水中という非日常世界、水の圧倒的な存在感による潤いや清涼感、その内に立体的に泳ぎ浮かぶ命の姿、といった価値をすべてまとめて表現するために、中村元さんは、水塊(すいかい)という海洋構造の区分を表わす用語に、新たな生命を吹き込みました。 水族館プロデューサーとして、海から水塊を切り取ることで、人々の心を癒し、水中世界を見たいという欲求を満足させる水族館づくりを進めています。
水族館プロデューサー
中村 元(なかむら はじめ)さん
1956年、海のないまち嬉野町(現・三重県松阪市)に生まれる。1980年、成城大学(マーケティング専攻)卒業後、(株)鳥羽水族館入社。新鳥羽水族館プロジェクトの責任者を経て副館長。2002年独立して水族館プロデューサーに。新江ノ島水族館、サンシャイン水族館、おんねゆ北の大地の水族館(山の水族館)など、人気水族館の展示を次々とプロデュースし成功に導く。現在は北海道から九州まで複数の水族館の建設とリニューアルにかかわる。東京コミュニケーションアート専門学校教育顧問、NPO法人日本バリアフリー観光推進機構理事長、NPO法人伊勢志摩バリアフリーツアーセンター理事長、財団法人地球市民財団評議員などを務める。
主な著書に、『水族館のはなし』(技報堂出版 1992)、『水族館へいこうよ』(講談社 1994)、『恋に導かれた観光再生 〜奇跡のバリアフリー観光誕生の秘密〜』(長崎出版2006)『中村元の全国水族館ガイド115』(長崎出版 2012)ほか
日本人は水族館に行って魚を見ると、思わず「おいしそう」と言います。日本人が世界の諸外国と比べて水族館好きなのは、魚を食べる文化があったからではないでしょうか。
日本人は活きの良い魚が好きでしたから、生かしておく技術を育んできました。海があって、魚好きな国民性が育てた「魚を生きたまま捕まえて生かしておく」という技術は、水族館をつくるのに大いに役立ちました。
日本の海岸線の長さは世界屈指。全国に漁港があって、海のない内陸部、例えば琵琶湖や川にも漁港や漁業権があります。ですから魚が手に入りやすく、水族館をつくりやすいという条件がそろっていたのです。
そもそも、日本では水産学といいます。魚類学ではないのです。食べる魚に興味があって、研究の対象は水産資源だったのです。水族館の黎明期には、大学の研究施設と一緒になっていたところが多いことも、日本の水族館の性格に影響を与えています。
全国の動物園と水族館の入場者数は、2500万〜3000万人ぐらいで、ほぼ同じです。しかし数では一緒でも内容は違っていて、動物園は子どもと大人の比率が5対5ですが、人気のある水族館は2対8ぐらいになっています。ところによっては大人が9割に達するところもあります。
ところが多くの水族館では展示内容を子ども向けにしていて、解説にしても子どもじみた表現になっているのです。これでは大人の入場者にとって、満足できないものになるでしょう。ましてや少子化が進む中では、子どもよりも大人の入場者を増やすことを考えないと、水族館の人々に広く展示物を見せるという社会的役割を果たすことはできず、もちろん経営も成り立ちません。
そもそも、小さな子どもは絵本に出てくる動物を見たがるので、水族館よりも動物園に行きたがるものなのです。
以前、水族館で子ども向けアンケートを取って見たい生きものを聞いたところ、ペンギン、カメ、サメが圧倒的多数でした。ペンギンとカメは立ち姿で描けますから、絵本に登場させやすいのです。絵本に登場しない魚にはあまり興味がないようで、ほとんど名前が上がりませんでした。今の子どもたちであれば、アニメ映画の主人公になったカクレクマノミのキャラクター名が一番に出てくるでしょう。それほどに、子どもたちは絵本の影響がとても強いのです。つまり、子どもを相手に生きものを見せるだけだったら、水族館の生きものは、動物園のゾウとかクマとかキリンに負けてしまうでしょう。
一方大人は、子どものように特定の生きものを求めて、水族館に来るわけではありません。大人が惹かれるのは、海の広さや水中感を感じることなのです。現代社会は心も身体も渇きやすいですから、水族館に潤いを求めているのだと思うのです。
日本ではバブル景気のときに、水族館の水槽が大型化しました。水槽が大きくなってみて、大人たちが初めて水中の面白さに気づいたのです。
私はその魅力を〈水塊〉と呼んでいるのですが、今、水族館に来る人たちは水を見に来ている、水中世界という非日常空間を体感することで、潤いを得て癒されるのだと分析しています。
現代人の求める非日常を得るのに、水族館ほど手軽な施設はないのです。水族館で得られるほどの非日常を体験しようと思ったら、水中に潜らなくてはなりません。単に泳ぐだけでは非日常ではないでしょう。
このように、かつては「魚が好き」で人気があった水族館に、水塊の面白さが求められるようになって、日本の水族館は草創期を脱して次の段階の時代に入ったと思います。
