機関誌『水の文化』45号
雪の恵み

水神様を祀るかまくら

武家屋敷の通りに建つかまくら。内側から外を見る。分厚い壁に覆われて、内部は寒さを遮り、不思議な静寂がもたらされた空間だ。

武家屋敷の通りに建つかまくら。内側から外を見る。分厚い壁に覆われて、内部は寒さを遮り、不思議な静寂がもたらされた空間だ。

14万〜17万人もの人が訪れる横手のかまくら祭は、「なければ生きていかれないのにあって当たり前だと思っているもの」に感謝する日でもあると、照井吉仁さん。さまざまな時代の洗礼を受けながらも、雪を楽しむ気持ちとおもてなしの心を持ちながらかまくらをつくり続ける想いをうかがいます。

照井 吉仁さん

横手市観光協会 かまくら委員会委員長
照井 吉仁(てるい よしひと)さん

1964年横手市生まれ。18歳のとき、横手公園を会場として活動する民間団体〈かまくら村実行委員会〉に参加。自分たちの手でかまくらをつくり、自分たちでおもてなしをすることにこだわり、現在も活動中。2010年「横手のかまくら」を運営する〈横手市観光協会 かまくら委員会〉委員に就任。2012年より、現職。

かまくら三つのルーツ

横手のかまくらの歴史は400年といわれているのですが、はっきりしていません。

さまざまな文献に残っている断片をつなぎ合わせると、どこかの神様をお祀りした神事ではなく、複数の行事が下敷きになっていることがわかっています。

元になった行事は三つあります。

まずは、農村の行事として鳥追いがあります。当時は鳥は農作物を荒らす害鳥でしたから、横手に限らず全国の農村にあった行事です。

鳥追いは子どもの祭りで、歌を歌いながら家を一軒一軒回って行くのだそうです。この行事は今は行なわれていませんが、1936年(昭和11)生まれの母が子どものころはまだやっていたといいます。私は母から鳥追いの歌を教えてもらいました。

それぞれの家では、おひねりの中に小さく切った餅やお菓子を入れてくれたそうで、子どもたちが鳥追いをしている間にお父さんたちが大きなかまくらをつくっておき、帰ってきた子どもたちは、中で炭を熾(お)こして餅を焼いたりしたのです。

いわば、鳥追いの打ち上げです。この日ばかりはいくら夜更かしをしても怒られないし、さぞかし楽しい行事だったことでしょう。

侍の町、内町(うちまち)にも、かまくらのルーツがあります。正月の14日になると屋根のない土蔵のようなものを雪でつくって、前に注連(しめ)飾りをして、空になった米俵を据え、お神酒(みき)を上げて子どもの成長を祈りました。あとから米俵に火をつけて燃やす火祭り、左義長(さぎちょう)(注1)です。

かまくらに鎌倉という字を当てるのも、左義長のときには鎌倉大明神を祀るから、と思われます。鎌倉大明神というは、後三年(ごさんねん)の役(えき)(注2)に活躍した鎌倉権五郎景政(ごんごろうかげまさ)(注3)のこと。景政は関東から戦の応援に来ていた人なのですが、武士の気概にあふれた人物として祀られたのでしょう。昔の絵図には、左義長のときに鎌倉大明神の幟(のぼり)を立てていた様子が描かれています。

かまくらのもう一つのルーツは、商人の町、外町(そとまち)の行事です。横手というのは、今からは考えられませんが、水が得にくい土地でした。毎日の水汲みも、相当遠くから集まったようです。それだけ井戸の数も少なかったのです。年を取ると水汲みも難儀ですから、〈水汲み若勢(わかぜ)〉といって、水汲み作業員がいたといいます。

1月15日には井戸にきれいな幕を張って、水の神様に感謝したそうです。現在、かまくらの中に水神様を祀るのは、井戸に感謝した行事の名残です。

(注1)左義長
小正月に行なわれる火祭り。年末に出迎えた歳神を、依り代となった門松や注連飾りを焼くことによって炎とともに見送る意味があるとされる。
(注2)後三年の役
11世紀の東北地方で起こった前九年の役と呼ばれる豪族による勢力争いで、陸奥国司と対立した安倍氏は、12年間の戦いの末に1062年(康平5)に滅ぶ。のちに親族内での内紛が後三年の役に発展。安倍氏の血を引く清衡が勝ち残って奥州藤原氏を興し、三代にわたる栄華の基礎を築いた。
(注3)鎌倉権五郎景政
平安時代後期の武将。父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。16歳のころ、後三年の役(1083〜1087年)に従軍し、右目を射られながらも奮闘した逸話が『奥州後三年記』に残されている。右目に矢が刺さったまま敵を討ち取り自陣に帰った景政に対し、仲間の三浦平太郎為次が駈け寄り、矢を抜こうと景政の顔に足をかけたところ、怒った景政は「武士であれば矢が刺さり死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」と言ったという。

