました。普通の人と視点がちょっと違っていて興味深いと感じてくれたんでしょうね。嘉田さんからのラブコールがあり、本腰を入れて〈水と文化研究会〉を手伝うようになりました。

ホタルダスの次に展開した水道導入前後の水利用調査〈水環境カルテ調査(注4)〉は、私自身とても興味があり、これほど自分にピッタリの調査はないと思うほど楽しくやりました。この調査で主要なのは「聞き取り」でしたが、気がつくと不思議なくらいお年寄りから話を引き出している自分がいたのです。

嘉田さんは私の中にある「あるもの探し」をやってくれたのではないでしょうか。それからの私は人前でしゃべることへの抵抗もなくなり、嘉田さんと一緒にいろいろな所へ調査に出かける機会も増えていきました。

嘉田さんにはずいぶん鍛えられました。レポートを提出しても、「あなたの言いたいことは何なの?」「主題は何?」と厳しく言われて、何度も書き直しをさせられました。でも「この人について行ったら、なんか面白い経験ができそうだ」と直感して、必死に勉強しました。〈水と文化研究会〉の初代事務局長がお年になって辞められて、私が替わることになり、ますます嘉田さんとは近くなりました。

地元学の吉本哲郎さん(注5)を紹介してくれたのも嘉田さんです。

吉本さんが水俣川(熊本県)を案内してくださったときのことです。山から水俣の町の様子が見えるから大関山に登ろうと誘われました。

山のてっぺんには祠(ほこら)があって、そこのお供えを見たんです。そこには山のもんと海のもんと里のもんがそろって供えられていました。そのときに吉本さんが、「おい小坂、なんでこれらを供えてあるかわかるか」と言われました。私は「海も里も山も、全部一つにつながっているからだと思う。そのことへの感謝を水俣の人たちがちゃんとわかっているから、こうして山と海と里のものをお供えしているんと違うの?」と答えたんです。

吉本さんはぶっきらぼうな人だけれど、それ以来、フィールドワークに行くときに誘ってくれるようになりました。吉本さんには「ないモノねだりより、あるモノ探し」「あるモノを今にどう生かすか」「ものづくりが意味すること」を通して地域が元気になるためのノウハウを教わりました。

(注2)水と文化研究会
1989年(平成元)に発足。1980年代以降表面化した琵琶湖汚染問題を、単に水質から問うのではなく、水と人のかかわりから探ってみようと、住民と専門家の有志が集まってつくられた。〈ホタルダス〉と〈水環境カルテ調査〉を2本の柱に据え、世界各地の湖沼調査や琵琶湖・淀川水系の水害調査などを三世代をつなぎながら(三世代交流型調査)行なってきた。
(注3)ホタル調査
〈ホタルダス〉のこと。水と文化研究会が、琵琶湖周辺で始めた調査。1989年から1999年まで10年間で延べ3000人が参加して続けられた。10年間の観察記録は冊子として出版、琵琶湖博物館にはその記録のすべてが展示されている。
(注4)水環境カルテ調査
1992年から1996年まで、琵琶湖博物館準備室の資料収集活動の支援を受けて実施された。
(注5)吉本哲郎(1948年〜)
「ないモノねだりより、あるモノ探し」「村丸ごと博物館」を信条とする〈地元学〉の提唱者。水俣市生まれ。宮崎大学農学部農学科卒業後、熊本県・水俣市役所に入る。環境対策課長、市立水俣病資料館長などを務め、2008年に退職。1997〜1999年に熊本大非常勤講師。現在、地元学ネットワーク主宰。

水使いの再発見

水道水が引かれても、自然の水を使い続けたいと思った人もたくさんいました。でも行政は、長い間使い続けてきた井戸水や湧水を遠ざけ、こうした水の利用の仕方を遠ざけてきたんです。

琵琶湖の西部、高島市は自然豊かな資源に恵まれた地域です。例えば高島市の針江(はりえ)地区(注6)は〈水環境カルテ調査〉で湧水を生活用水として利用していることを知った地域の一つでした。今でこそ〈生水(しょうず)の郷〉として有名ですが、私たちがお邪魔したころはカバタ(川端 水場のこと)利用にはずいぶん消極的でした。特に若い人は「家が湿気るから」とか、「衛生上大丈夫か」とカバタ利用に反対だったそうです。しかし、水には神さんがいると信じ、水神さんへの絶ち難い信仰がカバタを守ったんですね。

屋内は内カバタ、屋外は外カバタといいますが、どちらも水温は13゚Cから14゚Cで、夏は冷たく、冬は温かく、その水利用もさまざまです。

私も農家の出身だからわかるんだけれど、水道は近代化の証しだったから、井戸水や湧き水を使っていることを恥ずかしいと思う時代があった。わざわざ車で遠くの名水を汲みに行く現在では、考えられないですよね。

