機関誌『水の文化』43号
庄内の農力

庄内砂丘の水とメロン栽培

強風のためにクロマツがかしいでいる。300mの防風林帯の合間に表われた小道。

強風のためにクロマツがかしいでいる。300mの防風林帯の合間に表われた小道。

実際に防砂・防風林の中を歩いて、海まで出てみました。普通の海岸の松林を想像しては、大間違い。原始林のような力強さに圧倒されます。何世代にもわたって、営々と植樹されてきたクロマツが幾重にも梢を伸ばして、砂と風から庄内平野を守っているのです。これを築き、維持してきたのは無名の庄内人です。粘り強く、黙々と働いてきたことの蓄積が、砂丘メロン栽培を可能にし、今の庄内の農の豊かさを支えているのかもしれません。

菊池 常俊さん

山形県庄内総合支庁産業経済部農村計画課
農林技監(兼)農村計画課長
菊池 常俊(きくち つねとし)さん

1952年山形県最上町に生まれる。1975年岩手大学農学部卒業後、山形県農林水産部に奉職。以来農業土木職員として農業基盤整備を担当。特に庄内平野の土地改良事業の最盛期に現場職員として、圃場整備をはじめ各種事業に従事。その後事業計画を担当し、山形県農林水産部農山漁村計画課長を経て現職。

古砂丘と新砂丘

庄内砂丘は飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)から酒田市を経て鶴岡市に至る延長34km、幅1.5〜3km、最大標高は77mの砂丘です。日本一長い砂丘ですが、その存在は案外知られていません。

庄内砂丘は、地質的にいうと古砂丘というものと新砂丘の二層構造になっているといわれています。古砂丘と新砂丘が形成される間の時代に、砂丘全体が広葉樹で覆われていたといわれ、それが縄文期にあたるということです。

赤川という川は、鶴岡の南から北に向かって貫流して酒田までいっています。もともとは最上川に合流していたのですが、氾濫が多くて被害が出るので、砂丘を貫いて放水路をつくりました。そのときに縄文時代の遺跡が出てきたことから、そういうことがわかりました。

庄内砂丘を語る上では、水の利用がキーポイントになります。古砂丘の上に黒っぽい土壌の不透水層があって、そこの帯水層の水を利用できたから今のメロン栽培がある、と言っても過言ではないのかな、と思います。

もちろん品種改良など、さまざまな人の努力があって実現されたことではあるのですが、戦後、帯水層が発見されたことから、地下水を汲み上げて灌漑できるようになって、今の畑作が可能になりました。

庄内砂丘には縄文時代から人が住んでいました。庄内の縄文遺跡は、平野部の周辺部に張りついているだけ。平安時代に入って、初めて平場に集落跡が見られるようになります。ということは、平場は湿地帯で、ほとんど人が住めなかった、ということです。

国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「山形」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成19年)、土地利用細分メッシュデータ(平成21年)、農業地域データ(平成23年)」より編集部で作図
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平24情使、 第750号)

海中の湧水

遊佐は岩牡蠣が有名ですが、鳥海山の伏流水が海の中に湧いているから牡蠣がおいしく育つ、といわれています。水は砂丘の端で湧いているのですが、遊佐と同じ理屈で、月山の伏流水の一部が海の中で湧いているのではないか、という説もあります。その表われのように、庄内平野の外縁には湿地帯がたくさん見られます。

砂丘なのに、水が多くて困ることもあります。年間降水量が2000mmを超えると、次の年には砂丘に水が上がってくる現象が起こります。メロン栽培者の本間栄さんは、8mの井戸からポンプで揚水していると言っていましたが、通常の地下水位は2〜3m程度です。ところが2011年(平成23)は、一面水浸し。深い所では1mも冠水しました。それでポンプアップして砂丘を超えて海に排水し、地下水位を強制的に下げて翌年のメロン栽培を行ないました。

水が湧くメカニズムは解明されておらず、思わぬ所に水が湧くことがあります。

名もない人たちの働きで

1700年代に入って、庄内藩が植林の指導監督者である〈植付役〉を定めて植林の指導を行なうようになりましたが、実際には、それぞれの地域の名主が私財を投じて植林にあたりました。長い砂丘のそれぞれの地域に、飛砂と闘ってきたそれぞれの歴史があります。よく本間光丘(みつおか)(注1)の功績と言われることがあるんですが、遊佐でも庄内でも肝煎(きもいり/その地方の豪族)などが率先して植樹したことが知られています。有名な人では、現・酒田市の佐藤太郎右衛門(注2)がいます。

