カナダの美術大学で彫刻を学び、ブロンズ像の工房で働いた後、2000年(平成12)に来日。2004年(平成16)にディチェザレ デザイン株式会社を設立。「パラシェル」「パンプキン」「サクラ」など個性的なフォルムの傘を生み出している。手にするのは「パンプキン」シリーズの男性用雨傘「グランデ」。
ディチェザレ デザイン株式会社 代表取締役
デザイナー
ジョン・ディチェザレさん
カナダの美術大学で彫刻を学び、ブロンズ像の工房で働いた後、2000年(平成12)に来日。2004年(平成16)にディチェザレ デザイン株式会社を設立。「パラシェル」「パンプキン」「サクラ」など個性的なフォルムの傘を生み出している。手にするのは「パンプキン」シリーズの男性用雨傘「グランデ」。
貝殻のような形をした非対称なデザインが目を惹く「パラシェル」。傘ではないような立体的なフォルムの「パンプキン」。大胆な切れ込みをもつ桜の花びらに似た「サクラ」……。カナダ人のジョン・ディチェザレさんが生み出すこれらの雨傘・日傘は、1本1万円前後から、デザインや素材によっては10万円近いものもある。決して安くはないが、百貨店や専門店で支持を集めている。
私たちが思い描く傘のフォルムとは一線を画すこれらのデザインすべて、ディチェザレさんが考えたものだ。カナダの美術大学で彫刻を学び、大学卒業後にブロンズ像の工房で働いたあと、2000年(平成12)に来日する。日本に来た動機はいくつかあるが、そもそも日本文化に興味があったことが大きい。
「子どものころ、カナダでも『宇宙戦艦ヤマト』が放映されていました。小学校が終わるとヤマト見たさに走って家に帰るくらい大ファンでした」
長じて進学した美術大学では、日本の歴史や芸術を学ぶことになる。
「日本のアートは深いんです。大学では葛飾北斎についての講義もあります。私は彫刻家をめざしていたので、ブロンズと通じるものがある日本の仏像も大好きでした」
ディチェザレさんの彫刻のモチーフの1つが傘だった。幼いころ、祖母が美しい傘を1本もっていたこと、そして、ものづくりに興味を抱く少年時代に傘の骨の構造を飽きることなく眺めていたこと。そんな記憶とともに、傘は文化的に意味あるものだという分析もしていた。
「ピエール=オーギュスト・ルノワールは『雨傘』を描いていますし、映画『雨に唄えば』ではジーン・ケリーの傘を使ったダンスシーンは有名ですね。これらはほんの一例で、欧米では昔から傘はアートの大事なモチーフだったのです」
美大生として創作活動に没頭するうちに「貝殻の形をした日傘」のアイディアが浮かぶ。「開いた傘を上から見るとどれも丸くて均一的なのでつまらない」という発想から生まれたもので、のちの「パラシェル」につながるのだが、それは少し先の話。このときはあくまでも彫刻のためのデッサンに過ぎなかった。
ブロンズ像の生産プロセスを学んだディチェザレさんは工房を辞めたのち、京都に住む友人のカナダ人写真家を頼って日本に来た。
来日当初は「日本の文化を見たくてうろうろしていた」と笑うディチェザレさんは、カナダでは見たことがない光景を目の当たりにする。
「日本映画で日本人が傘をさすシーンを見ましたが、日本に来たらほんとうにたくさんの人たちが色とりどりの傘をさして歩いている。『わあ、すごい!』と感激しましたね」
カナダの年間降水量は決して少なくないが、日本人ほど雨傘をささない。国土は日本の約27倍なのに、人口は約3分の1(約3500万人)のカナダはクルマ社会だからだ。
「傘をさして歩く習慣がありません。梅雨もないし、雨より雪がすごいので、傘を使う機会が少ないのです」
傘の専門店は片手で足りるほどだし、売っているのは黒や紺色の地味な傘ばかり。折り畳み傘もあるにはあるが、種類はきわめて少ない。
「日本の傘はいろいろな形がありますし、素材、デザイン、手元も豊富です。要因の1つに日本の都市部では『歩くこと』が多いからだと思う。日本の豊かな傘文化は、歩くことを想定したアーバンプランニングと関係が深いのではないでしょうか」
たしかに日本人は昔から歩いてどこにでも行った。江戸時代は、巡礼修行以外の旅は禁じられていたので、寺社詣でや霊山信仰を理由に多くの人たちが笠や傘を手に旅していた。