針江の人が、最初は隠していたかった気持ちはよくわかります。でも、みんながすごいすごいと言い、いろいろな人が見学にやって来ると、地元の人たちにもだんだんそのすごさがわかってきたんです。「うわあ、すごい!」という正直な感嘆が、地域の人も驚かすことになったんですね。

これが吉本さんの言うところの「あるモノ探し」から、その「あるモノのすごさに驚く」ということ。足元の〈すごさ〉に驚くことから始まるんです、地元学は。

地域が自ら元気になるためには、自分たちで立ち上がらないと。地域は自分たちのもの。誰のためにするのか、なんのためにやるのか、ここにずっと住み続けたいから、もっと元気にならないと…ということじゃないかと思います。よく吉本さんが言うんだけど、「村に行ってな、この村は元気だと感じられる村には、三つの元気があるな」と。それはまず、人が元気、次に自然が元気、そして経済が元気。

その経済にも三つの元気があって、それは貨幣経済と自給自足の経済、そして物々交換、つまりおすそわけ、この三つがあるのが好ましいと。

人の元気で重要なのは、人の悪口を言わないこと、心が健康なこと。吉本さんは、やっぱり鋭いな、深層を突いているなと思います。

そんなことを考えると針江の元気はこの要件を満たしているんですよね。テレビの番をしていたおばあさんが、朝一番から庭の草引きをやっている。見学者がたくさん来るから、草ぼうぼうだったらみっともないって。

おじさんも「どうせ水を飲んでもらうんだったら、竹で柄杓をこしらえるか」って。相手の気持ちになって、お客さんを迎えるような気持ちで。集落にある鬱蒼とした手入れの行き届かない竹やぶの竹を切って、利き水用のコップをつくるんです。切るのは若者、飲み口に丁寧に丸みをつけるのがお年寄りです。陽の射さない竹やぶに陽が当たり、風通しが良くなりました。

集落がきれいになる、人の絆が深まる、世代がつながる、カバタ案内も地元の人たちでやる。自分たちの力で地域を元気にしようと次から次へと発想が展開し、知恵が生まれてくるんです。

吉本さんが言うように、地域には専門家がたくさんいるから、みんなが力を出し合ったら、行政から1銭も出してもらわなくてもできるんです。みんな、その気になりさえすれば。

今、カバタの水を利用した小水力発電で、集落の常夜灯に明かりをともしています。もちろん、工事も設計もみんなでやりました。嘉田さんのもったいない精神がこんなところにも生きています。

都会の人にも自分の住んでいる地域の「あるモノ探し」を是非してほしいなあと思います。いつもなにかでつながっているってことは、大切だと思います。特に防災対策には必要なことではないでしょうか。

(注6)針江地区とカバタ
新旭町針江地区では、地域のきれいな湧き水を生水(しょうず)と呼び、昔から大切に利用してきた。集落の中には無数の水路が張り巡らされ、家の中に引き込んで利用している。その水場を〈カバタ(川端)〉と呼ぶ。
2003年(平成15)6月に京都で行なわれた〈第3回世界水フォーラム〉で初めて開催された〈世界子ども水フォーラム〉でフィールドワークの現場に選ばれたこと、写真家の今森光彦が撮影した映像詩『里山・命めぐる水辺』(2004年1月にNHKハイビジョンスペシャル)の放映などがきっかけになって注目が集まった。外部からの評価が刺激となって、地区内の有志によってボランティア団体「針江生水の郷委員会」設立。2008年(平成20)「平成の名水百選」に選定。2011年(平成23)アメリカ・テキサス州オースチンで開催された〈第14回世界湖沼会議〉では、カバタを通した地域の取り組みを発表するという機会にも恵まれた。


  • 生水の郷のシンボルの水車は、小水力発電を始めて常夜灯を灯すようになった。

    生水の郷のシンボルの水車は、小水力発電を始めて常夜灯を灯すようになった。

  • カバタの再発見によって、元気を取り戻した針江地区。個人の敷地に入ることもあるので、受付をして名札をもらって見学させてもらう。

  • 個人の敷地に入ることもあるので、受付をして名札をもらって見学させてもらう。

    個人の敷地に入ることもあるので、受付をして名札をもらって見学させてもらう。

  • 内カバタ。

    内カバタ。

  • 生水の郷のシンボルの水車は、小水力発電を始めて常夜灯を灯すようになった。
  • 個人の敷地に入ることもあるので、受付をして名札をもらって見学させてもらう。
  • 内カバタ。

災害にも目を向ける

〈子ども流域文化研究所〉というのは、子どもにも水のことを知ってもらいたいのと、琵琶湖から淀川まで一つの流域、つながっているんだ、ということを学んでもらおうと、嘉田さんが立ち上げた組織です。

〈水と文化研究会〉でやってきたのは水の恵みの側面ですが、〈子ども流域文化研究所〉はどちらかというと、恵みじゃなくて恐さ。命を与えるんじゃなくて奪うほうの災害調査をしてきました。

