日本人にとって傘とはいったいどのような存在だったのだろうか。絵巻物や浮世絵を見てもわかるように、雨の多い日本では、笠(かぶり笠)や傘(さし傘)は人々にとって古くから身近なものだった。歌舞伎などの芸能や祭礼では、今も和傘が使われている。民俗学者の神崎宣武さんに、日本人の雨に対する感性と、歴史から見た傘の存在について語っていただいた。
民俗学者
旅の文化研究所 所長
神崎 宣武さん かんざき のりたけ
1944年(昭和19)岡山県生まれ。民俗学者・宮本常一の薫陶を受け、武蔵野美術大学在学中より国内外の民俗調査・研究に従事。日本民俗学会会員、文化庁文化審議会専門委員なども務める。岡山県宇佐八幡神社の宮司でもある。『大和屋物語―大阪ミナミの花街民俗史』(岩波書店 2015)、『しきたりの日本文化』『江戸に学ぶ「おとな」の粋』(ともに角川学芸出版 2008)、『「まつり」の食文化』(角川学芸出版 2005)、『江戸の旅文化』(岩波書店 2004)など著書多数。
日本は雨の国です。日本と同緯度圏内に北半球の先進都市がほとんど入りますが、なかでも日本は圧倒的に降水量が多い。東京の年平均降水量は約1500mmに及びますが、これだけのアベレージをもつ都市はほかにありません。
開発が進んでも日本の山に緑が多いのは、熱帯雨林と同じように雨が緑を育てているからです。私は海外へ行くたびに、現地の子どもたちに山の絵を描いてもらうのですが、ヨーロッパだと鋭角的で険しい岩山、中国では枯山水の水墨画に近い禿山を描きます。対して日本の子どもたちは、なだらかな円錐形の山を描いて緑に塗るわけです。
日本人にとって、山とは緑が生い茂っているもの。その樹木は雨が育てています。しかも、北海道・東北地方以外は年間を通じて比較的温暖な気候ゆえ植物が繁茂しやすい。例えば、乾燥地帯からの留学生が、春先や初夏にコンクリートの割れ目から雑草が生えているのを見て驚いています。こうした風景は日本ならではのもの。雨が豊かな植生をもたらしているのです。
1000m級の山頂まで樹木が生い茂っているということは保水量も多いわけです。そうした水が100kmほどで海へ流れます。きわめて急峻な山地と水流。六十数%残っている山林が、海も育てています。「森は海の恋人」というのは、気仙沼で牡蠣を養殖する畠山重篤さんたちがよく使われるキャッチフレーズですが、こうした言葉が生まれるのも雨が豊富な国ならではのことです。
雨が多い風土に生まれ育った日本人は、ことさら雨を敵にしません。かといって雨を特別な恩恵ともしない。常に一定量の雨が降るのは、長い歴史を通じて当たり前のことだと無意識のうちに認識しています。昔から今に至るまで、雨を唄った流行歌が絶えないのも、日本人が雨とよくなじんでいる証の一つでしょう。
これだけ雨がよく降れば、雨そのものには慣れるしかありません。すると、むしろ雨が上がった後の対処に特徴が出ます。日本人ほど、布団をよく干したがる人たちは珍しい。
まるで強迫観念かのように、雨上がりの晴れ間に布団を干します。集合住宅のベランダにずらっと布団が並ぶ光景は、世界の都市に類例がありません。布団は、ある意味下着と同じですから、それを何の抵抗もなく人前にさらすのは、これまた留学生たちが日本に来て最初に驚くことの一つです。
考えてみれば、晴れて布団を干す必要があるのは、湿度の高い梅雨時くらいのもの。布団を干す頻度がそれ以上に何倍も多いのです。昔は畳干しもしていました。その習慣が消えたのは、エアコンや防虫剤が発達したからではなく、部屋が狭くなり畳の上に家具を置きすぎるから。今、畳干しをするとなると一大事です。
雨上がりには傘も広げて干します。和傘は、直射日光が当たると和紙が硬化・劣化して破れやすくなるので陰干しが鉄則でした。だからかつて、番傘や蛇の目傘は干してもすぐ畳む暗黙の作法があったものです。今は洋傘ですから、無造作に庭などに出して干します。
鎌倉時代の絵巻物『一遍聖絵』(一遍聖人絵詞)には、かぶり笠とさし傘の両方が描かれています。平安時代末期から鎌倉時代初期の『鳥獣戯画』にも、蓮の葉の柄を持っている絵柄があります。すでにこのころから、かぶり笠とさし傘が併用されていたと考えてよいでしょう。『一遍聖絵』には、親骨と小骨があって黒く塗りつぶした傘が描かれており、のちの番傘にほとんど近い形です。
