機関誌『水の文化』59号
釣りの美学

食の風土記11  佃煮(東京都中央区)
漁民から全国へ広まった「佃煮」

佃島で生まれ、全国に広まった「佃煮」

佃島で生まれ、全国に広まった「佃煮」

水と風土が織りなす食文化の今を訪ねる「食の風土記」。今回は東京都中央区佃発祥の「佃煮」です。酒のつまみやご飯のお供に欠かせない佃煮は、もとは売り物にならない小魚を塩で煮詰めた保存食でした。佃島の漁民たちによって生まれた佃煮は、どのように各地へ広がっていったのでしょうか。

佃島漁民と徳川家康の縁

江戸時代は漁師町で、近海漁業や魚商売に携わる人々が多く住んだとされる隅田川河口の佃地区(旧佃島)。当時の名残をとどめる掘割の船溜まりや家々の間を細く延びる路地、ひらけた軒先に揺れる洗濯物など、古きよきまちなみの風情は今も健在だ。

佃煮発祥の地として知られる佃地区には、現在3軒の老舗の佃煮屋が残る。『日本民俗大辞典』によれば、佃煮は「魚介などを醤油、砂糖、さらには水飴などで調味煮熟(しゃじゅく)した保存性のある食品の総称」とある。佃煮は、どのようにして生まれたのか。佃島の歴史や佃煮が広まった背景を聞くため、中央区立郷土天文館へ足を運んだ。

1590年(天正18)、徳川家康の江戸入府にあたり、摂津国西成郡佃村(大阪市)より漁師33人がこの地へ移住してきたことが佃島の始まりとされる。

摂津国に居住し漁業を行なっていた佃村漁民は、家康が住吉神社(大阪市)に参拝する際、増水していた神崎川(かんざきがわ/当時は三国川[淀川水系])の渡船御用を勤めたことを機に、のちに江戸城の御菜(みさい)魚上納を命じられるようになる。なぜなら当時の関東の漁業技術は関西に比べ劣っており、一度の漁獲量が少なかったためだ。

「春先、産卵のために川を遡上してくる半透明な近海魚の白魚(しらうお)の脳髄が徳川家の『三つ葉葵の紋』に似ていたことから縁起がよいとされ、家康が特に気に入り上納させたといわれています。資料館には漁師が献上していた白魚献上箱も残っています」と、学芸員の増山一成(ましやまかずしげ)さんは言う。

関西漁民の移住には都市政策的な面もあったため、佃島漁民は江戸のどこでも漁業を行なってよいとされる「御免書(ごめんしょ)」を幕府からもらうなど、手厚い保護を受けた。

幕府から干潟を拝領した漁民たちは、島を築き佃島と名づけ、1646年(正保3)に故郷である摂津国の住吉神社の神霊を祀った。

  • 佃島の漁民が故郷である摂津国の住吉神社を分社してできた佃一丁目の住吉神社

    佃島の漁民が故郷である摂津国の住吉神社を分社してできた佃一丁目の住吉神社

  • 情緒あふれる佃地区の掘割

    情緒あふれる佃地区の掘割

  • 中央区立郷土天文館で総括学芸員を務める増山一成さん

    中央区立郷土天文館で総括学芸員を務める増山一成さん

  • 佃島の漁民が故郷である摂津国の住吉神社を分社してできた佃一丁目の住吉神社
  • 情緒あふれる佃地区の掘割
  • 中央区立郷土天文館で総括学芸員を務める増山一成さん

住吉神社で振る舞われた佃煮

佃島漁民は将軍家の御菜魚上納のほか江戸市中へも鮮魚を販売したが、獲っても売り物にならない小魚が佃煮になった。佃煮というとしょうゆと砂糖で煮た甘辛い味のイメージが強いが、しょうゆがなかった時代は小魚を塩で煮詰めたものだったそうだ。増山さんは佃煮の起源をこう考えている。

「佃島漁民が江戸に来て佃煮を創作したというよりも、出漁の際の保存食としておそらく摂津の佃村にいたころから似たようなものが食べられていて、それを彼らが持ち込んだのではないでしょうか」

また、住吉神社で祭祀があったときなどに、お神酒と一緒に佃煮のようなちょっとした食べものが振る舞われていた記録もある。航海安全や商売繁盛の守り神である住吉神社には、観光客はもちろん、舟運で江戸にやってきた漁師が安全祈願をするなど、当時からさまざまな人が訪れていた。

「諸説ありますが、こうした人々のなかに佃煮がおいしいと目をつけ、商品化しようとした人がきっといたはずです。今でいうプロモーターのような。佃島の方々はもともと漁師ですから小遣い程度に売っていたとしても、いくつもの店を構えて商いをするほど商魂たくましかったかといえば少し疑問です。塩辛く濃い味つけもまた、佃煮が関東の人に好まれた大きな理由でしょう」(増山さん)