  • 横手市内は市民によってかまくらで埋め尽くされる。

  • 大きさがマチマチなのは、使うバケツの違いによる。

  • 武家屋敷で雪に埋もれた民家を発見。実はこれが通常の姿。雪まつりのときは、必死で雪かきをして来客を出迎えるのだ。

    武家屋敷で雪に埋もれた民家を発見。実はこれが通常の姿。雪まつりのときは、必死で雪かきをして来客を出迎えるのだ。

  • 武家屋敷で雪に埋もれた民家を発見。実はこれが通常の姿。雪まつりのときは、必死で雪かきをして来客を出迎えるのだ。

時代の流れで姿を変えるかまくら

この三つの行事は、時代の流れの中で行き場を失っていきました。

都市化が進むと火を燃やすことがはばかられる、上水道がきましたから水はあって当たり前、害を及ぼすほど鳥に悩むこともなくなる、そういう中で、徐々に姿を消していったのです。それで、かまくらの中にひっそりと、水の神様を祀る風習だけが残っていきました。

ちなみに、かまくらというのは雪室だけを指すのではなく、行事全体を指しています。

現在の横手のかまくらは、高さ3m、直径3.5mほどの室で、中に水の神様をお祀りしています。子どもたちだけでなく、大人もお酒を飲んだりします。狭いのですが、初対面でも普通に話ができる不思議な空間です。

私は1964年(昭和39)生まれ。30年ほどかまくらにかかわってきました。かまくらを愛する気持ちは、誰にも負けないと自負するかまくら馬鹿です。

私が見てきた30年でも、かまくらの形は変わってきています。昔はもっと大きかったのですが、しょせん材料は雪ですから、崩れて事故があると困る、ということで今の大きさに落ち着いてきました。いったん雪を室の形に積み上げて固め、一晩置いて雪を締めてからくり抜いていきます。こうすることで崩れたりしない丈夫な室に仕上げるのです。

想像した以上に切り立ったイメージですね、と言われることがありますが、幅を取らないようにスリムになっているのです。自動車の通行を妨げないように、という現代的な理由です。あまりにも垂直で風情がないということで、ここ数年は裾を少しつけた形に変化しています。

横手のおもてなし

かまくらには甘酒がつきもの。横手では甘酒を甘えっこと呼ぶのですが、「甘えっこ、飲んでたんせ」と言って、お客様をもてなすのも子どもたちの楽しみです。

こういう言葉は、おばあちゃんとかお母さんが、お客様に使う丁寧な言葉なのです。子どもたちは、日頃そういう言葉を聞きながら、自分でも使ってみたいな、と思っているのでしょうね。

ちょっと大人になった気持ちで、一家の主になったような気分で、「上がってたんせ」「神様、拝んでたんせ」と言うのだと思います。私が想像するに、この日だけは、子どもたちが大人になれる特別な日なのです。

外から人が来てくれることによって、横手の人間は励まされるんですね。それで、みんな「自分のできることで参加したい」と言っています。昔語りをやったり、シャトルバスの中でかまくらの説明をしたり。言われてやるのではなく、「これぐらいだったら自分にもできるから」と手を上げた人たちがやってくれています。首から「道案内」「シャッターを押します」という札を下げた人もいます。

馬喰(ばくろう)町のそばの不動産屋さんがつくられる雪のディスプレイが注目を集めていますが、豪快な女性社長さんがやっておられ、毎年バージョンアップしているのです。「とにかくみんなに元気になってほしい」と言って、お金もかかるのに全部自腹で続けられています。

もともと、人をもてなすことが大好きな土地柄なのです。隣の人が寄るだけでも、自慢のがっこ(漬物)でテーブルの上がいっぱいになります。道を教えても「ちゃんと間違えないで行ったかな」とあとをつけて行くぐらいに、親切な人ばかりです。

かまくらがほかのお祭りと違うのは、観光のお客さんも参加できるところにあるのではないでしょうか。普通は地元の人間だけが楽しんでいて、観光客は見ているだけですが、かまくら祭は観光で来た人にも楽しんでもらえる行事です。それでリピーターが多いのだと思います。

