機関誌『水の文化』44号
しびれる水族館

日本の水族館とともに

鈴木さんの言う通り、口を開けて泳ぐマイワシの大群。ものすごく速いスピードで泳ぐため、写真に撮るのもひと苦労。

鈴木さんの言う通り、口を開けて泳ぐマイワシの大群。ものすごく速いスピードで泳ぐため、写真に撮るのもひと苦労。

1956年(昭和31)江ノ島水族館に勤務して以来、日本の水族館とともに歩んできた鈴木克美さん。水族館史を本にまとめたり、海外の論文を日本に紹介するなどして、研究できる環境を整えながら、後進を育成し、飼育・展示だけの水族館からの脱却を牽引してきました。輸入文化として取り入れられた水族館が、本当の意味で日本独自のものになるためには、今が正念場と語りました。

鈴木 克美さん

東海大学名誉教授、農学博士
鈴木 克美(すずき かつみ)さん

1934年静岡県生まれ。東京水産大学卒業後、江ノ島水族館、金沢水族館副館長を経て、東海大学教授、同大学海洋科学博物館館長。専攻は魚類生活史学。
主な著書に、『イタリアの蛸壺 海とさかなの随筆』(東海大学出版会 1978)、『潮だまりの生物学』(講談社現代新書586 1980)、『東書選書63 黒潮に生きるもの』(東京書籍 1981)、『丸善ライブラリー28 魚は夢を見ているか』(丸善1991)、『丸善ライブラリー112 水族館への招待 魚と人と海』(丸善 1994)、『ものと人間の文化史113 水族館』(2003 法政大学出版局)、『東海大学自然科学叢書 新版水族館学』(共著/東海大学出版会 2010)ほか

水族館史をまとめる

『丸善ライブラリー112 水族館への招待 魚と人と海』(1994)を書いたときは、私にもまだ水族館の歴史に強い関心はありませんでした。水族館の先輩に勧められて、ようやく調べて書く気になったものの、水族館の歴史を書いた書物は、日本にはまだなかったのです。

日本の水族館には、大学臨海実験所の水族館、博覧会水族館、公立水族館、株式会社といろいろありますが、資料を残す意識と習慣がなかったために少ない資料すら消えていく運命にあります。

私が『ものと人間の文化史113 水族館』(法政大学出版局 2003)を出版したのは、長らく水族館に携わった者の責任として、散逸しがちな水族館資料を記録に留めたいと考えたからです。

人類は有史以前から魚を飼っていた

人類が魚を飼っていた痕跡は、古代中国やローマ時代まで遡ることができます。食用と観賞用を兼ねてヘレンウツボを飼っていた証拠が、ポンペイの遺跡から発掘されています。ポンペイは西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火で埋もれた町ですから、それ以前から、ローマの貴族階級には、アクオリオと呼ばれる施設で、食べるための魚を飼う習慣があったということになります(注1)。

記録だけでいったら、紀元前2500年ごろ、バビロニア王朝期にシュメール人が淡水魚を飼っていたことや、中国の周代(紀元前11世紀)の文献にも〈家魚〉という言葉が見られます。720年に著された『日本書紀』にも、観賞用の池があった、と書かれています。

(注1)
従来、飼われていた魚はウナギといわれてきたが、英語のモーレイ・イールはウツボのことで、誤訳が日本の定説となった。古代ローマ人はウツボを好んで食べていたようである。

自然志向の思想から

19世紀のイギリス・ビクトリア朝期には産業革命が起こり、経済発展と並行して、自然回帰志向の流行がありました。

1842年(天保13)、〈ビバリウム(Vivarium:動物飼育器)〉(注2)と命名されたガラス器のセットが、自然志向の思想に乗って大いに流行しました。

引き続いて水槽の〈ビバリウム〉、つまりアクア版が登場しました。17世紀のイギリス官僚で、詳細な日記をつけたことで知られるサムエル・ピープスも、1665年のある日、知人宅で熱帯魚のパラダイスフィッシュを飼っているのを見た、と日記に書いています。

