機関誌『水の文化』17号
雨のゆくえ

日常に非日常を生み出す雨の緊張感 表現される雨

芳賀 徹さん

京都造形芸術大学学長・東京大学名誉教授
芳賀 徹 (はが とおる)さん

1931年生まれ。1953年東京大学教養学部卒。プリンストン大学客員研究員、東京大学教授を経て現職。専攻は比較文学・近代日本比較文化史。 著書に『詩歌の森へ−日本詩へのいざない』(中央公論社、2002)、『詩の国詩人の国』(筑摩書房、1997)他。

「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」描かれた雨の風景

歌川広重の浮世絵に「大橋あたけの夕立」という見事な絵があります。あのように見事に雨を描ききっている例を西洋に探してみても、思い浮かびません。フランスなどは雨自体が少ないし。19世紀になって日本の絵画がフランスに入り、ジャポニズムと呼ばれるブームが起き、ゴッホや印象派に大きな影響を与えるわけですが、雨を画題にとるのはそれ以降ではないでしょうか。

日本を見ても、平安朝以降の大和絵の中で、雨そのものを描いているものはあまり見あたりません。

ただ、水墨画で「瀟湘八景」が好んで描かれたということはありますね。これは中国画の画題で、中国湖南省の瀟水と湘江が合流して洞庭湖に注ぐ一帯は、古くから景勝地として知られていました。その一帯の景勝地八カ所を選んで画題としたもので、もとは北宋の文人であった宋迪(そうてき)が描き、11世紀ごろから画題として確立したものです。

南宋末の禅僧で蜀の人、牧谿(もつけい)法常による瀟湘八景が、室町時代の日本に入ってきて、足利将軍らによって最高の評価を与えられ、それ以来わが国の水墨画壇に深い影響を及ぼしました。牧谿に続いて、宋末元初の画僧で金華人(浙江省)であった玉澗(ぎょくかん)の瀟湘八景も有名です。

私は先だって根津美術館で行われた展覧会で、牧谿の「漁村夕照(ぎょそんせきしょう)」、「遠浦帰帆(えんぽきはん)」、「平沙落雁(へいさらくがん)」の3点と、玉澗の「山市晴嵐(さんしせいらん)」「洞庭秋月」「遠浦帰帆」という三景を見ることができました。どれも、ほんとうに息を呑むように大きく美しい天下の名品です。

瀟湘八景一帯は、伸びやかな景観に恵まれ、湿潤な大気が気象を絶え間なく変化させ、雨や雲や靄(もや)が多くて山水に多彩な表情を与えていたため、水墨の潤いと滲(にじ)み、特に破墨(はぼく)の技法を駆使するうえでの好画題でした。牧谿も玉澗も中国ではあまり評価されなかったらしいのですが、日本では代々の天下人、大茶人によって大変珍重されてきました。このあたりに、日本独特の雨とその潤いに対する感性が隠れているような気がします。

雨上がりの再生

江戸時代になると、瀟湘八景を日本にも見立てたいということで、近江八景が成立します。

堅田落雁、矢橋帰帆、瀬田夕照、石山秋月、粟津晴嵐、唐崎夜雨、比良暮雪、三井晩鐘の八つが画題として確立されました。ここにやはり雨や靄の風景をつくっていくわけです。そしてもう一つ重要なのは、雨上がりの風景。これも雨の文化を考えるときの古典的な感覚の範例でして、それは絵にも歌にもなっています。

日本では雨上がりには、すべてが色鮮やかになる。濡れることで蘇るという再生の感覚が際立つように思います。それは、田園でも市街でも、木造の家屋でも庭でも、森の樹木でもみな同じですね。ブナ林に入って雨上がりの光景に遭遇したことがあるのですが、ブナは濡れると木肌が黒々となるのです。そして木に耳をつけると、根が勢いよく水を吸い上げる音を聞くことができます。ヨーロッパの石造りの家や石畳の街では、これほどのよみがえりの感覚は感じられません。石は雨が浸透しない素材である、ということも、雨に対する意識を違うものにしている要因かもしれません。フランスではこういう感覚は見られないですね。靄よりもむしろ、秋や冬の霧で、孤独と結びつきます。

広重の「大橋あたけの夕立」では、激しく雨が降っている一瞬が切り取られています。向こう岸が斜めに描かれており、急激に水嵩が増している様子が表現されています。黒い雨雲から、縦線を繁く引いて雨を表しています。油絵と浮世絵や水墨画という表現方法の違いもあるのでしょうね。油絵では、これほどシャープな線を表現するのは難しいでしょうから。広重が切り取った一瞬は、日常の中に襲った非日常の緊張感を凝縮して表現しています。

フランスの画家はこれを見て驚嘆します。雨を通して向こう側を見る。なるほど、そういう見方があったかと。雨足や木の枝を通して、向こう側の風景を見る。モネはこの影響を受けて、木の枝越しに春の風景を見るという絵を描いています。これは、まさしくジャポニズムの影響です。ただ、雨が寒さや乾燥の中から万物をよみがえらせるという感覚には至りませんでした。