沖縄美ら海水族館(以下、美ら海と表記)の〈黒潮の海〉水槽は、ジンベエザメがいるので「大きな魚がいるから人気が出た」と勘違いしがちですが、ジンベエザメは水塊の大きさを感じさせるためのアイテム演出に過ぎません。
海には陸上とは違う浮遊感があるのです。鳥は飛んでいないと落ちてしまいますから、一生懸命飛んでいるため浮遊感が感じられない。水中ならではの浮遊感に人は癒されるんだろうな、と思います。
また、空に雲が一筋かかっているだけで奥行きが出るのと一緒で、海の広さは生きものがいることで実感されます。
浮遊感だけではなく、水に射し込む光や渦、波が生み出す揺らめきも水を感じさせます。自分の足下にそういう仕掛けがあると、水を感じることができるのです。
私がつくっているのはそういう仕掛けで、水族館が第二段階に到達しているからこそ、求められるものだと思います。
『中村元の全国水族館ガイド115』(長崎出版 2012)は、水塊というキーワードにこだわっています。項目ごとに星で評価しているんですが、その項目に〈水塊度〉を入れました。これが高いほど、人が来る水族館になります。
最新版の表紙に使った写真は、私が展示プロデュースをしたサンシャイン水族館の水槽なのですが、奥行きが10mほどの小さい水槽なのに、まるで海のように見えます。水槽だけに照明を当てると周囲が見えなくなるので、端が見えなくなるような照明設計にすれば、美ら海みたいに大きな水槽でなくても、どれだけでも広く感じさせることができるのが水族館の強みなのです。
アメリカの水族館には以前から、擬岩づくりとか見せ方を専門に開発するキュレイターがいました。キュレイターは「学芸員」と訳されますが、日本の学芸員とはどうも別物です。特にアメリカには、見せて興味を持たせることで社会に役立てる、という理念が強くあります。私もそれに触発されてきました。
日本の学芸員は魚のことはよく知っていますが、見せ方つまり展示には関心がない人が多い。それは、日本の博物館の歴史が官が国民を教育するという考え方から始まっているからなのでしょう。水族館を子どもの教育のための施設だと思いこんでいるのも、おそらくそのためですね。
一神教の文化の人々にとって海は悪魔の棲む場所であって魔物がいるとしか考えられない。しかし、日本人は海の中には神様もいる、と感じています。
新江ノ島水族館の監修で〈ニッポンの水族館〉というコンセプトを掲げたのは、日本人の海に対する感覚は海外とは違うんだ、ということを表わす水族館にしよう、と考えたからです。妖怪や神様を見せる水族館にしたかったのです。だから水槽に影をつくったり、コンブをたくさん生やしたりして、何かが潜んでいると感じさせるような演出になっています。
日本人が感じる「海への畏れ」というのは、恐ろしさと感謝の二つがある。人知を越えたものという意味ですね。
海への感謝は大きい。しかし、東日本大震災にみるように、海はたくさんの命も奪ってきました。スサノオのように、日本の神様は良いこともするけれど暴れることもある。正義と悪が別々ではなく1柱の神様の中に存在しているのです。それが海であり川なのです。
そんな神に対して人々は何をしてきたかというと、「お鎮まりください」と祈ること、そしてそれを規範に自らの生き方をただすこと。悪いことをしたら妖怪や神様が出てきて、懲らしめられる。そういうお客さまの深層心理に響くことを表現すると、水塊度はさらに深まります。
実は、水塊という言葉は海水温、塩分、溶存酸素、栄養塩類などが一様な海水の塊のことを指す、専門的な科学用語です。しかし、水中世界の精神性まで表現する言葉として、私の頭の中に浮かんだ「水塊」という言葉は科学用語とは別の意味を持っています。水族館における水塊は、私が独自に定義した造語なのですが、今では水族館好きのみなさんには普通に使っていただけるようになりました。
今までの水族館の計画というのは、非常に視野の狭い考え方が踏襲されてきたと感じています。
例えば、一般的な水族館でコンセプトというと、具体的な展示テーマのことを指しがちです。しかし、私が考えるコンセプトは、水族館を魔法の場所にするための統括的な概念です。例えば、サンシャイン水族館では「大人のための都会のオアシス」、〈おんねゆ北の大地の水族館(山の水族館)〉では「北の大地に力強く生きる命と温泉の魅力を伝える」といった具合。具体的な展示テーマも手法も、そのような何を目的とした施設なのかを明確にしなければ決められないはずです。
また、「展示物とは情報である」という概念はよく知られた博物学的理念なのですが、情報を伝えるにしても、水族館だからといって魚の生態や環境の情報ばかりを伝えようとするから水族館の存在意味が小さくなってしまう。水中にはもっと多様で面白い情報があふれるほどあるのに気づかないのですね。