現在、水族館の欧米での名称はアクアリウムです。本来の意味からすると、水中植物と水生動物の呼吸が平衡状態にある水槽(バランスド・アクアリウム)をアクアリウム(注3)と呼んでいましたが、やがて水槽や水族館そのものも指すようになりました。

日本では18世紀半ばに、オランダからきた吹きガラスのビードロ鉢に金魚を入れて眺める風習が始まっています。国産のガラス器がつくれるようになると江戸の庶民の間にも流行して、金魚を入れたガラスの〈金魚玉〉を軒先に吊るして楽しんでいたようです。

このように、魚を見て愛でる、飼って楽しむという風習は、洋の東西を問わずに、早くから受け入れられていたのです。

(注2)ビバリウム
密閉した小容器の中に植物と動物を入れて光を当てておけば、互いの呼吸を助け合って長く生きることができることを、ナサニエル・B・ワードが植物雑誌に発表。のちに自分の名前を冠して〈ワーディアンケース〉として売り出した。
(注3)アクアリウム
ロバート・ウォリントンは水中植物と水生動物の呼吸に相関関係があることを証明する平衡水槽(バランスド・アクアリウム)について、1849年の学会で発表した。その論文に、初めて〈アクアリア(アクアリウムの複数形)〉という用語が使われた。その後、アクアリウムに自分の名前をつけて〈ウォリントンケース〉として売り出している。
アクアリウムの用語が広まったことには、1854年、実際に自分で飼育して観察しながら描いたイソギンチャクやサンゴの彩色版画を掲載した『ジ・アクアリウム』という名著を、フィリップ・H・ゴッスが出版した影響も大きい。

欧化主義から始まった

日本で最初の水族館は、上野公園につくられた〈観魚室(うをのぞき)〉です。観魚室と書いて「うをのぞき」と読ませました。

上野の山は明治維新後に公園となって、文部省(当時)系の教育博物館(現・国立科学博物館)ができ、その附属施設として動物園が、そのまた附属施設として1882年(明治15)〈うをのぞき〉がつくられました。

この教育博物館と動物園の誕生にあたっては、当時の文部省役人であった町田久成と田中芳男が尽力しています。

大英博物館をモデルとする博物館指向があった町田に対して、田中はパリのジャルダン・デ・プランツを志向した自然史博物館を理想としていましたが、共に欧米列強に追いつくために、官僚として文化の向上を図ろうとしたと思われます。

西洋渡来の水族館の魅力は、早くから注目されていて、1897年(明治30)の第2回水産博覧会水族館(兵庫・和田岬水族館)、1903年(明治36)の第5回内国勧業博覧会水族館(大阪・堺水族館)以降、大きな博覧会には付属の集客施設としての水族館が官主導でつくられていました。和田岬水族館の2年後、1899年(明治32)に株式会社が経営する浅草公園水族館ができ、こちらは大好評を博して昭和初期まで東京名物になりました。

面白くて、ためになる

水族館は博覧会の集客施設の目玉となって、たくさんのお客を入れました。国がやることで、社会教育もしようとしたんですね。まだ社会教育という言葉はなかったのですが、水族館は教育にも研究にも実業にも役立つと。それで、建前のようなものですけれど、これがのちの水族館の表向きの定義のようになったのです。

日本の水族館は、ヨーロッパの水族館にならって、自然史博物館構想の一環としてスタートしたのですが、博覧会の客寄せに成功したことから、繁華街や観光地の興行施設へと、いつの間にか目的が変化していきました。それでも「面白くてためになる」オモタメ主義の看板は続きました。

明治の実業家の太田實(1858〜1918年)も営利を目的とした水族館を創始した一人です。太田が始めた浅草公園水族館(浅草水族館とは別の施設。1899年〈明治32〉)と大阪の日本水族館(1901年〈明治34〉)は、興行経営であるのにもかかわらず、「水族館は教育と研究と調査に役に立つ」とパンフレットに謳い、当時の新聞も「水族館は教育上、必要なものだ」と書きました。水族館は「面白くてためになる」というのが、のちのちまでキャッチフレーズになりました。

