福井洋傘・橋本肇さん、岐阜市歴史博物館・大塚清史さんの、傘に対する眼差しを紹介する。
株式会社福井洋傘 代表取締役社長
橋本 肇(はしもと はじめ)さん
「相合い傘」は日本独自の文化といわれますが、基本は蛇の目傘でするものです。蛇の目傘はハジキを2カ所に付けることで、開き加減が2段階調整できます。ピンと広げた状態で歩くと人目が気になって恥ずかしい。だから1段落として陰をつくる。しかも傘をすぼめるわけですから、空間が狭くなって2人はさらに寄り添える、というわけです。
福井には「傘渡し」の儀式が残っていますが、かつては各地にありました。嫁入り道具の1つとして傘をもつ人は多いですが、傘に込められた意味を知らないので、なかには「あら、捨てちゃったわ」なんていうおばあさんもいます。
嫁入り道具でもたせる傘には、親が娘を嫁がせるときに「どうかこの子を守ってください」と思いを込めるので、霊力がとても強い。昔は使われなくなった蛇の目傘を、厄除けとして天井裏に上げたそうです。江戸時代初期の伝説的な彫刻職人、左甚五郎が魔除けのために置いたと伝わる「知恩院の忘れ傘」も同じ意味合いでしょう。今でも宮大工に家を建ててもらうと、床柱に傘を1本くくりつけるそうです……といったような話を私は各地でしています。
社員にも、傘にまつわる文化的な話をするように伝えていて、「君たちは傘の文化の布教活動に行く宣教師なんだ!」と発破をかけています。
私たちの会社は傘ではなく、文化を売っている――そう思っています。「傘の下の空間を売っている」と言い換えてもいい。空間とは、床の間と同じように「あってもなくてもいいもの」ですが、床の間という空間を楽しむことから、掛け軸や生け花などが発達しました。相合い傘は傘の下の空間から生まれたものですね。
傘は文化という意識が今は薄らいでいます。そこで考えたのが、玩具の要素を持ちあわせた子ども向けの傘です。子どもが成長して使えなくなったら、次は生地を張り替えてお母さんの日傘にする。子どもは「傘はずっと使えるものなんだ」と受け止めますし、自分の子にもそう教えるでしょう。文化とは、今を生きる私たちだけのものではありません。次の世代にもきちんと伝えていきたいですね。
岐阜市歴史博物館 学芸員
大塚 清史(おおつか きよし)さん
岐阜の伝統工芸には、和傘のほかに岐阜提灯と岐阜団扇があります。いずれも主な素材は和紙と竹と木。もともと日用品ですから美術的な価値を高めなければ淘汰されてしまいますが、岐阜にはそれを支えるだけの技術や文化があったので今日(こんにち)まで生き残りました。ところが和装がすたれてしまった。扇子が残っているのは日本で西洋風の製品が受容されなかったからで、和傘はそうではない。
価値を高めると価格に反映せざるを得ないので「高いね」で片づけられてしまいますが、仮に和傘がなくなれば歌舞伎を洋傘で演じなければなりません。実は、洋傘が普及した明治時代、歌舞伎を洋傘で演じようと試みています。浮世絵が残っていますが、どう見てもおかしい。祭祀で和傘の代わりにパラソルを使うのと同じことですから。
そう考えると、和傘は日本の伝統芸能や文化を支える重要なアイテムといえます。あまりにも身近なため、私たちは文化的な価値を見落としていたのではないでしょうか。
とはいえ、和傘は決して使い勝手のよいものではありません。
雨に濡れたら陰干しが必要ですし、風通しのよいところに天ろくろを上にして吊るしておかないと水が溜まって腐ってしまいます。江戸時代の人も扱い方がよくわからなかったようで、傘屋がわざわざ取扱説明書を付けて販売していたほど。つまり「手間」がかかります。
さらに、和傘は傘紙に油を引いても水はにじむので、雨を完全に遮断することはできません。雨をしのぐという本来の役割からみれば、現代では「不便」といわれるでしょう。
しかし、この「手間」と「不便」がきわめて日本的だと思います。
西洋と比べて、日本は「自然と寄り添う」文化です。雨についても多くの表現が残されていますね。和傘は、紙や竹など自然由来の素材を使いつつ、そんな雨の多彩な表情も繊細に感じとる「雨に寄り添う道具」のように思います。
日本には「自然に生かされている」という人間中心ではない価値観があり、それを楽しむ術もかつての日本人は知っていたように思います。