本間光丘が植林する以前にも、砂丘には雑木林はあったそうです。ところが製塩のための燃料などに使うので、どんどん伐採されて、再び飛砂がひどくなった。それで本間光丘は、もう一度防風林をつくろうとしたということです。

飛砂防止は、地域住民にとって切実な問題でした。ですから頼まれなくても自主的に対応していたはずです。そんな中で私財を投げ打って植林した人たちだけが、後世に名を残しているんです。

漁業をやって生計を立てている人も、自家米はつくらないと暮らしていかれません。近隣で水田をやっている人にとっても、切実な問題です。そういう人たちの地道な努力によって、今の庄内平野が守られていることを忘れないでいたいと思います。

(注1)本間光丘(1733〜1801年)
出羽酒田の豪商。光丘は諱(いみな)で、本名は四郎三郎(しろうさぶろう)。1775年(安永4)第7代庄内藩主で藩校致道館を創設した酒井忠徳(ただあり)の命を受け、疲弊した藩の財政改革に携わり、再建を成し遂げた。
(注2)佐藤太郎右衛門(1693〜1769)
祖父 治郎右衛門が茨新田(現・鶴岡市)を、父 善五郎が広岡新田村(現・酒田市)を拓いて移住するなど、代々赤川下流域の治水や農業振興に貢献してきた。太郎右衛門は1745年(延享2)に京田通植付役となり、坂野辺新田村(現・酒田市)などの新田開発や植林に当たった。

これからの砂丘保全

上流にダムができたことで、逆に土砂がこなくなって砂丘が小さくなっている、という話も聞きます。毎年、航空写真で確認している人もいます。

現在の一番の課題は、マツクイムシの被害です。秋田の海岸線は、ほとんど全滅だということです。そのために病害虫の防除を行なっています。

畑と畑の間の細い道に植わっている松は、個人の管理になっています。あまり大きくなると日陰ができるし、倒れると農業用ハウスが壊れてしまうので、適当な大きさのときに伐採して植え替えます。

あれがないと農業用ハウスが倒れてしまう。それほどに風が強い地域なんです。ですから庄内空港ができたときにも、強風が懸念されました。特に冬場の北西風がきつい。防風林は幅300mほどありますが、それだけの幅がないとこの強風は防げないんです。

安部公房の『砂の女』(新潮社 1962)という小説は、酒田市浜中がモデルとなりました。

小説のモデルになって砂に埋もれてしまう家というのは、実際には旧家なんだそうです。代々家の周辺の砂をかき分けているうちに、砂丘の中に家を建ててあるような状態になりました。かき分けた砂を背負って、海岸に捨てに行くのです。冬場の北西風が吹いたら、本当に家が埋まってしまうほどです。

あれほど砂が堆積したら、とても農業はできません。浜中は地引き網漁をやっていた人たちの集落なんですよ。だから、飛砂被害が甚大でも、できるだけ海の近くに集落を形成することになったのです。

今も続く林帯整備

飛砂防止の一番の目的は水田を守るため。砂丘地を利用するために松を植えるのではなくて、飛んできた砂が平場の水田に被害を及ぼさないようにするために、松を植えなくてはならなかったのです。ですから平場の住人も、植林作業に参加しました。そして、そういう苦労の時代がずっと続いていたようです。

そしてある程度、松の植林が進んで飛砂が収まった段階で、初めてこの地を利用しようということになるわけですが、そのときにはまだ水の存在もわからなければポンプもなかったので、水を得るのに非常に苦労しました。

水を背負って灌水しながらの農業でしたから、農業とはいっても、自分たちが食べる分がやっと、という状態でした。

そういう苦労をしていたのは、そんなに昔のことではありません。戦後すぐのころまでは、そんな状況が続いていたんですよ。

砂丘というと鳥取や浜松を思い浮かべ、砂が動くという印象がありますが、庄内砂丘は砂が動きません。というよりも、動かないように、人が営々と努力してきたんです。

クロマツを植えるだけではなく、沿岸流を押さえるための突堤や、植樹した苗を守るための柵、海岸汀線側にハマナス、アキグミなどの耐性の強い草を植え、それらによって砂をガードした上で、後方にクロマツを植えつけました。植林が終わったから完成、というわけではなくて、ずっと更新し続けなければ、防風林は維持できませんでした。

