過去に4回も「世界一清潔な空港」と評価された羽田空港には「カリスマ清掃員」と呼ばれる人がいる。日本空港テクノ株式会社に勤める新津春子さんだ。多忙な日々を過ごすなか、「日々の家の掃除は、薄手のタオルで拭くだけ」という新津さんに、清掃・掃除に対する思い、そしてプロならではの「拭く」コツを教えていただいた。
日本空港テクノ株式会社 環境管理部 環境マイスター
新津春子(にいつ はるこ)さん
1970年、中国・瀋陽生まれ。17歳で来日し、家計を助けるために高校へ通いながら清掃の仕事に従事。日本空港テクノ株式会社入社後の1997年、全国ビルクリーニング技能競技会で最年少優勝(当時)。羽田空港が2013年、2014年、2016年、2017年に「世界一清潔な空港」に選出された際の功労者の一人として活躍。『清掃はやさしさ』『掃除は「ついで」にやりなさい』など著書多数。
東京都大田区にある東京国際空港、通称「羽田空港」は、国内48空港、世界18ヵ国・地域の30都市33空港(2016年冬ダイヤ)と結ばれ、年間8000万人(注1)が利用する日本の玄関口である。1時間当たりの発着回数は80回に上る。およそ45秒ごとに離発着が行なわれている計算になる。
平日の昼下がりに羽田空港の第一旅客ターミナルを歩く。人々が行き交っているが、利用者が多いと感じるのは、出発ロビーのある2階だ。荷物を預ける人、保安検査場に向かう人、ソファやイスに座って出発を待つ人、手土産を買う人――各々異なる目的をもって動き、旅立っていく。
フロアを見回すがゴミは一つも落ちていない。トイレもピカピカに磨き上げられている。それもそのはず。羽田空港は「清潔な空港」として知られている。イギリスのSKYTRAX社(注2)の国際空港評価「The World's Cleanest Airports」部門で、2013年、2014年、2016年、2017年と4回にわたり世界第1位に選ばれた。
この調査は「お忍び」で行なわれるため、勤務する人たちの日ごろの努力が欠かせない。
「世界一清潔な空港」に選出された功労者の一人と称されるのが新津春子さんだ。清掃、設備管理、工事、植栽、花店などの空港内サービスを提供する日本空港テクノ株式会社で働く新津さんは、総勢700人もの清掃員のスキルの底上げやモチベーションアップに日々取り組んでいる。
(注1)年間8000万人
国土交通省東京航空局が2017年3月9日に発表した「管内空港の利用概況集計表(2016年確定値)」による。
(注2)SKYTRAX 社
1989年に設立したイギリス拠点の航空サービスリサーチ会社。世界の空港や航空会社の評価を行なう。
新津さんは中国・瀋陽(しんよう)に生まれた。中国残留日本人孤児の父親が「日本に住もう」と決断し、1987年(昭和62)に一家五人で移住。家計を助けるために、「日本語がほとんど話せなくてもできるから」(新津さん)という理由で清掃の仕事に携わる。
その後、職業能力開発センターで清掃に関する知識や技術を体系的に学び、1995年(平成7)の春、日本空港テクノに就職する。
「生活のために始めた仕事だけれど、技能を身につけて『清掃のプロ』として生きていこう」と心に決めた新津さんは腕を磨き、1997年(平成9)10月、全国ビルクリーニング技能競技会で優勝する。しかし、全国大会に先立ち2ヵ月前に行なわれた東京予選では二位だった。いったい何があったのか。
「予選で私の演技を見ていた上司に『あなたの演技にはやさしさがない』と指摘されたのです」
最初は何を言っているのかわからなくて反発すらした新津さん。気づいたのは、「清掃の道具にも命がある」と言われてからだった。
「ハッとしたのです。私は清掃の型ややり方、所要時間にこだわるあまり、道具を雑に扱っていたのです。きっと表情もこわばっていたでしょう。審査員はお客さまと同じ目線ですから、私の演技を見てよい気分にならなかったはずです」
予選から本大会までの2ヵ月、新津さんは上司を観察して、道具の扱い方から立ち居振る舞い、笑顔までまねして猛練習した。そして当時の最年少記録となる27歳で優勝を果たす。
「けれど、一位になれたのはまねをして練習したからです。ほんとうの『やさしさ』、モノを大事にする『心』が自分のものになったのは、それからずっと先のことです」
上司を見習って優勝してから、新津さんには人やモノをじっくり観察する癖がついた。
「ちょこちょこと小さな歩幅でしか歩けない方がいますね。私たちにはなんてことない段差でも、そういう方はつまずいて転ぶ危険があります。仕事中に気づいてそのままにしておいて、仮にお年寄りが転んでケガをしたら絶対に後悔すると思うんです」