基本的に夜が本番なので、昼は空いています。それで、夕方4時までの空いている時間に、先にかまくらに入って楽しんでもらう〈かまくら先取り体験〉をしたところ、好評をいただいています。


  • 一番のメインストリートでは、歩道にかまくらがつくられる。

    一番のメインストリートでは、歩道にかまくらがつくられる。夜までの時間、かまくらを借りる〈かまくら先取り体験〉も申し込める。

  • 横手南小学校校庭には生徒がつくったミニかまくらが。

    横手南小学校校庭には生徒がつくったミニかまくらが。

  • 明かりが灯されると、とても美しい。

    明かりが灯されると、とても美しい。

  • この日は交番もかまくら。

    この日は交番もかまくら。

  • テレビの取材クルーにも「上がってたんせ」と子どもたちから声がかかる。

    テレビの取材クルーにも「上がってたんせ」と子どもたちから声がかかる。

  • 大通りに面した不動産屋さんが15年ほど前から始めた光のかまくら。年々規模が大きくなり、今年はろうそくが1108本。雪が融けないようにろうそくの下に敷く大根の薄切りを置くだけで、2時間かかったという。誰からともなく点火を手伝い出した。

  • 全社挙げてのイベント準備だが、「みんなの笑顔が見たい」と続ける南部亮子さん(右端)の志に、一致団結して取り組んでいる。

    全社挙げてのイベント準備だが、「みんなの笑顔が見たい」と続ける南部亮子さん(右端)の志に、一致団結して取り組んでいる。

  • 一番のメインストリートでは、歩道にかまくらがつくられる。
  • 横手南小学校校庭には生徒がつくったミニかまくらが。
  • 明かりが灯されると、とても美しい。
  • この日は交番もかまくら。
  • テレビの取材クルーにも「上がってたんせ」と子どもたちから声がかかる。
  • 全社挙げてのイベント準備だが、「みんなの笑顔が見たい」と続ける南部亮子さん(右端)の志に、一致団結して取り組んでいる。

美の再発見

とにかくたくさん雪が降りますから、川に捨てるにしても、途中で溜まらないように川の真ん中まで雪がいくように、樋を渡しているほどなのです。

昔はさぞかし大変だったと思いますが、それが当たり前で生きてきました。私の小さいころは、藁でできた米俵の中に藁草履を固定した〈踏み俵〉と呼ばれるもので、踏み固めながら道をつくったものです。

しかし、雪のない地方から来た人にとっては、この雪の多さが堪えられない魅力のようですね。今年のかまくら祭でも、途中からすごく雪が降ってきて、我々は「参ったなあ」と思ったのですが、雪が降らない地方から来た人たちは感動して、雪まみれになってずっと降る雪を見上げておられました。

桂離宮を絶賛したドイツ人建築家、ブルーノ・タウト(注4)は横手を来訪し、かまくらを見て「私はいまだかつて、これほど美しいものを見たことがない」と言ったそうです。ブルーノ・タウトが横手のかまくらを訪れたのは1936年(昭和11)。このときの様子を、著書『日本美の再発見』の中で紹介しています。

ブルーノ・タウトがかまくらを評価したのは、たんなる造形としてではなく、そこで暮らしている人の姿があってのことだと思います。

ただの雪だけでも美しいのに、その雪で室をつくって中に招き入れる。そのおもてなしが人の心を動かす力というか、何らかのポテンシャルを持っているのではないかと思います。

(注4)ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut 1880〜1938年)
ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。ブリッツのジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受け、現・ベルリン工科大学の教授に就任。ナチスが政権を掌握したドイツで、ソ連での活動が問題視され、職と地位を追われる。日本インターナショナル建築会からの招待を機に日本を訪れ、祖国ドイツに家族を残したまま、1933年5月に亡命した。桂離宮を評価し世界に広めたことでも知られる。仙台の商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の一つ)に着任。のちに井上房一郎の招きにより高崎に移り、群馬県工業試験場高崎分場に着任し、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かした家具や工芸品をデザインし、日本のデザイン産業の近代化に大いなる貢献をした。1936年トルコのイスタンブール芸術アカデミーからの招請に応え、移住。

