煮立ったほうとうをいただく。もっちりした幅広の麺に、かぼちゃなどの風味が絡み合う、奥行きのある味
水と風土が織りなす食文化の今を訪ねる「食の風土記」。今回は関東を中心に山梨県の郷土食として知られる「ほうとう」を取り上げます。小麦粉を水で練り込み、包丁で幅広に切った麺を、かぼちゃなどの野菜の味噌汁のなかに入れて一緒に煮込むほうとう。そのルーツは、思いのほか古いものでした。
周囲を山に囲まれ、大小の河川が流れる山梨県。郷土食「ほうとう」は、うどんと同じく小麦粉を水で練るが似て非なるものだ。その特徴は、①生地を寝かさない、②麺が幅広で少し扁平(うどんは主に丸型)、③練るときにほとんど塩を使わず、湯に通さないでそのまま煮込む、④味付けは味噌が一般的など。また、ほうとうはかぼちゃを用いるため冬の料理のイメージが強いが、実は季節の野菜を用いて年中食される料理である。
甲斐国あるいは甲州と呼ばれた江戸時代、すでに果樹の産地として知られていたが、ほうとうもまた甲州名物として名が通っていた。
「1815年(文化12)にこの地を訪れた修験者の泉光院(せんこういん)(野田成亮(しげすけ))が『今夕は當國(当国)の名物ハウトウ(ほうとう)と云う馳走あり』と書き残しています」
そう話すのは山梨県教育庁学術文化財課の中山誠二さん。山梨県立博物館の学芸課長だった2008年(平成20)、企画展「甲州食べもの紀行」開催にあたって調べたのだ。ほうとうは「餺飥(はくたく)」が訛った言葉とされているが、中山さんが文献で辿ると6世紀の中国・北魏の農書『斉民要術(せいみんようじゅつ)』(注1)に『調味した肉汁で小麦粉を練りあわせて平らにし、煮立った湯のなかに入れて食べるとおいしい』という餺飥の説明があった。小麦粉を使うこと、平たく延ばす点は今と変わらない。
注1)『斉民要術』
中国の現存する最古の農業技術書。五穀の種植法から酒、醤油の製法など農業生産物の加工まで、広範囲に及ぶ農業技術を説く。
餺飥を最初に記した日本人は、9世紀に遣唐使と中国に渡った天台宗の僧侶・円仁。また清少納言や藤原道長の日記にも登場している。「当時は寺院などで貴族の儀礼食、つまり〈ハレ〉の食べものだったようです」と中山さん。ほうとうに近い「はうたう」という発音は、12世紀の辞書『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』(注2)に見られる。
鎌倉時代、戦国時代を飛び越え、ほうとうの名前が再び史料に出てくるのは製粉技術が一気に普及する江戸時代。「武田信玄がいた戦国時代は小麦などの穀物を粉にする石臼などの道具が普及します。記述こそないもののほうとうも食べられていたはず。しかし庶民が家で日常的に食べるようになったのは水車のおかげです」と中山さん。18世紀、甲州では水車が爆発的に増えた。水は豊富で地形は起伏に富む。小麦から粉を挽く動力を得るにはもってこいだった。
平地が少なく稲作は不向きだったことも家庭食として根づいた理由だ。撮影に協力してくれた専門店「ほうとう蔵 歩成(ふなり)」の榎原誠さんは子どものころ、多いときには週に3〜4回はほうとうを食べていたという。
「初日はほうとう、2日目はごはんを入れて食べる『煮返しのほうとう』でした。おもしろいのは、ひいおばあちゃんがつくるのはすいとん状で、おばあちゃんは長くて太い麺だったこと。家ごとに味も、野菜もさまざまだったはず。給食にも出ましたよ」
ほうとうは粉食料理なので工夫の余地が大きく、榎原さんが話すようにさまざまに形を変えてきた。中山さんは「ずっと同じ料理ではないですが、小麦粉で練る平らな麺という特徴は変わっていませんね」と話す。
食が多様化した今、地元の人たちは家でほうとうを食べないそうだ。そばやうどんよりも長い歴史をもつほうとうを、ぜひ受け継いでほしい。
(注2)『伊呂波字類抄』
平安時代末期につくられた日本の古辞書。ことばの配列をいろは順にしたことは、その後数百年にわたる辞書の構成のもととなった。
(2015年4月22日取材)