「日本は電車がたくさん走っていて、どこに行くにもスムーズですね。それに都会の喧噪のなかでは、傘をさすことで自分だけのスペースが生まれます。傘にはそういう価値もあるんですよ」
日本に来て傘の多さ、多彩さに驚いたディチェザレさん。自身のアイディア「パラシェル」を商品化しようと考えたのは自然な成り行きといえる。しかし、事はそう簡単ではなかった。
まずはプロトタイプ(試作品)をつくってもらおうと傘メーカーに掛け合ったものの「このデザインはつくれない」と断られてしまう。「ダメ、ダメ、ダメの連続でした。日本の傘メーカーのほとんどに断られましたから」と苦笑する。日本なら自分のデザインした、普通じゃない傘をつくってもらえるに違いないと思っていたので落胆も大きかった。
しかし、あるメーカーの仲立ちで頼もしいパートナーに巡り合う。それが今も同社の傘づくりを支える京都の洋傘職人、東田稔さんと河野敏正さん。ともに50年以上のキャリアを誇るベテランだ。
パラシェルの商品化が難しかった理由は非対称な形にあった。傘には「小間」と呼ばれる部位がある。分割された状態の、三角形の生地のことだが、普通の傘なら小間の形や大きさはどれも同じなので、基本的には均一の縫い方でよい。しかし非対称なパラシェルは小間の形がそれぞれ異なるため、縫い方を変えなくてはいけない。熟練の技があってこそ初めて商品になる。したがって限定生産にならざるを得なかった。
「スタートした年、パラシェルは6本しかつくれませんでした。だから初年度の販売本数はたった6本です。この先やっていけるかどうかもわからなかったですね」
笑いながら話すが、当時は笑い事ではなかったはずだ。ただし、ブロンズ像の工房で生産モデルを学んだことが活きた。パラシェル以外にもプロトタイプをつくり、反応がよければ本数限定で売り場に置いてもらい広げていく、という青写真は描けていた。そこで他のメーカーの仕事で忙しい東田さんと河野さんに頼み込んで「パンプキン」と「サクラ」の試作品および生産モデルをつくってもらい、売り込みに歩く。
幸い売り場での反応は上々だった。
「初めてパラシェルを見たお客さまはショックを受けるようです。『どうやって開くの?』とか『これ傘なの?』と笑われましたが、そういう反応がバイヤーさんに喜ばれました」
パラシェル、パンプキン、サクラの生産・販売に目途が立ち、ディチェザレさんは法人化する。来日して5年目の2004年(平成16)だった。
今、ディチェザレさんには気がかりなことがある。来日したときに比べて、日本全体がファストファッション化していることだ。
「来日したころ、例えば洋服でもミドルレンジのブランドが今よりたくさんありました。どんどん失われていくのがとても残念です」
嘆いているのは傘だけではない。外国から見ると一種独特な日本のものづくり。それが消えてしまうのではないかと心配しているのだ。
「日本のデザイン、アート、そしてエンジニアリング。いずれも感性に富んでいて実に繊細です。傘も同様で、アイテム数や色、柄、骨構造などの多彩さは圧倒的です」
日本の傘メーカーで輸出に力を入れている会社はほとんどないが、ディチェザレさんの目には、海外の傘メーカーの多くが骨構造や製法で日本の傘を「手本」にしていると映る。
「ヨーロッパと日本では雨の質が違います。イギリスは霧のような細かい雨。日本はかなりの量の雨が、しかも長時間降りつづきます。ですから、ヨーロッパの傘をそのまま日本で使おうとすると、ステッチなどが耐えられず雨漏りしてしまう。特に梅雨には弱いようです」
日本人が暮らしのために導入した洋傘が、逆に欧米から注目されているとは……。青梅和傘の職人に和傘のろくろをもらったディチェザレさんは、自分でもろくろをつくろうとしたが、ついに再現できなかった。
「あれこそ日本の文化です。ものすごい技術力ですね。和傘という伝統があり、海外にまねされる洋傘の技術もある。日本の傘はやはり文化なのです」
ただし、職人が減っている現状もある。
「自分のスタイルに合った、質のよい素敵な傘をもつことです。そうすれば、それをつくっている職人さんたちを支えられるはずです」
傘は自分らしさを演出するファッション、あるいはアクセサリーだと考えているディチェザレさん。洋服のように傘も着替えれば、今よりきっと雨の日が楽しくなる。
(2015年4月29日取材)