さらに安価で保存のきく佃煮は、江戸に参勤交代で来ている武士たちが郷里に帰る際の江戸土産としても重宝された。こうして徐々に各地に広まっていったのである。

伝統の味を守る甘辛い秘伝のタレ

佃地区に3軒残る佃煮屋のうちの1軒、「佃源(つくげん) 田中屋」を訪ねた。入口を入ると目の前のショーケースに特選こんぶ、あさり、しらすなど、さまざまな種類の佃煮が並ぶ。

店先まで甘く香ばしい香りが漂っていたのは、七代目店主の海老原力(つとむ)さんが、原料の日高昆布を大きな釜で煮詰めているところだったからだ。海老原さんは佃の生まれで、高校卒業後すぐに佃煮づくりの道に入り37年目になる。

「先代は子どもがいなかったので、かわいがってもらっていた私がこの店を継ぐことになったのです。佃煮づくりの工程はすべて見て覚えました」

七代目であることは確かだが、創業がいつなのかはっきりわからないと海老原さんは笑う。佃煮は、子どものころからお新香代わりに毎日食べているそうだ。

佃煮づくりは、すべて手作業だ。日高昆布の場合、硬さもあるため芯が残らないよう3時間、ものによっては6時間ゆがく。柔らかくなった昆布は落とし蓋をして一晩蒸らし、流水でしっかり洗ったものを細かく刻む。これをしょうゆに三温糖を加えた甘辛いタレで、約1時間半煮込むのだ。

タレは昔ながらの秘伝のタレで、煮終わって漉(こ)したものに、翌日またしょうゆと三温糖を継ぎ足しながら使いつづけている。「タレにも種類があり、ものによって甘さも変えています。各店で使っているしょうゆや砂糖も違うので、それぞれの店が独自の味をもっているのです」と海老原さん。

田中屋の佃煮は百貨店に少し卸しているだけで、ほとんどが店頭での直売だ。「みんなが店まで買いに来てくれるのです」と海老原さんは言う。5〜6軒あったと伝わる佃煮屋も、海老原さんが生まれたころにはすでに3軒だけだった。

増山さんは「戦後復興の過程で食生活が変わり外食なども普及するなか、佃煮の需要も少なくなりましたが、独特な風味と素材のうまみが凝縮された佃煮は、伝統的な食文化の一つとしてこれからも残っていくと思います」と語る。

渡船、川、漁師。始まりは偶然といえば偶然かもしれないが、佃煮は日本の「水文化」が結びつけた賜物なのかもしれない。

  • 「佃源 田中屋」のショーケースにはエビや昆布などさまざまな佃煮が並んでいる

    「佃源 田中屋」のショーケースにはエビや昆布などさまざまな佃煮が並んでいる

  • 発祥の地で商いを続ける「佃源 田中屋」

    発祥の地で商いを続ける「佃源 田中屋」

  • 「佃源 田中屋」七代目店主の海老原力さん。毎朝5時に起きて佃煮をつくる

    「佃源 田中屋」七代目店主の海老原力さん。毎朝5時に起きて佃煮をつくる

  • 「佃源 田中屋」のショーケースにはエビや昆布などさまざまな佃煮が並んでいる
  • 発祥の地で商いを続ける「佃源 田中屋」
  • 「佃源 田中屋」七代目店主の海老原力さん。毎朝5時に起きて佃煮をつくる

佃煮の製造工程(昆布の場合)

  • ゆでた昆布を水にさらし、泥など落としたあと、まな板の上で切る

    1 ゆでた昆布を水にさらし、泥など落としたあと、まな板の上で切る

  • 細かく切ったらまた水で洗う

    2 細かく切ったらまた水で洗う

  • 刻んだ昆布を鍋に入れてタレで煮込む

    3 刻んだ昆布を鍋に入れてタレで煮込む

  • 泡の色と昆布の色で煮えたかどうか判断する

    4 泡の色と昆布の色で煮えたかどうか判断する

  • 鍋からすくってザルへ移す。ザルの下の容器でタレを受ける

    5 鍋からすくってザルへ移す。ザルの下の容器でタレを受ける

  • しょうゆと三温糖を継ぎ足して少し煮て、また新たな昆布を投入する

    6 しょうゆと三温糖を継ぎ足して少し煮て、また新たな昆布を投入する

  • ゆでた昆布を水にさらし、泥など落としたあと、まな板の上で切る
  • 細かく切ったらまた水で洗う
  • 刻んだ昆布を鍋に入れてタレで煮込む
  • 泡の色と昆布の色で煮えたかどうか判断する
  • 鍋からすくってザルへ移す。ザルの下の容器でタレを受ける
  • しょうゆと三温糖を継ぎ足して少し煮て、また新たな昆布を投入する

取材協力:佃源 田中屋
東京都中央区佃1-3-6 Tel.03-3531-2649
(平日9:30〜17:30 / 日・祝10:00〜17:00)

(2018年4月27日取材)

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