機関誌『水の文化』42号
都市を養う水

都市型用水路の行方
日野市のケーススタディの背後にあるもの

残すには〈地域の水〉と思う気持ちが大切、と大塚恵一さん。多くは近世に開発され、石高を大幅に増やす原動力となった農業用水路。しかし多くの都市で、農業での利用が激減、維持管理に苦慮したり、ほかの用途に転用されているのが実状です。河川の機能に治水と利水が、そして環境用水としての側面が求められるようになった現在、農業用水路は、地域資源として多様な潜在力を秘めています。都市型用水路活用の鍵をうかがいました。

大塚 恵一さん

羽生市役所経済環境部農政課三田ヶ谷農林公園担当
大塚 恵一(おおつか けいいち)さん

1983年埼玉県羽生市に生まれる。2008年法政大学大学院環境マネジメント研究科修士課程修了、2008年羽生市役所勤務。
主な論文に『都市近郊における農業用水路の保全に関する研究ー日野市・羽生領・仙台市を事例にー』(法政大学大学院エコ地域デザイン研究所 2008)

農業用水路の再評価

日本には、約40万km、地球を10周する距離に相当する長さの農業用水路があります。農林水産省の推計・試算では基幹農業用水路(末端の支配面積が100ha以上)だけでも約4.7万km、水利施設は再建設費ベースで約25兆円もの資産額に相当するそうです。

この長大な農業用水路は、日本が稲作を基幹農業としてきた証拠。しかし農業用水路をここまで発展させた農業自体は、現在、衰退傾向にあります。

農業基本法が1961年(昭和36)に制定されると、農業の生産性向上を目指して機械化が進み、農業用水路も機能性の向上、管理の省力化のために、統廃合したり、コンクリートで固められたり、暗渠になったりしました。

しかし近年は、開発による農村環境の急激な改変に対して反省が起こり、農業、農村、農業用水路への再評価が高まっています。

農業用水路には多面的機能(洪水防止、土砂崩壊・土壌浸食防止、気候緩和、大気・水質浄化、景観保全、伝統・文化継承、社会教育、健康休養など)が認められつつありますが、農業従事者の減少で維持管理ができなくなっている、というのが現状です。

農業用水路の多面的機能は、いったん損なわれると、復元に多大な労力と時間、経費が必要とされます。従って、可能な限り良好な状態で維持管理することが好ましく、そのために公的管理や公的支援も必要となってくるでしょう。

慣行水利権から許可水利権へ

農業用水路を農業以外へ転用しようとするときに、ネックになるのが水利権の問題です。

水利権とは公水(河川水)を使用する際に認められる権利で、河川法によって定められています。

農業における水利権は、灌漑を目的として流水を利用する権利で、2種類に区別されています。

一つは1896年(明治29)の旧・河川法成立以前から習慣として存在した水利用行為を、歴史的水利権として認めた慣行水利権(みなし水利権とも呼ばれる)です。慣行水利権は、取水の限度が最大取水量という形で決められていることが多く、内容が不明確であること、更新がなく見直しの機会がないことなど問題が多かったため、徐々に後述する許可水利権に切り替えられています。

もう一つは、河川法成立後に、灌漑用水として管轄の行政省庁に許可を申請して認められた許可水利権です。

それまで治水中心だった河川法は、1964年(昭和39)大幅に改正されました。このときに、新たに利水という概念が盛り込まれたことで、水利用にさまざまな調整が求められるようになりました。

比較地域の特徴

私は、法政大学大学院エコ地域デザイン研究所の調査を通して、出身地の埼玉県羽生地域と東京都日野市、そして宮城県仙台市の農業用水路の現状を比較するレポートを、2008年(平成20)作成しました(『都市近郊における農業用水路の保全に関する研究—日野市・羽生領・仙台市を事例に—』)。

それぞれの農業用水路には特徴があって、違いが際立つため比較検討する対象に選びました。都市化が進み農業が衰退した日野、まだ農業地帯が残る羽生に対して、仙台の農業利用は、羽生と日野の中間ぐらい。一部、下水路として使われていた所もあるようです。

仙台市の六郷堀・七郷堀が流れる地区には環境用水に水利権が認められているという特色があります。下水路になったからこそ、逆に環境用水としての必要性が高まってきたのだと思います。

日野市は都心から西に40km、面積は27.53km2、人口約17万人(2007年〈平成19〉現在)、西部に日野台地が広がり、北の市境を流れる多摩川と貫流する浅川沿いは沖積低地となっています。

