機関誌『水の文化』58号
日々、拭く。

現代社会
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掃除の変化と「拭く」のゆくえ

掃除の変化と「拭く」のゆくえ

撮影協力:昭和のくらし博物館

「三種の神器」という言葉がある。1950年代半ばの「電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機」がその嚆矢(こうし)だが、電気掃除機は掃除にかかる労力を軽減した。今は自走式の掃除機さえある。今回のテーマ「拭く」を掃除の一環として捉えるならば、科学の進歩によって生じた「掃除の変化」をどう読み解くべきなのか、さらに「拭く」行為は今後どうなっていくのか。社会学者の永井良和さんにお聞きした。

永井良和さん

関西大学社会学部教授
現代風俗研究会会員
永井良和(ながい よしかず)さん

1960年兵庫県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程(社会学)学修退学。専門は大衆文化論・都市社会学。著書に『社交ダンスと日本人』(晶文社)、『南沙織がいたころ』(朝日新書)、共著に『南海ホークスがあったころ』(河出文庫)など。

清水の舞台に大型掃除機?変わりゆく現代の掃除

私がある新聞で連載したコラムで「掃除の情景」と題し、今の時代の掃除について記したことがあります。

きっかけはある朝のテレビニュースでした。中継映像に映った京都の清水寺の舞台で、大型掃除機を使って掃除しているのを見たのです。それは京都の古いお寺には似つかわしくない情景だったので、印象に残りました。

今の時代、お寺でインターネットを使ったり、お坊さんが携帯電話を持ち歩いていることはもちろん知っています。観光客増加の影響で、清水の舞台の上にもこれまで以上に土やほこりが持ち込まれているであろうことも、少し考えれば想像できました。それでも、京都のお寺さんだったら、掃除は修行のために若い小僧さんがやっているような気がしていたのです。このイメージの落差がおもしろいなと。それで、掃除が今どのように変わってきているのかを少し考えてみたのです。

家業の造園業を継ぐことを決め、その手伝いを始めたという教え子がいたので、新米の彼にどんな仕事を任されているかを聞くと、「切り落とした枝や葉などをブロワという送風機を使って集めている」と言いました。庭師という職人の道を歩きはじめた彼の最初の仕事がそうした機械を操るものだという話も、清水の舞台で見た掃除機と同じような違和感を覚えました。

改めて見回すと、大学内の落ち葉もブロワを使って集めていることに気づきました。また、集めた落ち葉はビニール袋などに入れて回収先に運ばれています。箒で落ち葉を集めて燃やし、芋を焼くということも行なわれなくなりました。

家のなかでも似たような変化が起きています。昔の日本家屋ならば縁側などから塵芥(ちりあくた)を屋外に掃き出すことができましたが、今は掃除機で袋に閉じ込めて捨てるのが一般的です。ごみを自分たちの手で、身近なところで処理することが減っているわけです。これらはアスファルトやコンクリートで覆われて土が露出した地面が減ったこと、密閉性の高い家屋が増えたことによるものだと思います。

ごみの総量が増え、掃除をより迅速に終わらせる必要が生じて技術が進歩し、さらにアスファルト舗装や高気密住宅がもたらす便利さが広まるという社会の変化に伴って、掃除も変わっているのです。

布の再利用と洋室化で減りつつある「拭く」

「拭く」という行為は、掃除と近い関係にありますから、社会の変化の影響を多分に受けていると思います。私は1960年生まれです。家の掃除といえば雑巾拭きが基本という時代を生きたので、電化製品を使わない掃除にもある程度なじみがあります。そこから、掃除機やモップ、さらには使い捨てできる掃除用具などが現れて、さらに殺菌や除菌といった機能が加えられていく―。そんな変化を目にしてきた世代なのです。

一方、私の世代が受け継ぐことができていない部分もあります。それは布のリサイクルです。かつては外出用の着物、日常着、子ども用と服が傷むごとに仕立て直して、さらにはハタキの先の布になり、食卓や水回りなどを拭く布巾、床を拭く雑巾になっていく「再利用の文化」があったと聞きます。一枚の布を大事にして最後まで使いきる。拭くという行為が、その最後の過程と結びついている感覚は、雑巾を買うようにもなった私たち以降の世代ではすでに失われているはずです。

拭く行為の背景としての変化には、「和室のない住まい」の広がりもあります。少し前は、3LDKのマンションならば少なくとも1部屋は和室でしたが、最近はすべてフローリングで、和室はオプションとして設定されているケースも散見されます。先日200人くらいの学生たちの授業で、実家に和室があるかを尋ねたところ、手を挙げた学生は1割もいませんでした。和室がなくなれば、畳の目に沿って箒で掃き、雑巾がけをするというような掃除の文化が受け継がれることは難しくなるでしょう。