じっと見て自分にできることを考える。たとえ自らの仕事の範疇じゃなくても改善のために声をあげる。これは新津さん流の「やさしさ」であり、そこには「心」がある。
新津さんは清掃と掃除を使い分けている。仕事は「清掃」、そして家事として行なうのは「掃除」だ。清掃のプロである新津さんは、自宅でも隅々まで掃除すると思われがちだが、実はそうではない。
「家ではよく触るところ、そして動線を、水で湿らせた薄手のタオルでサッと拭くだけ。くまなく掃除するのは大掃除のときだけですよ」
家のなかにはドアノブなど必ず触るところがある。そこは欠かさず拭く。そして自分や家族が頻繁に歩く廊下や階段も拭く。そうした場所は「じっと観察して」見つけるのだ。
「どういう風に動くのか、どこによく座るのかを把握すれば、毎日の拭き掃除は最小限で済みますからね」
一時期、テーブルの下にごはん粒が落ちていたことがあったそうだ。
「食事中の夫をじっと見ていると、体はテーブルから離れたまま首だけ伸ばして食べていたのです。『あなた、もっとテーブルに体を寄せて食べて!』とお願いしました」と新津さんは言うが、「それに首も疲れるでしょ?」と付け加えたのは夫に対するやさしさだろう。
モノを大事にする「心」は今も健在。拭き終えたテーブルなどに「よかったね〜、きれいになったね!」とよく話しかける。「心を込めればテーブルだって長く使えますよね?人にもモノにも気持ちが大事なんです」と新津さんは笑った。
そんな新津さんの日々の掃除は、フェイスタオルを6〜8枚使うだけ。朝起きたらタオルを水でゆすいで絞って拭く。途中で洗わずに、すべてを終えてから洗って干すのだ。洗剤は使わない。タオルがしっとり濡れた状態で拭く「湿り拭(ぶ)き」(注3)ならば汚れがとれるからだ。乾拭きも必要ない。
フェイスタオルを八つ折りで使う方法は、拭く道具として利点が多いと新津さんは言う。
「まずタオルを横に広げて2回折って、さらに縦に1回折ります。その大きさって、ちょうど人間の手のサイズなんですね。指先ではなく手のひらで拭くので力も入りやすいから楽に拭き掃除ができる。しかも八つ折りなので両面使えば合計16面拭けます。雑巾と比べて洗う・絞る回数が減りますし、タオルならば洗って干すのも簡単で、しかも乾きやすい。メリットばかりでしょ?」
壁を拭くときはタオルを伸ばして右手で拭く。左手はタオルの下を持ち、肩幅に足を開いて体ごと左右に動かすと疲れにくい(P29写真)。また、目で確認しづらい高いところは、伸ばしたタオルで手を包んで拭けば、ビスや突起で手を傷つける危険性はぐっと低くなる。
たった1枚のフェイスタオルに、これほど多様な使い方があるとは思いもよらなかった。
(注3)湿り拭き
濡れたタオルを乾いたタオルで巻いて軽く絞ると、濡れたタオルの水分が乾いたタオルに移ってちょうどいい湿り具合になる。
新津さんにとって「拭く」とはどういう意味をもつのか。
「例えば、私がキッチンをしっかり拭かなかったために家族が食中毒になったら、『私のせいだ』と後悔するでしょう。ほこりを拭いたり、吸い取ったりしなければ、家族がぜんそくなどのアレルギー性疾患になるかもしれません。不衛生にしていると健康への悪い影響が絶対にあります。だから、こまめに拭くのです」
みんなが常に健康でいるために拭く――。見落としがちだが、これがいちばん重要なことかもしれない。しかし、掃除が嫌い、苦手という人もいるはずだ。どうすればよいのだろう。
「生きていくために、自分の髪の毛や体は洗いますよね。掃除もそれと一緒。生きるために必要なんです。掃除用具をそろえなくてもタオル一本あればいいし、洗う・絞るが面倒なら使い捨てのウエットタオルを使えばいい。一緒に暮らしている人のために、汚れやすいところだけは拭く。『明日やろう』と先延ばしにすると精神的な重荷になってしまって、結局やらない。サッと拭くことは、自分のためでもあるのですね」
新津さんには、プロならではの知恵と技術がある。フェイスタオルの使い方は明日からでも実践したいもの。そして、印象的だったのは「まずはじっと観察して、どこが汚れているか、どう拭けばいいかを考えること」という新津さんの姿勢だ。見て考えて行動するやさしさが人を幸せにし、モノを大事にする心につながり、ひいては自分の身を助けることにもなる。技に心が伴ってこそプロなのだと、改めて学んだ気がする。
(2018年2月1日取材)