雨上がりは、すべてのものが濡れそぼって綺麗になる。鮮やかになる。濡れることと、鮮やかになることは関係しているんですね。ものの輪郭や色彩が際だってくるさまを「けざやか」とも言い、けざやかは「さやか」につながっています。この感覚は日本人を語るときに、興味深いテーマです。

歌川広重の浮世絵「大橋のあたけの夕立」

歌川広重の浮世絵「大橋のあたけの夕立」
隅田川に架かる新大橋 日本橋側から深川籾倉を望む
UFJ銀行貨幣博物館所蔵 『広重の大江戸名所百景散歩』人文社 1996 より

雨を詠む

雨や風や嵐の歌は万葉集の昔からつくられています。

ぬば玉の夜さり来れば巻向(まきむく)
川音高しも 嵐かも疾(とき)
                  (柿本人麻呂集)

嵐が迫ってくる時の風音、水音の高まりを人麻呂がみごとにつかまえているのには感心します。

岩走る垂水の上のさわらびの
萌え出づる春になりにけるかも
                     (志貴皇子)

これも、雪が溶けて水が音立ててきらきらと流れはじめ、そのほとりには、わらびが柔らかく芽生えてくる、という水と春の関係、うるおいの春の到来の喜びがいきいきと表現されています。

先ほど「瀟湘八景」の話をしましたが、中国の詩ではこの詩を思い出します。

宋の時代の有名な詩人である蘇東坡(そとう ば)がこんな七言絶句の漢詩を残しています。

廬山烟雨浙江潮
未到千般恨不消
到得帰来無別事
廬山烟雨浙江潮

廬山(ろざん)は烟雨(えんう)浙江(せっこう)は潮(うしお)
未だ到らざれば千般恨み消せず
到り得帰り来って別事無し
廬山は烟雨 浙江は潮

廬山の烟雨と浙江の潮は天下の二大奇観として知られるところで、ぜひ一度は訪れて目の当たりに眺めたいと、私はかねがねから願っていた。その機会がなかなかこないことを残念に思い、ますます憧憬の情を深くしていた。しかし今、ようやく多年の宿願を果たすことができた。それは確かに一見に値する景観ではあるが、さりとて「到り得帰り来って別事無し」で、帰ってきてみれば格別神変不可思議なものではなく、むしろ平凡で尋常なものであったというのですね。(芳賀幸四郎『禅語の茶掛続一行物』淡交社、1974)

ここで言う「廬山は烟雨」というのは、江西省にある奇峰名瀑の名山、廬山が雲霧に煙るさま、「浙江は潮」というのは、大河、銭塘江(せんとうこう)で起きる満潮時の海瀟現象を表しています。大意では天下の二大奇観に対する幻滅を謳っているようにも取れますが、真意は、悟る前は一生懸命その境地を求め、やっと悟りの境地に至ったが、また日常に戻ると何も変わっていない。ただその精神の内容は変わっているという意味です。

禅でいう「悟り了(おわ)って未だ悟らざるに同じ」の宗旨を表現しているのでしょう。この「廬山は烟雨」という感覚も、実は瀟湘八景に連なるものでしょうね。

自然との距離感

芭蕉の俳句では、なんといっても

五月雨(さみだれ)を集めてはやし最上川

この、「集めて」というのは非常にうまい。芭蕉はよほど地理感覚があったのでしょうね。最上川の流域には、東西南北それぞれに奥羽山脈、月山山塊、朝日吾妻連峰が連なる。それらの山々に降る雨を、最上川はみな集めてとうとうと流れ、日本海に注いでいく。そのさまを捉えて壮大なものですよ。

同じ最上川の歌ですと、雨から離れますが斎藤茂吉を忘れるわけにはいきません。

最上川逆白波のたつまでに
ふぶくゆふべとなりにけるかも

これもすごい。茂吉は20世紀日本最大の詩人ですよ。これは冬の歌でしょうね。荒ぶる、人間には支配できない自然の強さが表現されています。それが、徐々に春が近づくにつれ、荒ぶる最上川が和らいでくるのが茂吉の次の歌です。

四方の山皚々がいがいとして居りながら
最上川に降る三月のあめ

四方の連山がまだ真白な中に降るやわらかな三月の雨が見事に描かれています。雨を「あめ」としたところにも、思いがよく表れています。

雨音のかむさりにけり虫の宿
           (松本たかし)

松本たかしは「ホトトギス」同人で、高浜虚子の弟子。能役者の息子だった人です。かむさりにけりには柔らかさ、虫の宿には露の宿に共通するはかなさが表現されています。寒さに向かう秋口に、茅葺きの木造の仮の住みかが静かに雨に包まれていき、家の内と外の虫の音は弱まり、やがて消えていく。こうしたしっとりと濡れた感じのする詩歌からは、音や匂いも立ってきますね。そういえば雨は色を鮮やかにするだけでなく、音や匂いの感覚をも呼び起こし、またそれを消していく。

これらを見ると、自然に対して自分の位置をはっきりと主張したりしないのが日本人ということがよくわかります。芭蕉は最上川を多少擬人化して歌っているけれど、では、芭蕉がどこにいるのかと探しても、どこにもその姿はないのです。日本とヨーロッパでは自然との距離のとりかた、雨への親近の意識が違うことが、「表現された雨」からだけでも推測できて面白いですね。



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