機関誌『水の文化』42号
都市を養う水

河川博物館の未来



宮村 忠さん

関東学院大学名誉教授
宮村 忠(みやむら ただし)さん

1985年関東学院大学工学部教授 、2005年関東学院大学工学部特約教授 、2010年より現職。NPO法人本所深川理事長その他、数々の省庁及び県での委員会 に関する委員として活躍。世界各地に足を運び培った河川への目利きを生かし、後進の育成のために、1987年より宮村河川塾を開講。
主な著書に『水害ー治水と水防の知恵』(中央公論社 1985)、『くらしに生きる川』(農山漁村文化協会 1989)、『相模川物語』(神奈川新聞社 1990)、『水のある風景』(日刊建設工業新聞社 2010)ほか

今、河川博物館の存在意義が、新たに問われている感があります。長年、河川のことを生業としてきた身として考えてみるのですが、そもそも河川の分野では、歴史はあまりやられてこなかったんです。

河川工学というのは土木、つまり社会基盤整備ですが、歴史を振り返るということをあまりしてこなかった。一方、博物館というのは歴史と切り離しては考えられませんから、河川はどうも博物館という性質とそぐわなかったのかもしれません。

もちろん、最近では河川工学にも歴史の視点は欠かせないとの考えが主流になっています。今、河川博物館が果たす役割が求められるようになったのは、そういう時代背景があってのことかもしれません。

河川と同様、土木にも博物館というのは少ないですね。明治村などは、その中の稀有な例ということができます。明治村のような博物館がつくられた必然性は、建築という学問に建築史という分野が確立していたことに求められるかもしれません。

明治村には建物が移築されていますが、河川構造物のように大掛かりなものを集めてくるのは不可能です。これも、河川と博物館の相性が良くない理由の一つでしょう。ただ、隅田川に架かっていた新大橋(注1)は1976年(昭和51)、現在の橋に架け替えられるのを機に、明治村に移築されています。河川にかかわる構造物が博物館に入ったのは、せいぜいこのぐらいではないでしょうか。

しかし、海外には優れた河川博物館が存在します。オランダやアメリカのミシシッピなどに、優れた河川博物館があるというのは、その土地の風土と川とが密接にかかわっている証拠でもあります。

しかし何と言っても、中国の河川博物館ほど優れたものはないのではないでしょうか。黄河博物館などに行くと、いくら時間があっても足りないほど充実した内容に圧倒されます。単なる過去の遺物が展示してあるだけではなく、「黄河を将来どうしたらいいか」というビジョンが明確に設定されていて、そういう想いが随所に散りばめられていることが最大の魅力です。

中国人は、構想と計画を分けて考える民族なんですね。だから、実施計画にはならなかったけれど、ビジョンを検討する中で挙げられていった構想の数々が、きちんと残されて日の目を見るのです。日本だったら決まっていないことを表に出すことを嫌う傾向にありますから、こういうものは「架空の夢」であるとか「漫画的」であるとかいって、切り捨てられてしまいます。しかし、中国は風土的な宿願をすべて出す。そこが中国と日本の違いだと思います。

そもそも故宮博物館の入口正面には〈大禹の治水図玉山子(注2)〉が飾られている。治水と国との関係が、これに象徴されていますね。

バブル期には、箱モノがたくさんできました。特にそれまで箱モノに縁のなかった河川にも、たくさんの博物館が新設されました。しかし残念ながら、現在までの間、その内容はなかなか充実してきませんでした。

今は、役割が果たせない箱モノが存続できない厳しい時代です。日本に河川博物館の伝統がなかったために、器を生かすことが今までできなかったわけですが、中国における黄河のように、日本各地の河川にも風土に根ざしたオリジナリティがあるはずです。

河川博物館の存在意義は、その地に暮らし、洪水と闘った人たちの宿願を後世に伝える場となることではないでしょうか。従来、日本に存在しなかったような河川博物館を築いてみたいと考えています。

(注1)隅田川新大橋
旧・所在地は、東京都中央区浜町から江東区深川新大橋。建設年代は1912年(明治45)。隅田川に架けられた五大橋(上流から順に、吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋)の一つ。設計監理には東京市の技術陣が当たり、当時の日本では、まだ国産鉄材の入手が困難であったことから、すべてアメリカのカーネギー社の製品が使われている。
(注2)大禹の治水図玉山子
清の第6代皇帝 乾隆帝(在位1735〜1795年)の勅命で、『大禹治水図』を高さ2.4m、幅0.96m、重さ5.3tもある巨大な玉に彫らせたもの。王宮に伝わる宋代以前の作とされる『大禹治水図』は、中国古代夏王朝皇帝である〈禹〉の治水事業の功績を描いたものだが、色褪せて劣化したことを惜しみ、この巨大な玉に絵画の構図をそのまま刻むことを思いついたという。

(取材:2012年8月31日)

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