機関誌『水の文化』43号
庄内の農力

赤川の流れを追う

古賀 邦雄さん

古賀河川図書館長
水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄(こが くにお)さん

1967年西南学院大学卒業
水資源開発公団
(現・独立行政法人水資源機構)に入社
30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集
2001年退職し現在、日本河川協会、ふくおかの川と水の会に所属
2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設

赤川上流荒沢ダム・月山ダムの建設

山形県の河川は最上川水系、赤川水系、荒川水系、摩耶山水系群、鳥海山水系群の五つに大別される。赤川水系は、灌漑用の大鳥池に発する大鳥川と月山、湯殿山並びに朝日連峰に発する梵字川との二大支流が朝日村落合地内で合流して赤川となり、庄内平野を北流し内川、青龍寺川、大山川などを合流し日本海へ注ぐ、延長70.4km、流域面積856.7km2である。

赤川上流の出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)は、古くから信仰の山で有名である。大鳥川に電力と農業用水を目的とした荒沢ダム(1955年完成)、電力の新落合ダム(1958年)、梵字川に電力の八久和ダム(1957年)と梵字川ダム(1933年)、治水・水道・電力の多目的ダム月山ダム(2001年)が建設されている。

ダムの書として、荒沢ダム工事進捗と次第に水没していく村を捉え、その村人たちの心情を撮った亀井良生・佐藤盛夫写真集『湖底に消えたふるさと 荒沢村』(東北出版企画 2005)、月山ダム建設のプロセスを描いた三戸部浩子著『月山ダム物語(上)・(下)』(みちのく書房 2000)、児童書・月山ダムと朝日村編集委員会編『すごいね、月山ダム』(1996)、ダム工事を纏めた東北建設協会編『月山ダム工事誌』(月山ダム工事事務所 2002)、同『月山ダム写真集』(2002)がある。

『湖底に消えたふるさと 荒沢村』

『湖底に消えたふるさと 荒沢村』



赤川の堰群

赤川における堰を見てみたい。大鳥湖から下る大鳥川には赤川合流前に熊出堰があり、梵字川には天保堰が設けられている。合流点からは左右岸でそれぞれ取水する三ヶ村堰(左岸)、青龍寺川(左岸)、大川堰(右岸)、志田堰(左岸)、因幡堰(右岸)、五ヶ村堰(左岸)、中川堰(右岸)、大宝寺堰(左岸)があり、これらの堰により、鶴岡市はじめ8市町村、約1万3000haの水田に灌漑している。

天保大川土地改良区編・発行『天保大川土地改良区史』(2004)によれば、当改良区は庄内平野の南東部に位置し、取水源は赤川の上流朝日村熊出地内の赤川頭首工から取水する東第一用水路(旧大川堰)、梵字川から取水する越中堰、さらに朝日村田麦俣地内の田麦川から取水する天保堰の三水系からなり、灌漑面積1377haを潤している。旧大川堰は元禄6年より、黒川・猪俣新田の人たちを中心に、越中堰は元禄16年より、朝日村越中山の大館藤兵衛元忠翁に、天保堰は天保3年より、大館藤兵衛元貞翁によって、それぞれ開鑿(かいさく)された。不毛の地を開拓する水路であったが、断崖、巨岩ありの地形の中で、一日1000人の出役で完成したという。

赤川の左岸から取水する青龍寺川は、最上氏の慶長年間工藤掃部(くどうかもん)が開鑿した大用水路である。その後この川から分流する用水路は三十数本にも達し、藩政時代における木村谷地の開拓も明治時代に新形・小真木などを開田できたのも青龍寺川のおかげであり、今では流域5600haに及ぶ美田を潤している。青龍寺川は赤川の水流を堰き止め、江口水門から取水する。この水は西北に流れ鶴岡市の西端を滔々として流れる。青龍寺川普通水利組合編・発行『青龍寺川沿革誌』(1937)は、工藤掃部の偉業、江口水門、新川青龍寺川の流域の開田を捉える。また、佐藤誠朗・志村博康著『青龍寺川史』(青龍寺川土地改良区 1974)は、庄内藩における用水生産・用水管理・運用機構である大堰守制の成立、さらに、明治維新以後の地主的利水秩序の形成過程、そして、戦後の農地改革を経て、耕作農民の機関に変化した青龍寺川土地改良区が、大規模な土地改良事業を通じて、この地域の治水・利水・圃場基盤を抜本的に再編成していく過程を追求している。

  • 『天保大川土地改良区史』

    『天保大川土地改良区史』

  • 『青龍寺川沿革誌』

    『青龍寺川沿革誌』

  • 『天保大川土地改良区史』
  • 『青龍寺川沿革誌』


右岸から取水する因幡堰について、長沼源作著『因幡堰史』(因幡堰土地改良区 1978)がある。慶長6年最上義光公の家臣新関因幡守久政が藤島城主に着任後、宿願であった灌漑用水増強のため開鑿された。因幡守は不運にも偉業半ばにして主家の改易に遭遇し、堰の完成を見ずに庄内の地を去り、宝永3年、時の大守酒井忠真によって完成された。因幡土地改良区の前身は、明治22年設立の因幡堰水利土功会。明治26年因幡堰普通水利組合に改組され、戦後、昭和27年因幡堰土地改良区となり、その間八十余年、一口水門(黒川)の改築、古郡大樋の改築、さらに因幡場揚水所等の新設により、灌漑用水施設の確保と生産力の増強に重要な役割を果たしてきた。