メロン栽培

その後、水が充分に確保できるように整えられ、品種改良が進んで、メロンがつくれるようになりました。ハウスは昭和50年代、その後、露地栽培できる品種も開発されています。

メロンを砂地でつくるメリットは、出荷前の数日間、水を断って糖度調整ができるところにあります。水のコントロールがしやすいんです。水を掛けたいときには、すぐに掛けることもできますし。

やはり砂地ですから肥料分が抜けやすい。それで堆肥をたくさん入れて、土壌改良しています。そういう技術がなければ、ただの砂地を農地として利用するのは無理でしょう。こういう特殊な栽培方法も、民間の篤農家によって開発されてきました。

このように民間の人が技術開発する、というのは庄内の伝統的な特色なのかもしれませんね。

以前、農家の人から聞いた話ですが、換金作物として安定するものを新たにつくるには3年かかる。だから常にアンテナを張り巡らせて、次の作物をリサーチしているそうです。

自分の農地の一部を、新しい作物の試験栽培に使って、3年で市場に出せるように、5年経ったらトップクラスのものをつくれるように、と心掛けているそうです。

そういう努力を絶え間なく行なう人たちがいたからこそ、庄内砂丘は畑作地帯として維持されてきたのです。

(取材:2012年9月12日)

メロン生産者

本間 栄さん

本間 栄さん

砂丘メロンの来歴

メロンをつくり始めて、四十数年。その前は柿と米をつくっていました。

私がメロンづくりを始めたころはプリンスメロンの時代。そのころは砂丘のメロン栽培も安定するようになっていましたが、プリンスメロンより前に取り組んだ人たちは大変苦労したと聞いています。

プリンスメロンは昭和40年代に全盛期となり、これで庄内はメロン産地の地位を確立しました。昭和50年代には、表面に網目のついたアンデスメロンが登場。現在も主流となっています。

1998年(平成10)には、アンデスメロンに加え、JAオリジナルブランドとして、鶴姫と鶴姫レッドというネーミングで独自品種を売り出しています。

庄内砂丘のメロン栽培の歴史は、1918年(大正7)までさかのぼることができます。

その後、庄内砂丘でメロン栽培が大きく発展したのは、日本育児院七窪分院(現在の七窪思恩園)の院長、五十嵐喜広(注)の指導があってのことです。

五十嵐は農家ではありませんでしたが、ここの人たちが少しでも楽な暮らしができるようにと考えて、アメリカ・カリフォルニアからロッキーフォードというメロンの種子を持って帰国。砂丘でのメロン栽培を奨励しました。

明治以来、砂丘の栽培作物はサツマイモだったため、単価の高いメロンをつくることを勧めたのです。当時の肥料は堆肥ですから、わざわざ草が生える湿地に草刈りに出かけて、山に持っていって草を干して、苦労しながら堆肥づくりをしたそうです。

1931年(昭和6)には、西郷、湯野浜、浜中の農家が集まって〈七窪メロン研究会〉が設立されました。当時会員数が60名だったそうです。60名で5反歩だった栽培面積が、翌年は120名で5町歩に増えた、とあります。年々生産量が増加し、念願であった東京市場進出を果たしましたが、庄内で広く栽培されていた品種が東京で不評だったことなどから失敗に終わりました。戦時下の食糧増産の至上命令もあり、七窪メロン研究会は自然消滅し、五十嵐も亡くなりました。

1948年(昭和23)思恩園の農場主任だった樋口吉雄が、七窪の篤農家 斎藤伝吉が戦争中大切に保管していたメロンの種を譲り受けて植えつけます。

戦争が終わったとはいえ、まだ食糧不足で、砂丘でつくられる作物も麦類とサツマイモがほとんどの時代でしたが、生産量を増やし、湯野浜の温泉街や鶴岡の市街地で販売実績を伸ばしていきました。