第二次世界大戦が終わって、1947年(昭和22)ごろから、再び水族館ができ始めます。そのころできた水族館は大部分が県立、市立なんです。それは水族館が手っ取り早い集客施設と思われて、地域振興のために役に立つと考えられたからなんでしょう。

このときにつくられた公立の水族館が、「面白くてためになる」ということをどのように受け取っていたかというと、研究室をつくるでもなければ、研究する人もいないし、テーマもないし、研究費も出さなかった。水族館には教育施設としての活動が必要だ、といっても、教育のための準備を整えたのはずっとあとのことです。

東海大学海洋科学博物館の科学博物館部門にあるマリンサイエンスホールには、楽しみながら海そのものを理解してもらう展示がある。水族展示だけでなく、総合的に海への興味を喚起する工夫だ。
これは駿河湾の立体模型。駿河湾は日本一深い湾で、富士山を逆さにしたような深い海溝がある(縦横比が一定でない模型のため、実際より高さ・深さが鋭角になっている)。御前崎と伊豆半島の石廊崎を結ぶ湾口の最深部は2500mもあり、 1000mを超える深海底が湾の奥まで入り込んでいる。

「ためになる」のは何か

博物館学の専門家の矢島國雄さんが、「日本は明治になって博物館という施設を西欧から導入することには成功したけれど、博物館を運営する組織については何も考えてこなかった」と書いていますが、私もその通りだと思います。

例えば、大阪に水道記念館という水道局が運営する施設があります。そこには琵琶湖と淀川水系の自然を再現した淡水魚水族館があって、無料入場できていたのです。天然記念物に指定されるイタセンパラや、絶滅危惧種のアユモドキなど希少種もコレクションしているユニークな水族館でした。

ところが最近、市のコスト削減のために水族館は休館になりました。しかし、水族館は単に魚類を飼っている場所ではありません。この出来事は、水族館の機能、意義、目的、それと価値評価が曖昧なまま今まできていることの一例です。

「面白くてためになる」の「面白い」ほうはわかりやすいですね。面白さを追求すると、パフォーマンスに行き着きます。では、「ためになる」ほうはどうでしょうか。解釈がいろいろありますが、当初掲げた「教育と研究と調査に役に立つ」ことなのか、見せ物ではなく知的欲求を満足させるものなのか、水族館自身の答えはまだ出ていないように思います。

  • 海の生物の動きを機械で再現した〈メカニマル〉。

    海の生物の動きを機械で再現した〈メカニマル〉。

  • 自分で操縦できるものもある。

    自分で操縦できるものもある。

  • 過去40年間にわたって採集された深海生物を集めたゾーンが、2010年7月に新設された。

    過去40年間にわたって採集された深海生物を集めたゾーンが、2010年7月に新設された。

  • マリンサイエンスホールに展示されたロープワークの見本。

    マリンサイエンスホールに展示されたロープワークの見本。

  • 海の生物の動きを機械で再現した〈メカニマル〉。
  • 自分で操縦できるものもある。
  • 過去40年間にわたって採集された深海生物を集めたゾーンが、2010年7月に新設された。
  • マリンサイエンスホールに展示されたロープワークの見本。

美ら海の活動

例えば、沖縄美ら海水族館(以下、美ら海と表記)の前・館長の内田詮三さんは、大変頑張って、大きな成果を上げてこられました。ジンベエザメも今ではあちこちにいますからそんなに難しくないように思われてしまいますが、そこに至るまでには大変な苦労があったのです。

朝日新聞に著名人が郷里の名所を書く連載があるんですが、沖縄出身の女優さんが「是非、美ら海水族館に来てください」と書いていました。私はそれを見て感慨深く思いました。名所というと、滝とか神社を挙げる人が多い中、水族館を挙げてくれるなんて。それぐらい、美ら海はすごいんです。