洪水や水害の記憶を語り継ぎ、万一の時にどうしたらいいのか、その知恵と工夫を生み出すための活動として若い人たちに一緒に考えてもらい、「自分で守り」「みんなで守り」「地域で守る」にはどうしたらいいのかを考え、いざというときに、自分たちで身を守る行動ができるような方法を生み出すことを目的としています。

最終的には河川ごとの災害の記録を冊子にし、ワークショップのノウハウを記録に残すための作業もしています。冊子も半分以上は完成していますが、まだその作業は継続中です。

調査は、琵琶湖から大阪まで、過去に大きな災害があった年の被害状況を事前調査して、現場に出かけていって体験者の方に聞き取りをします。また、どのようにしてその災害を凌いだかなど、実際に体験していない子どもたちと一緒に災害現場に出かけ、体験者からそのときの様子をお聞きします。

子どもたちも話を聞くことで水害の恐さをイメージし、自分ならどうするかを水害マップに表現する、というワークショップを2002年(平成14)末から始めました。

学校ワークショップで「もしも蛇口が止まったら」と聞いてみたら、面白い答えがたくさん出てきました。中でも、川の水を汲みに行く、コンビニエンスストアに水を買いに行く、死ぬまで水を飲まないでじっとしているという答えが気を引きました。

川に行くと答えた子どもは、三世代が同居する家庭で、よくおじいちゃん、おばあちゃんから昔は川の水を飲んでいた話を聞かされていたのだと思います。コンビニに行くと言った子どもには、「1日に使う水の量はどれくらいだと思う?これをペットボトルにしたら何本になる?家族の人数分だったら大変な量だよ、歩いて運ぶの?」と聞いて、そのあとに「1本いくらなの。お金に換算してご覧」と言って、みんなで計算。子どもたちはびっくりして、「水って大事だね」と、こんな感じで展開させながら多様な水のことを知ってもらうんです。

災害って負の側面だから、体験者たちはあまり多くを語ってくれませんし、引き出すのにも配慮が必要です。だからこそ、過去の水害履歴を若い人たちに伝え、そこからイメージしながら「何をしたらいいのか」を考えてもらうことはすごく大切なことだと思います。

実際に経験の少ない今の子どもたちに水の大切さや恐さを伝えるのは大変なことです。特に新しく移り住んだ大人の人たちにも、自分たちが住んでいる地域が過去にどんな災害があったか、その履歴を知ってもらいたいと思っています。

嘉田さんや吉本さんが私にいろいろな学びの機会を与えてくれたように、それぞれの地域に暮らす人たちにも学んでもらいたいことがたくさんあります。

石けん運動の行方

1977年(昭和52)琵琶湖に赤潮が発生し、琵琶湖の汚染が表面化したことで起こったのが石けん運動でした。このときマスコミや行政が、琵琶湖を水ガメと表現したことに、琵琶湖を水資源として見ていることが象徴されています。マスコミや行政からの情報は、生活排水による水質汚染が前に出たものだったために、リンや窒素そのものが毒物であるかのような認識が拡大していきました。

主婦たちがあれほど熱心に運動した背景には、赤ちゃんのオムツかぶれや主婦湿疹(注7)などの健康被害があったからです。しかし、マスコミや行政と、消費生活グループや農協婦人部、労働組合などの想いが少しずつ離れていった背景には、運動そのものの社会的主体がはっきりしなかったことが課題としてあったのではないかと思います。

そのために運動に参加した多くの人たちは、「琵琶湖の何が問題で、それをどのように見たらいいのか」という本質的な問いを忘れて、あてがいぶちの情報と問題意識から出発し、地域生活者的な視点が隠れてしまったのではないでしょうか。

嘉田さんがよく言う「自分化」、そして吉本さんがよく言う「誰のために」が意味することは、人任せでもなく、陳情でもなく、私たち自らが立ち上がり、本当にやりたいことを自分たちの頭で考え、そして目と耳と足でコツコツ足元から探すことから始まるのだと思います。

まさに「地域のあるモノ探し」です。私たち〈水と文化研究会〉は、あてがいぶちの情報ではなく、自分たちで「たんけん(探検)」「はっけん(発見)」「ほっとけん(放っておけん)」の精神で、情報を生み出し、行動し、発信する活動をしてきました。調査に参加したメンバーは、地域のリーダーとして元気応援団として活躍しています。

これが、まさに住民参加型調査の原点ではないでしょうか。主役は地域住民、一人ひとりです。問われているのは、私たちなんですよね。

(注7)主婦湿疹
水仕事を多く行なう思春期以降の女性の手にできる皮膚疾患。手湿疹ともいわれる。医学用語では進行性指掌角皮症。洗浄力の強い洗剤を使用すると、皮膚表面の脂質が減少。バリアー機能が低下することによって、洗剤等の接触性皮膚炎(かぶれ)を誘発して生じる。

(取材:2012年8月7日)

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