戦前に一度失敗した東京市場への進出を目指すためには、品種改良が不可欠です。このときに、品種改良の先頭に立ったのが、戦時中にメロンの種子を保持していた斎藤伝吉の長男 松太郎でした。

そのころの育種学は、まさに手探り状態。1953年(昭和28)ありとあらゆる品種の掛け合わせを行なった樋口たちは、思恩園の農場で165品種を試作したそうです。1964年(昭和39)には、松太郎の交配した〈ライフメロン〉が種苗登録されます。農民による種苗登録は、日本初の快挙だったといいます。

松太郎はスプリンクラー灌漑施設をいち早く取り入れたり、昭和20年代には既に「これからはメロンと花の時代である」と将来を予測したりする先見の明がある人だったようです。

(注)五十嵐喜広(1872〜1945年)
湯野浜温泉生まれの社会事業家。庄内中学当時にキリスト教牧師 松村介石の講演を聞き、キリスト教へ入信。岐阜県で伝道活動中、幼児を保護したのを契機に育児院を開設した。各地に育児院をつくり、鶴岡市七窪にも分院(のちに独立して、七窪思恩園)を開設。庄内砂丘地メロンの先駆者でもある。

本間栄さんの農業用ハウスで。現在の主力品種のアンデスメロン。

本間栄さんの農業用ハウスで。現在の主力品種のアンデスメロン。

ビニール水田

また庄内砂丘が先進的農業に挑戦してきた背景には、山形県農事試験場砂丘試験地(現・山形県砂丘地農業試験場)があってのこと、といえるでしょう。

当時、七窪メロン研究会では、メロン以外にもアスパラガスなどの新しい西洋野菜の栽培も手がけていましたが、技術的に未熟だったため、県に対して指導機関の設置を要望しました。そうした経緯で、山形県農事試験場砂丘試験地が1936年(昭和11)七窪に設置されました。

「思い切った農業をするために、自分で食べる米は自分でつくる」という砂丘農民の想いをかなえるためにビニール水田を開発したのも、山形県農事試験場砂丘試験地の指導です。

戦後になって帯水層が発見されて、地下水を汲み上げて灌漑できるようになってから、土中にビニールシートを敷いて水が漏れないようにしたビニール水田がつくられました。

今はほとんどなくなりましたが、まだわずかに残っています。「自分で食べる米は自分でつくる」という意識が、まだ残っているのでしょう。

本間さんの農業用ハウスのそばで、今では珍しくなったビニール水田を発見。自家用米をつくっているようだ。

本間さんの農業用ハウスのそばで、今では珍しくなったビニール水田を発見。自家用米をつくっているようだ。

砂丘農家の現状

私はメロンで1.2ha、田んぼは7ha、メロンの後作にトルコキキョウなど、花卉も栽培しています。ミニトマトは、8mの井戸から揚水してチューブで灌水して栽培しています。トマトも水をコントロールすることで味が濃くなるから、砂丘に適した作物です。

この辺りは、20〜30歳代の若者が継いでいる農家が多く、後継者の多さでは庄内の中でも一番。複合経営で農業所得が多い、というのも理由の一つではないでしょうか。やはり、米単作地帯では後継者が出にくいのです。

かつては20a区画、その後は30a区画で、山形は圃場整備の先進地でした。現在は1区画が1.8ha、300m×60mという時代です。今となっては、過去に圃場整備された田んぼは、小規模圃場ということで省力化の足を引っ張っているのが現状です。

庄内は、厳しい状況を大規模経営で乗り越えようとしています。それができるのも、先人の努力があってこそと頭が下がります。

  • メロンの後作でトルコキキョウなどの花卉を育てている。

    メロンの後作でトルコキキョウなどの花卉を育てている。

  • ミニトマトは息子さんの管理だそうだ。

    ミニトマトは息子さんの管理だそうだ。

  • 本間さんの井戸。8mの深さからポンプアップしている。

    県営事業で緊急排水対策を行なっている排水ポンプ。
    本間さんの井戸。8mの深さからポンプアップしている。

  • メロンの後作でトルコキキョウなどの花卉を育てている。
  • ミニトマトは息子さんの管理だそうだ。
  • 本間さんの井戸。8mの深さからポンプアップしている。

(取材:2012年9月12日)

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