  • 雪道を踏み固めるのに使われた踏み俵。中に履きものを固定するための藁縄がつけられている。

    雪道を踏み固めるのに使われた踏み俵。中に履きものを固定するための藁縄がつけられている。

  • 個人の敷地内に建つかまくら(写真上)に上がらせていただき、一献。水神様にお賽銭を上げるのが、ならわしだ。

    個人の敷地内に建つかまくら(写真上)に上がらせていただき、一献。水神様にお賽銭を上げるのが、ならわしだ。

  • 雪道を踏み固めるのに使われた踏み俵。中に履きものを固定するための藁縄がつけられている。
  • 個人の敷地内に建つかまくら(写真上)に上がらせていただき、一献。水神様にお賽銭を上げるのが、ならわしだ。

かまくら復活とかまくら職人

基本的には町会ごとや地域でつくっていたのですが、通行の邪魔になるということで、一時期規制がかかったときがありました。それ以降、つくる人が減ってしまって、技術が廃れそうになったのです。それでかまくら職人という役職をつくって、観光協会で募集するようになりました。今年も20人が任命されています。かまくら祭に向けて、3週間ぐらいの間に、20人で100基のかまくらをつくるんですよ。

日本全国にかまくらを出前する〈横手出前かまくら〉も請け負っています。韓国・ソウルにも行ってきました。私自身もこの間は兵庫・加古川に行きました。ここでは雪は降りませんが、山間には雪があるということで、横手からわざわざ運ばないで近隣の山から運んでかまくらをつくりましたが、雪のない所には横手から雪を持っていきます。

交通の邪魔になるから、といったん廃れそうになったのが、観光の価値が高くなることで復活したわけですが、今は子どもも減っていますから観光化しなかったらなくなっていたかもしれない、と思っています。ですから観光化は悪いことではありません。横手市観光物産課の統計では、観光客数はここ5年間、14万〜17万人で推移、冬の観光の目玉に成長しました。

ただ、地元の行事の部分も大切に守っていきたいと思います。小学生が校庭につくるミニかまくらや、二葉町かまくら通りや武家屋敷の通りで、地元の子ども会がおもてなしするかまくらなども、大事にしていきたいですね。

  • 大きくは7カ所に分かれた会場で、それぞれに特色あるかまくらがつくられている。武家屋敷の通りには、ルーツとなった左義長に因んで松明(たいまつ)が灯されていた。

    大きくは7カ所に分かれた会場で、それぞれに特色あるかまくらがつくられている。武家屋敷の通りには、ルーツとなった左義長に因んで松明(たいまつ)が灯されていた。

  • かまくら祭の翌日に行なわれる梵天(ぼんでん)。

    かまくら祭の翌日に行なわれる梵天(ぼんでん)。梵天は頭飾りの豪華さを競いながら、旭岡山神社へ先陣を競って勇壮に奉納する小正月行事。約280年の歴史があるといわれている。1845年(弘化2)全町挙げての巻狩りが行なわれ、旭岡山神社に無事終了の報告と無火災祈願をして解散したことがルーツといわれる。巻狩りに参加した火消し、火防組のまといの形が、今に受け継がれているとされる。かまくら祭とは関係ないが、雪祭りの一つで、城下町 横手の成り立ちを物語る行事だ。

  • 大きくは7カ所に分かれた会場で、それぞれに特色あるかまくらがつくられている。武家屋敷の通りには、ルーツとなった左義長に因んで松明(たいまつ)が灯されていた。
  • かまくら祭の翌日に行なわれる梵天(ぼんでん)。

感謝する日としても

時代の変化で、こういう行事がなくなってしまうことは、全国的な傾向。それなのに、なぜ横手では残ったのでしょうか。

かまくらで遊んで楽しい思いを経験した世代が、「自分の子どもや孫にも味わわせてやりたい」と身体を動かしたことが一番ではないでしょうか。

そうしてつくられたかまくらを、他所から来た人たちが「美しい」と評価してくれた。そのことで横手の人間が誇りを持ち、おもてなしの気持ちがいっそう大きくなる、という良い相互作用が働いたのだと思います。だからこそ、観光として外からかかる力と、地元の祭りとしての楽しさというものが、うまくバランスしていくことが大切だと思います。

今の時代、蛇口をひねれば水が出ます。治水工事によって川の氾濫も抑えられるようになりました。私も考えたことがあるのですが、そこで敢えて水の神様を祀る意味は、どこにあるのでしょうか。

人間は水がなければ生きていけません。年に1回ぐらいは、「なければ生きていかれないのに、あって当たり前だと思っているもの」に感謝する日、というのがあってもいいのかな、というのが私の想いです。

かまくら祭は雪祭りとして楽しまれていますが、かまくらの中に祀られた水神様を見たときに、そんなことにも気づいていただけたらうれしく思います。

(取材:2013年2月15日)

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