布のリサイクル、和室での拭き掃除といった文化の断絶は、残念ではありますがしかたがないことにも思います。伝統からよい部分を学び、取り入れるのはすばらしいことですが、今、そしてこれからを生きる人たちに和裁や和室での生活を強いるのは現実的ではないですね。

裸足の習慣があるから「拭く」は消えない

では、古くからある掃除や拭く文化は、なくなっていく一方なのでしょうか。私は当面は守られる一線があるように思います。それは、日本には「玄関で靴を脱ぐ」という習慣があるからです。

ベッドの上以外は屋内でも靴を履く暮らしならば、部屋のなかに持ち込まれて溜まる塵芥は増えます。拭いたとしてもすぐに汚れてしまうので、毎日床を拭いてきれいに保つことはあまり合理的ではありません。しかし、玄関で靴を脱ぎ、持ち込まれる塵芥を抑えれば、拭き掃除をしたあとも美しく保たれる時間が長くなります。「靴を脱いで上がるのだからきれいにしておきたい」という心理も働くでしょう。これらが拭き掃除に合理性をもたらす限り、生活における拭き掃除の位置づけは大きく変わらないのではないでしょうか。

玄関で靴を脱ぐ暮らしが消えそうな気配はあまりないですね。むしろ中国などの海外でも採り入れられているとの話を聞くぐらいです。靴を脱ぐ文化が維持されていることは、大事なポイントになるような気がします。

社会の変化に伴い、掃除や拭く文化が「消える」「残る」という見方で話を進めましたが、「新たに生まれる」ことがないのか考えてみたときに思い浮かんだのが、自走型掃除機でした。フローリングや床に座らないライフスタイルが広まり、かなり普及してきていますよね。開発したのはアメリカの企業で、軍事用ロボットの開発において豊富な実績があるそうです。自走型掃除機は日本の掃除文化とはまったく違うルーツをもつ商品といえます。

私も1台持っています。若干大雑把なのは否めないのですが、そもそも軍事用だったと聞けばそれも致し方ないのかなと思いつつ愛用しています。自走型掃除機は、最初はごみやほこりを吸いとるだけでしたが、なんと後継機が拭き掃除に対応したのです。これはまったく違うルーツをもつ技術が、「和室は減ったけれども拭き掃除は健在」という今の日本にうまくフィットする方向に進化したという、なかなか楽しい話です。このように、新たに生まれる拭く文化もあるようです。

「濡れたもので拭く」にこだわる理由

最後に、濡れたもので拭くという行為は、その背景や合理性のみによって存在しているものなのか、その行為自体に意味はないのか、そのあたりを考えたいと思います。布を水に浸して拭き、それを洗ってまた拭くという行為に、「水で浄める」「穢れを水に流す」といった古(いにしえ)の文化の気配を感じないわけではありません。しかし、日常的にそう考えて拭いている人はほぼいないでしょう。現実とはかけ離れていますからね。

基本的には、ごみやほこりを集めるうえでの効率性が、濡れたもので拭くことを人々が選んでいる理由だと思います。雑巾を洗って水に流すという汚れの処理も、落ち葉を燃やしたり、箒で塵芥を縁側から掃き出したりするのと感覚的には似ていて、なじみがいいようにも感じます。

ただし、汚れの程度にかかわらず「掃除の最後は濡れたもので拭いておきたい」というこだわりには、若干の特別性があるのは理解できます。

民俗学者の柳田國男は、「日本人はなぜ糊で固めたパリパリの浴衣を着るのか」を考え、着物のルーツにその理由を見出しました。今でこそ浴衣は木綿ですが、かつて日本ではシナノキのような木の皮から繊維を取り出して衣服をこしらえていました。当然ゴワゴワしていて痛いぐらいに硬いわけですが、風通しがいいというメリットもあったのですね。こういう素材ならば、高温多湿な日本の夏でも汗で衣服が体にまとわりつかない。浴衣に糊をあてるのはその名残だと言うのです。しかし今ではそうした機能的な理由を知らずとも、浴衣はパリパリにして着るのがあたりまえだと思っている人がほとんどでしょう。

掃除の最後は濡れたもので拭くことにこだわるのも、これと重なります。理由をもって普及した文化が、生活に根づいて感覚化し、状況が多少変化してもその感覚だけは強く残っている―。そんな現象なのかもしれません。

この感覚は、祖父や祖母と拭き掃除をした経験があり、母親が濡れた布巾で食卓をきれいにするのを見てきたような世代ならば、普通に受け継ぐでしょうね。雑巾や布巾は使わずとも、ティッシュペーパーにアルコールを吹きかけて拭く世代も、ギリギリ受け継ぐでしょう。しかし、その先はどうなるかわかりません。私の世代がその行く末を見届けるのは、ちょっと難しそうですね。

「玄関で靴を脱ぐ」という習慣がある限り、「拭く」行為はなくならないだろう

「玄関で靴を脱ぐ」という習慣がある限り、「拭く」行為はなくならないだろう



(2017年12月14日取材)

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