さらに因幡堰から下った右岸から取水する中川堰については、長沼源作著『中川史』(中川土地改良区 1983)がある。寛正元年中川堰・天高堰として開鑿され、元和元年最上氏の赤川河道設定によって取入口を含め用水路の大改修がなされ、その後幾度かの改築・改修が行なわれた。箕升新田、横川新田、広野新田、林新田、奥井新田等が開発され、現在3900haの美田を潤している。

八沢川土地改良区史編纂委員会編『八沢川土地改良区史』(八沢川土地改良区 1997)には、庄内平野の南部の山々に発し、北流して大戸川を合わせた後、大山地内から大山川となってやがて赤川に注ぐ八沢川から、田川堰、清水堰(以上四分方といわれる)、水沢堰、荒堰、栃屋堰、友江堰、小中堰(以上六分方という)、別に大明神堰が引かれているとある。東岸は田川村宮ノ前地内、西岸は水沢村四日市地内で四分六分の分水が慣行だが、この分水をめぐって、幾度となく利害が対立し、争いとなり、宝暦13年にいったん収まった。

  • 『因幡堰史』

    『因幡堰史』

  • 『中川史』

    『中川史』

  • 『因幡堰史』
  • 『中川史』


赤川における土地改良区の変遷

昭和24年土地改良法の制定により、明治20年に設立された普通水利組合から土地改良区に組織替えがなされた。昭和26年青龍寺川、27年に中川、天保大川の各土地改良区が設立されて半世紀、土地改良区は時代の要請を踏まえ、国・県営灌漑排水事業、県営圃場整備事業、基幹水利施設管理事業などを実施し、農業生産基盤の整備を図り、農業水利施設の維持管理組織として重要な役割を果たしてきた。佐藤誠朗・志村博康著『赤川史』(赤川土地改良区連合 1966)は赤川の農業水利役割を、治水・発電・農業生産との関連から追求している。近年、農業者の減少、高齢化の進行、集落機能低下などが続き、改めて土地改良区の機能の拡充が必要となってきた。そこで、平成17年2月青龍寺川、中川、天保大川の3土地改良区が新設合併して、庄内赤川土地改良区が誕生した。その後因幡堰土地改良区との連合体として存続していた赤川土地改良区連合を平成18年9月に解散し、国営赤川農業水利事業の共同事業者として、庄内赤川土地改良区と因幡堰土地改良区において、維持管理業務を行うこととした。さらに、平成21年1月八沢川土地改良区を吸収合併し現在に至っている。

『赤川史』

『赤川史』



赤川頭首工の設置

遡るが、赤川からの取水にとって最も重要な赤川頭首工の設置について記さねばならない。戦後荒れ果てた国内の復興の一環として、既に述べてきたが、赤川の上流に、昭和9年大鳥湖(自然湖)に制水門を設置、31年治水・農業用水・発電の荒沢ダムをはじめ、次々と発電所が建設され赤川の渇水量は安定したものの、砂礫等の流下の減少、無謀ともいえる建設用砂利の乱掘によって、河床の低下が急速に発生し、やがて年ごとの取水に支障をきたし、なおかつ融雪時の出水には災害をもたらし、取水不能にまで進展してきた。

この対策として八つの取水口を上流朝日村熊出地点に統合して築造し、下流部用水を補給するため河川還元水を反復取水する揚水機場を三川町三本木地点に新設し、取水を安定させ、これに付帯する幹線水路等を新設改修した。赤川農業水利事業は昭和39年に着工し、49年に完成した。このことについて、東北農政局赤川農業水利事業所編・発行『赤川事業誌』(1975)に詳細に論述されている。現在、赤川頭首工及び総延長約48kmに及ぶ幹線用水路群は築造後約40年を経て老朽化が進み、その改修が農林水産省東北農政局により赤川二期農業水利事業として進められている。

『赤川事業誌』

『赤川事業誌』



赤川の治水

赤川の洪水の要因は融雪と梅雨期の大雨に大別され、主なる洪水は大正10年8月、昭和15年7月、28年8月、44年8月、46年7月、53年6月。建設省東北地方建設局著『赤川 治水と利水』(月山ダム工事事務所 1984)は赤川の治水について、次のように論じる。明治28年国直轄事業で低水工事に着手し、同34年に完成。大正10年6月赤川を最上川から分離するための放水路開削工事に着手し、放水路工事は昭和17年まで継続される。同28年最上川と赤川が分離する締め切り工事が完成する。昭和31年に赤川上流に荒沢ダムが完成し、大鳥川の洪水量の調節が図られた。その後赤川の河川改修が進められた。昭和44年8月の洪水を契機として、新たな上流のダム建設が要請され、平成14年に田川郡朝日村地点に総貯水容量6500万m3、洪水調節容量3800万m3の月山ダムが竣工した。

以上、赤川の流れを追ってきた。古くから赤川は、庄内平野の流域の人々に利用されており、いまでも特別に重要な河川である。特に江戸期に於いては、赤川の両岸から先人たちの血のにじむような尽力で、農業用水として取水する多くの堰が設けられ、多少の水争いはあったとしても、そこには緊張した関係のなかで、水を分かち合ってきた精神の歴史が根底に脈々と流れている。日本一おいしい「つや姫」というお米が生まれる理由が理解できるようだ。

終わりに、京田川改修促進期成同盟会編・発行『京田川治水組合沿革史』(1981)、建設省東北地方建設局著『庄内水紀行』(酒田工事事務所 1993)、岡部夏雄著『庄内淡水魚探訪記』(無明舎 2000)の書を掲げる。

『赤川 治水と利水』

『赤川 治水と利水』



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