ただ当時、和紙を張ったものがどの程度あったかとなると疑問で、布張りを考えざるを得ません。布の場合、日傘なら問題ないですが、雨傘では漏れないように布目を潰す塗りものが必要です。中世にはすでに漆もありますから、なんらかの塗料を用いたにちがいありません。
『一遍聖絵』に描かれた旅姿の人々の身なりは粗末なのにもかかわらず、かぶり笠のみならず、さし傘も持っています。僧侶が抱えているのは長柄の大ぶりな傘が多く、これは念仏踊りや説教などをするときに使うもの。中世からすでに、今のような形の傘は、身近な道具だったといってよいでしょう。
絵巻物には女性のかぶり笠も多く描かれています。これは「市女笠(いちめがさ)」といって、縁に布を垂らしたかぶり笠です。イスラムの教義のように顔を覆うためというよりも、あくまでも生活の合理に則ったものだったと思われます。日差しや雨、そして虫を除ける用途だったのでしょう。
沖縄では、シュロ(くば)の葉を編み込んだかぶり笠(くば笠)が今でもつくられています。通気性がよく、強い日差しから身を守るのと同時に虫除けの機能もあるわけです。
江戸時代には傘屋が看板を掲げ、頑丈で大衆的な番傘とともに、漆塗りなど柄やろくろに細工を施した高級品の蛇の目傘が売られるようになります。
当時、奢侈(しゃし)を戒めた「さし傘禁止令」が出たとされていますが、江戸のお触れというのは額面通り受け取らないほうがよい。なぜなら古来、日本の法令文には「ただし」書きが付くのが常識だからです。物見遊山を禁じたとしても、「ただし、参宮、回国巡礼をする際は、それに及ばず」といった具合に。禁止令が出た当初は少し自粛したかもしれませんが、それをそのまま大げさに取り上げても意味がありません。
傘は、雨や日差しを除ける機能や強度を高くするため、材料や細工の進化を遂げました。それが本筋ですが、枝葉の役割としては、神仏が天から降りて鎮まる結界(天蓋)の表現でもあります。祭礼や芸能に、今も和傘がよく使われるのはこのためです。
盆踊りでも、櫓(やぐら)の上で音頭を取る人は和傘を持つことが多い。三重県の志摩地方には、傘に張り子の面やサイコロ、お盆の供え物などを取りつけて踊る慣習も残されています。盆踊りの和傘には、幾通りかの意味が見てとれるのです。
戦後、洋傘が普及し、日用品としての和傘は消えましたが、それは傘の歴史から見ると大きな変化ではありません。なぜなら、相変わらず家財道具の一つだったからです。
紙張りから布張りへ、竹の骨から金属の骨へと、材質が変化したにすぎません。かつて番傘の柄に筆で名前を入れていたのと同じように、高度経済成長期以前までは、洋傘の留め具の布の部分に木綿糸で名前を刺繍していたものです。つまり所有権を主張していたわけで、粗末には扱いませんでした。
傘の扱いが大きく変わったのは、ビニール傘の登場からです。所有権を主張する家財道具ではなく、使い捨てになりました。ビニール傘に名入れする人はいない。安価で便利だから多くの人に受け入れられたわけで、傘の文化とは別の文脈で動く経済的な合理といえます。高度経済成長期に冷蔵庫や洗濯機が普及し、簡便性・効率性重視へと生活の価値観が大転換したのと同じ文脈です。
文化としての和傘の観点でいえば、日用品として復活するのは難しいでしょうけれど、絶滅文化財にしないためにも、せめて格式のある旅館などでは、下駄と和傘を残してほしいものです。真に高級な日本の伝統に触れる非日常の場を失いたくありません。
先ほど傘の枝葉の役割として結界について触れましたが、大傘、ないし天蓋のハイテクによる現代的な更新が「ドーム」ではないでしょうか。ドーム球場の急速な展開は、雨の多い日本ならではのことです。スタジアムより規模の小さい施設を考えると、たとえば出雲大社の近くには木造ドーム「出雲ドーム」があります。
ドームも傘といえば傘。昔の人が見たら、さぞかし驚くに違いありません。
(2015年4月16日取材)