内田さんは、沖縄に来る前に福島の照島の水族館、その前に伊東にあった水族館にいましたが、東京外語大学でインドネシア語を学んだ変わり種です。

内田さんはご自分で「前の二つはあまりうまくいきませんでしたが、美ら海はうまくいったので1勝2敗です」と言っているんですが、私は3戦全勝だろうと申し上げました。そのときは結果として失敗だったかもしれませんが、それをあとにきちんと生かしている。トライ&エラーのエラーが、次の成功に生かされているからです。

美ら海はまた、深海魚を展示するにはどうしたらいいか、ずっと研究しています。東海大学海洋科学博物館(東海大学社会教育センター)がある駿河湾も深海魚の宝庫ですから、なんとかして深海魚を飼いたい、と思って努力してきたのですが、どうしてもうまくいかない。深海魚は非常にデリケートで、水族館に持ってくるまでに死んでしまうのです。

魚は普通、浮き袋で水圧を調整しています。ところが浮き袋のない魚もいます。特に深海魚には、普通の浮き袋が役に立ちません。それで浮き袋の中にガスの代わりにワックスエステルを詰めて全体を軽くしていたりと、いろいろ工夫しています。普通の硬骨魚と違って、軟骨魚類のサメには、もともと浮き袋がありませんが、肝臓に非常に軽いワックススクワランがたくさんあって、それで浮力を調整しているのです。浮力調節をどう克服するか、もう一つ、深海からどう引き上げてくるかが、水族館で深海魚の姿を見られるようになる決め手になるでしょう。

海洋水槽を泳ぐシロワニ(サメ)。

海洋水槽を泳ぐシロワニ(サメ)。

成功は成功の母

東海大学海洋学部は1962年(昭和37)にでき、東海大学海洋科学博物館は、海洋学部の附属施設として1970年(昭和45)に開館しました。

海の生きものの研究が陸の上の研究室でするだけでなく、海の中に自ら潜って研究するというスタイルを含めて、水族館でなければできない研究があるんだ、ということを実践してきました。

イワシを水族館で飼うようになったのも、ここの水族館が最初です。イワシは魚偏に弱いと書くように、大変、死にやすい魚なんです。なぜ飼えるようになったかというと、カツオ漁業の餌のイワシを生簀で飼っていた沼津が近いため、割と狭い生簀の中で泳いでいるイワシが手に入ったからです。

イワシを飼うんだったら大群で飼わないと意味がありません。水槽には5000〜6000匹ぐらい入れています。

イワシというのは網ですくうとダメになってしまうから、バケツですくうんです。ところが最初のころはバタバタ死んで、10日ぐらいの内にいなくなってしまっていました。この時期を過ぎると、何とか生き続けてくれます。そこをどうしたらいいか、それがわかって飼えるようになりました。

水産庁からも見に来て、「イワシが泳いでいるところを初めて見た」と言ってくれました。餌を採るためにカタクチイワシは、大口を開けて泳いでいます。マイワシは鯉のぼりみたいに口を開けます。研究者が半日、熱心にイワシを見ていました。

イワシは決して珍しい魚ではありません。しかし、水族館は珍しい魚ばかりを飼って見せる所ではありません。珍しくないけれど重要な魚がどこの水族館にもいないのは変です。

鹿児島市のかごしま水族館は水槽が大きくないので、ジンベエザメも5mに達したら選手交代させて海に放すようにしています。小さい個体と世代交代させているんです。放したジンベエザメには、超短波の発信器をつけて10日間ぐらい、行動を追います。館長の荻野洸太郎さんの発案です。

今までは広い海域を回遊していると思われていましたが、案外、沿岸近くを行ったり来たりしていることがわかりました。こういうことも研究の成果で、水族館の活動はそこまできています。

ジンベエザメの飼育に初めて成功したのは、美ら海の前身の沖縄国際海洋博覧会水族館です。マグロの飼育に成功したのは、葛西臨海公園水族園が最初です。ジンベエザメもマグロもイワシも、どこかが成功するとその体験を共有し合ってよそでもできるようになってきました。