戦中、戦後を通じて、日野五社(神鋼電機、東洋時計工場、日野自動車、富士電機豊田工場、六桜社)などの大企業が進出し、多くの農地が工業用地に転用されていきました。

戦後、東京に人口が集中するようになると、日野市は職住接近を目指す衛星都市第1号に指定され、1958年(昭和33)から多摩平団地に入居を開始。直近20年間を見ても、人口は約15%(約1.8万人)増加し、農家数は約42%(267戸)減少しています。

比較したのは、江戸時代の羽生領の内、羽生領島中領用排水路土地改良区管内の羽生領地区。面積は約111.07km2、人口約9万人(2007年〈平成19〉現在)、加須低地、中川低地北部の平坦な土地です。

直近20年間では、人口は約9%(約7500人)増、農家数は約25%(1577戸)減少しています。とはいえ、一人当たりの経営耕地面積は4.5haほどあり、埼玉県内でも有数の穀倉地帯です。

仙台市若林地区は、面積は約50km2(境界未確定部分あり)、人口約13万人(2007年〈平成19〉現在)、低平な沖積低地となっており、名取川新旧流路に沿って自然堤防、後背湿地が発達しています。

1966年(昭和41)に仙台バイパスが若林区を通り若竹ICまで伸びると、工業団地が建設されるようになりました。仙台市が政令指定都市(政令で指定する法定人口50万以上の市のこと)に移行し、1989年(平成元)に若林区が誕生。人口はほぼ一定で推移していますが、農家数は約7%(410戸)減少しています。

近年、「杜の都の風土を守る土地利用調整条例」による農地保全、「農業基本計画」や「仙台市地域水田農業ビジョン」を策定し、農業振興策を実施しています。

都市型用水路の特徴

都市型農業用水路の特徴は、農業人口の減少によって使われなくなって、単なる溝になっている、というところにあります。農業に使うための水が流れなくなって、溝が残っているから生活用水を流すのにちょうどいい、といって準用河川にされて、排水路として利用されることが多々あります。

汚い水が流れるだけのドブ川になると、汚くて臭いですから暗渠化されてしまうこともあります。

農業用水として利用されていたときの土地の所有者は、幹線はほぼ官地で、自分の土地に引き込んでいく所から民地になる場合もあります。以前は地元で管理していましたが、最近は地元で管理ができなくなるという事情もあって、行政に管理を移管している所も増えています。

多摩川から取水して川崎〜稲城を潤してきた二ヶ領用水の場合は、完全に役目を終えて、文化遺産として維持されています。二ヶ領用水のように歴史的・文化的価値が高いものは環境用水として残されますが、ほとんどの場合はそうはならずに暗渠化してしまいます。用水路は、それだけ身近で当たり前の存在だったから、わざわざ残そうとするモチベーションがないのが実状なんです。

私は、流れている水というのは農業用水に限らず、地域の水だと思うんです。身近にあって暮らしと密接にかかわっていた。だから、水を使う決め事を定めて使っていました。しかし、水道水がくるようになって、共有の流れを使う場面が激減した。しかも農地が減ることで、水利権で確保されていた水量も減っていきます。

農業者もそうでない人も使わなくなったから汚れても気にしない、だからますます汚れてしまう、という悪循環。でもそうなる以前、〈地域の水〉としての価値がなくなった時点で、その用水路の価値は低くなって、なくなってしまう方向にあったんだと思います。

私が羽生市役所に入ったのは2008年(平成20)です。こういう所で生まれ育ったので、用水路が流れているのが当たり前、という環境でした。夏になればホタルも飛ぶし、川に入ってザリガニも捕る。

このことは「農業が残れば用水路が残る」と一概には言えないことの現われです。漏水を防いで効率の良い用水路にしたかったら、コンクリート水路にしたほうがいい。それなのにホタルやザリガニが棲めるような土水路にしておいた、というところに、単なる用水路としての効率だけでなく、「地域の水だ」という意識を感じるのです。

環境用水のあいまいな水利権

新河川法で利水概念が盛り込まれたのに続き、1997年(平成9)の河川法改正では、河川環境の整備と保全が盛り込まれました。

水利権を権利の安定性から分類すると、安定水利権、豊水水利権、暫定豊水水利権などに分けて考えることができます。豊水水利権とは、河川の流量が一定量を超えた(豊水)場合に限って取水が認められる、制限付きの水利権です。

農業用水であれば受益地に見合った水利権が設定されますが、環境用水の場合は受益地がどこなのか、受益者が誰なのかがはっきりしない。そのため環境水利権は豊水水利権にあたり、最も権利が不安定な水利権となります。