そういう意味で琵琶湖博物館にはコンセプトがあって良いと思います。琵琶湖と人との関連性を伝えようとしているから、展示に、人や生活とのかかわりを感じさせる工夫があります。こういう情報なら、大人の知的好奇心も満足させられます。大人になっても、学ぶことの楽しさを味わえることが、まさに生涯学習です。
私は、まちづくり活動が道楽で、伊勢志摩では観光のバリアフリー化によって集客するとともにノーマライゼーション社会を先進的につくるということに成功し、現在では全国規模で社会を変えようとしています。
この社会を変えていこうという活動で得た経験が、水族館をプロデュースするのに役に立ちます。
最近プロデュースした北海道の〈おんねゆ北の大地の水族館(山の水族館)〉(北海道北見市留辺蘂町温根湯(るべしべちょうおんねゆ)。以下、山の水族館と表記)は、リニューアル前には水族館の集客だけでなく温泉街が見る影もなく落ち込んでいました。それで、水族館をきっかけにして、温泉街の再生ができたら面白いと思ってボランティアで取り組みました。
真冬に、ここの温泉の露天風呂に入ったら髪の毛が凍った。それで露天風呂に入って髪の毛が凍る経験ができる寒さが自慢の温泉なんだということを水族館から発信したら、と思いつきました。そこで発明したのが、冬になると川が結氷して、その下で生き抜く魚たちを観察できる水槽です。そういう水槽は誰もが観たいし、北海道の寒さの情報が満載ですよね。
ここで飼育されていた熱帯魚は温泉水で育てられることで、他の水族館よりも大きく傷もなく育っていました。それでこれを温泉の効能に繋げて展示しようと考えて、魚を育てている温泉を〈魔法の温泉水〉と名付けて美肌の湯をアピールできるようにしました。
展示している魚はサケの仲間が主体。淡水魚だけの地味な水族館です。しかも川は浅いですから、人々が水塊なんてないものだと思っている。それで水のダイナミズムを感じさせるように、深い滝壺や速い水の流れを表現する水槽を開発して、淡水水族館では初の水塊展示を実現しました。
お蔭さまで、水族館を核とした新しいまちづくりが始まっています。最初は心配だったのですが、それまで年間2万人程度だった入場者が30万人に達しそうなまでになってホッとしています。
私の水族館プロデューサーという仕事の要は、マーケティングでありプロモーションです。集客のターゲットをきちんと定めて、見に来た人の琴線に触れるようにプロモートするのが仕事です。水族館を面白くするのは、人々に好奇心をわかせることを考えつく人間がいるかどうかなんです。
サンシャイン水族館の展示プロデューサーを引き受けて最初に考えたキャッチコピーは「天空のオアシス」です。それまでは子どもの水族館だったのですが「サンシャイン水族館は、天空のオアシスに生まれ変わりました」と、大人をターゲットにして発信しました。
サンシャイン水族館のように小さい所は苦労もあるけれど、工夫してハードルを乗り越えることが、かえって良い結果に結びついたりします。屋上で利用しづらい空間を天空のアシカ水槽にしたことも、そうした成果の一つです。ここでの経験が、山の水族館に結びついています。
エレイン・モーガンという人が書いた本で有名になった、人類水中進化説(アクア説)(注)というのをご存知ですか。
森を追われて草原に出て、やがて二足歩行になったというのが草原進化説です。一方、森を追われて海まで行ってしまった、と考えるのがアクア説。類人猿がヒトに進化したミッシングリンクの時代、餌が豊富で敵の少ない海で進化したという説です。
人間の鼻は高いですよね。これは水中に入ったときに水を分けるようにできている。こういう形の鼻は海獣以外にはいません。体中の毛がない、というのはイルカと一緒。直立するのはペンギンと一緒です。このような身体の特徴を持っているのは、人間だけです。
ヒトが直立なのも、毛がないのも、しゃべるのも、汗をかくのも、アクア説によればすべて説明がつきます。
よく、人が水中が好きなのは、先祖が魚だった時の記憶が残っているからだなどと言われますが、何億年も前に魚だったころのDNAが、私たちに水への愛着を感じさせるとは思えません。水中進化説を信じて、アクア人だったころの記憶が水への愛着を沸き立たせると考えれば、しっくりします。そう考えて水族館をつくっていると、自然にみなさんが喜んでくれるアイデアが生まれてくるんです。
水族館は、楽しさだけではなく潤いとか癒しも与えてくれる魔法の場所。元気が出てリフレッシュできる可能性を、いっぱい秘めているのです。
(注)水中進化説
この仮説の論拠は、霊長類においてはヒトにのみ見られる直立歩行、薄い体毛、皮下脂肪、意識的に呼吸をコントロールする能力などの特徴が水棲動物の特徴と一致することにある。アリスター・ハーディといった海洋生物学者や解剖学者に支持されるが、古人類学からは黙殺されているのが現状。脚本家であるエレイン・モーガンの著作で知られるようになった。
(取材:2013年3月6日)