水族館の場合、失敗は必ず成功に結びつけたい。失敗は成功の母だといいますが、失敗の期間は短いほうがいい。やはり、少なくとも水族館では成功が成功の母なのだと思います。

水族館人生

私が水族館に入った1956年(昭和31)は、水族館はまだ、大学を出た人間が入るところではありませんでした。

たまたま大学を卒業する2年前に江ノ島水族館(1954年〈昭和29〉)ができて、大変な評判になりました。見に行ったら気に入りましてね。運良く入ることができた。それが、私の水族館人生の始まりになりました。

江ノ島水族館初代館長は、雨宮育作でした。1877年(明治10)に来日したアメリカの動物学者エドワード・モース博士(1838〜1925年)の直系の弟子で、「これからの水族館は、研究を第一にしなくてはダメだ」と言っていたのです。その先生が指導してできたのが、江ノ島水族館でした。それまでの水族館には、魚をただ飼っているだけの飼育作業員がいたのですが、雨宮先生は大学出を6人採用して、水族館に研究機能をもたせようとされました。外国の論文の輪読をしたりしたのも、当時としては画期的なことでした。

私は江ノ島水族館に8年間いて、その後、金沢水族館の立ち上げにかかわりました。

ちょうど、「とる漁業からつくる漁業」と栽培漁業が国策になって、東京大学の佐伯有常先生たちが「砂濾過装置が水産養殖の発展に役立つだろう」と研究をしていました。砂濾過装置は、単に水を濾してきれいにしているだけでなく、バクテリアの働きを利用した生化学作用などがあると突き止められたのです。

私は金沢の水族館に、この理論を取り入れて濾過装置をつくりました。金沢の水族館は山の上につくられたので、海の魚の水族館を山の上につくるのは、非常に難しいことだと思えたのでしょう。私は全然心配していませんでしたが、「大丈夫か」とずいぶん危惧されたのを思い出します。結局、その濾過装置は、金沢水族館が閉館するまで36年もちました。

そんなことをしているうちに、水族館が一生の仕事になってしまいました。

16本の鋼鉄の柱で支えられた全面ガラス張りの大水槽、東海大学海洋科学博物館の〈海洋水槽〉。

16本の鋼鉄の柱で支えられた全面ガラス張りの大水槽、東海大学海洋科学博物館の〈海洋水槽〉。見る方向によって「サンゴ礁の海」、「海藻の海」、「砂底の海」、「岩礁の海」の4つの海中景観に分けられている。展示されている魚類は、それぞれ表層・中層・底層に分かれて活動する。

これからの水族館

陸から眺める海は、海そのものではありません。私たちは普段、海を見ていると思いながら、大気と水の両世界を隔てる海面を見てきたのです。そう気づけば、水族館の巨大なガラスで囲まれた水槽は、陸に立って水の世界を横から眺められる唯一の場所だといえるかもしれません。だからたぶん、私たちは水族館に惹かれるのでしょう。

水族館で見るのは疑似体験の海です。水族館は、自然を消費して成り立っています。水族館で自然保護教育をするのは結構難しいことですし、豊穣の海、楽観に満ちた海を思わせる水族館で、海の危機と衰退を見せ、それを防ぐ決意や方法を語りかけるのはなかなかハードルが高い役割です。

そのハードルを越えるには、水の世界はあくまでも清らかであってほしいという、古来から日本人に受け継がれてきた漠然とした水の世界への憧れが、役立つかもしれません。

水族館は、そもそも日本人にとっては異文化でした。それが明治の文明開化期に西欧から輸入されて以来、約130年経ちました。世界最初の水族館は、イギリス・ロンドンに1853年(嘉永6)にできました。日本最初の水族館は、1882年(明治15)にできています。今思えば、29年しか違わないのです。日本の水族館は日本に根づいて、そろそろ独自の文化を醸成してもいいのではないでしょうか。

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日本の水族館

日本の水族館



(取材:2013年3月29日)

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