仙台は下水が流れていたから悪臭がして、それを解決するための環境用水なんだ、という明確な理由があったので認められやすかったんだと思います。受益負担は市が担っています。それは、市が合流式下水道を採用したことが悪臭の原因になっているからです。農業にも利用されていましたから、増水時に下水が混じる水を農業用水として使うとイメージも悪くなる。悪臭だけではなく、そういう理由もあったようです。

まあ、やはり仙台には〈杜の都〉というイメージが強いですから、安易に暗渠化せずに環境用水としての水利権を取得した。住民からの強い要望に市としても応えなくてはならない、という事情があってのこと、と想像できます。

城県仙台市若林区周辺の用水路

宮城県仙台市若林区周辺の用水路
国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「宮城」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成19年)、鉄道データ(平成23年)、高速道路時系列データ(平成23 年)」より編集部で作図
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24 情使、第492 号)

残った理由も地域固有

日野は急速に都市化が進んだため、農業の効率化を図る暇がなかったのが幸いだった。農業の効率化が図られ、水路がコンクリートになっていたら、残そうというモチベーションが生まれなかったかもしれません。土水路だったから、適度に地下浸透して湧水も保全できた。何が幸いするかわかりませんね。

羽生では、米をつくっている人の中には水を引くタイミングとか、量、水質にすごくこだわっている人がいます。そういう人たちが水を守る中心になっている。この人たちがいつまでも元気でいることが、羽生の水を守る上で大切な要素になります。

羽生はもともと、江戸の食料供給地として発展しました。用水路を使って舟運で米も運んだんです。戦前戦後に畑になっていた所も、わざわざ田んぼに戻して米をつくってきた稲作地帯で、今も、ほぼ稲作。農業が盛んだった羽生では、農業用水の合理化のため用水路をコンクリート三面張りにしてしまいました。利根川から取水した葛西用水(注)は流域面積が広いので、水を効率的に配水するためにコンクリート張りにする必要があったんです。

羽生で使った水は、中川を通じて葛飾に流れていきます。それで埼玉県の奨励品種米として力を入れている〈彩のかがやき〉というお米を媒介にした交流事業(流域連携)も行ないました。

実は葛西用水は水路に仕切りがあって、2系統になっている。一方は通過するだけで羽生では使えない水です。もう一方も、葛西用水には羽生の水利権があまりないので使えない地域もあります。羽生で使うと下流で足りなくなるからです。水は無色なんですが、見えない色分けがされているのです。

(注)葛西用水
埼玉・東京の見沼代用水、愛知・明治用水と並ぶ日本三大農業用水。1660年(万治3)関東郡代の伊奈忠克が天領開発の一環として、利根川から引いた灌漑用水路。1968年(昭和43)利根大堰が完成し、埼玉用水路からの分水に変更された。

埼玉県羽生市・加須市周辺の用水路

埼玉県羽生市・加須市周辺の用水路
国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「埼玉、群馬、栃木、茨城」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成20年)、鉄道データ(平成23年)、高速道路時系列データ(平成23年)」より編集部で作図
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24 情使、第492 号)

注目される日野モデル

日野市における農業用水路保全の取り組みは、1976年(昭和51)につくられた「日野市公共水域流水の浄化に関する条例」通称「清流条例」の施行に始まるといわれています。これは1970年(昭和45)に起きた水田のカドミウム汚染に象徴される、急激な都市化による農業用水路環境の悪化に対する対策がきっかけになりました。

慣行水利権が残っていたことから、一年を通じての通水が可能だったことも幸いでした。「清流条例」施行に伴ない担当部署が必要となり、1978年(昭和53)〈水路清流係〉が置かれました。

面白いのは、当初、担当部署が置かれたのが建設部土木課だったということです。1983年(昭和58)には、建設部土木課から独立して、全国で唯一の〈水路清流課〉が誕生。さらに1998年(平成10)に組織改正が行なわれ、〈公園緑政課〉と統合し〈環境共生部 緑と清流課〉となり、課内の〈水路清流係〉が農業用水路を含めた水辺全般の保全活動を担うことになりました。

1993年(平成5)に「水辺環境整備計画」策定に先立ち、水辺の利用実態調査が実施され、日野の特性が分析されました。

ここで、「水辺の遊び」は水辺に近づきやすい所であること、「水遊び」は水流沿いに農家があることや水質が良好であること、「散歩」では護岸が低いことや冬期の水質が良いこと、といった特性が挙げられています。

水辺の利用実態調査を参考にまとめられた「水辺環境整備基本計画」は、現時点での課題を〈景観〉〈環境〉〈管理〉の面に区別して検討し、歴史や風土性なども加味した保全整備計画となりました。

特に、日野の用水を日野市民の財産のみならず国民の遺産と定義し、「日野市の生産緑地と用水の保全は単に懐古趣味や現状凍結の保守主義ではなく、市民とともに農耕と用水の文化を明確に意識し、農業と用水の持つ重要な意味を指摘したい」と掲げたことに、日野市の用水保全の先進性があると思います。

〈水路清流係〉の職員が、1996年(平成8)〈都市計画部 区画整理課〉に異動になったことで、区画整理地内に「水辺環境整備計画」の考え方を反映させるために「水辺を生かすまちづくり計画」が策定されました。

その後、1999年(平成11)〈環境共生部 環境保全課〉と109名の市民ワーキングチームの共同により、「日野市環境基本計画」が策定され、用水の保全と回復を目指すとともに、農業用水路に景観や学習教材としての機能を持たせることなどが明記されました。

さらに2005年(平成17)には、重点項目として「用水路の総延長を2005年レベルに維持する」と明言、「生態系に配慮し、親水性のある用水路を増やす」ことを目指しました。

現状維持ではなく、「水辺に生態系を」のスローガンのもとに、コンクリート護岸を壊し、素掘りの水路に復元するなど、非常に先進的な活動を実現させています。代表的なものに〈向島用水親水路〉や〈よそう森公園〉があります。

〈向島用水親水路〉は、1992年(平成4)から農林水産省の水環境整備事業により整備されました。農業用水路の一部を潤徳小学校の中に引き込み、流れの緩やかな〈とんぼ池〉を整備。かつてこの地域には水車があったことから、実際に米を精米できる搗き臼を備えた水車小屋も建設されました。

2005年(平成17)策定の「日野宿通り周辺再生・整備基本計画」には、水路を生かしたまちづくりを行なうと掲げられており、商店街、自治会、PTA、老人クラブ、新撰組関係の寺院、資料館の代表などが市民として発言し、計画が策定されました。「暗渠になっている用水路の蓋を開け、農業用水路を復元する」ことと「開渠の水路をより親しめるものに整備する」ことが重点整備項目に挙げられています。

日野市の農業用水路は、主に日野用水土地改良区、豊田堀之内用水組合、七生西部連合用水組合、向島用水組合、上田用水組合、七生東部連合用水組合の六つの用水組合と日野市が協働で維持管理業務を行なっています。

また、2002年(平成14)からは市民のボランティア活動を支援するために「用水守制度」が発足。用水守には、46団体508名(2007年〈平成19〉現在)が登録されています。

東京都日野市周辺の用水路

東京都日野市周辺の用水路
国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「東京」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成20年)、鉄道データ(平成23年)、高速道路時系列データ(平成23年)」より編集部で作図
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24 情使、第492 号)

一つだけではない選択肢

用水路が守られていくためには、守る人がいること。維持管理のために守る人が不可欠です。それと合わせて、水をうまく使うこと。限られた水量の水を、反復利用する。上流で使った水を下流でもう一度使うなどの工夫をする。そのためには常に水があることが必要です。

そういう意味では、湧水が多いというのは日野の最大の強みなんです。よその水源から水を引っ張ってきて成立していた地域だったら、これだけの用水路は残せなかったと思います。

大学にいたときは、純粋に「これは良いことだからやったほうがいい」と思っていたことが、行政に入ってから、一部の人だけの利益になることを実現するのは難しいとわかるようになりました。税金を投入してやるわけですから、住民のコンセンサスを得られないことはできないのです。

日野市では、用水路を管理する部署が最初は土木関係の課にできて、その内〈環境〉という言葉が言われ始め、意識が定着するにしたがい〈緑と清流課〉になっていった。これも意識の変化を象徴する出来事だと思います。

行政職員も地元出身の人間が多かったり、その地域に住んでいれば、地域への愛着があります。住みやすい地域にしたいと思うし、将来の展望も持っています。そこの部分が国政とは少し違うのかな、という気がします。

日野は東京都心にも近いですから、農業は早くから衰退していたし、ベッドタウン化も早かったわけですから、用水路が残ったことを農業だけの問題にしてはおかしい気がします。やはり残そうという意識が高い人がいたから、残せたのでしょう。市役所に〈緑と清流課〉をつくったりしたのは、農業者だけの力じゃなくて、住民の多くが用水路を〈地域の水〉だと思って、残したいという強い気持ちを持っていたからでしょう。

〈地域の水〉だと思う気持ちは、農業だけに限らなくとも、生まれてくると思います。

(取材:2012年8月20日)

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