笹川集落の水田(開田地区)を潤すU字溝の水路にかつての水路跡(白線部分)が並走する。山師たちの掘削や測量の技術が活かされた水利だ
金の産出にはいくつかの方法がある。主要な金銀山の一つ、西三川砂金山(にしみかわさきんざん)では、水路を通じて水を堤に溜めておき、一気に流し込んで余分な土石を洗い流す巧みな水利用があった。その名残は1872年(明治5)の閉山後に農山村へと転換した「笹川集落」に見ることができる。国の重要文化的景観にも指定されている山間の集落を訪ねた。
坂道を上ると、水田が広がる平坦な土地に出た。車から降りて、田に水を引くU字溝の水路をたどれば、人ひとりが通れるほどの山道に沿って森のなかへ。山肌を覆う草木の左上の方に、わずかに窪んだところがあり、その窪みはU字溝と並行して続いている。
「これは砂金採りに使われていた旧水路の痕跡です。明治5年の閉山後も、山の堤から同じ経路をたどって農業用水路に転用されてきました」
「笹川の景観を守る会」の会長、金子一雄さんが説明してくれた。
佐渡南西部を流れる西三川(にしみかわ)川の上流にある笹川集落。ここは中世から江戸時代にかけ、佐渡の砂金採取の中心地として栄えたところだ。
特に戦国末期から江戸初期にかけて産出量が伸びた背景には「大流(おおながし)」と呼ばれた水利技術の導入がある。それ以前は川底を掘り返した土砂から砂金を選り分ける原始的な方法だったが、山裾の地表を人力で大規模に掘り崩し、砂金を含んだ土砂を谷川に滑らせる。そして長距離の水路を引き、大量の水を堤に溜め込んでから、水を一気に抜いて余分な土砂を洗い流す。そして残った砂礫(されき)から大小の石を取り除いて砂金を採取するという方法である。
水路跡は集落の中心部にもある。今は道路で寸断された断面を見ると、石垣の上面に平らな石を並べ、底面に水漏れ防止の粘土を貼った幅約1.5mの石積み水路の痕跡だとわかる。山を掘り崩して出た大量のガラ石を利用し、こうした水路が網の目にようにつくられていた。
「大半の水路跡は草木に覆われましたが、子どものころはまだ原型が残っていて、よく遊び場にしたものです」と懐かしむのは「笹川の景観を守る会」の吉倉和雄さん。
西三川砂金山の隆盛は「水」なくしてあり得なかったのである。
平安時代から鎌倉時代にかけての『今昔物語集』や『宇治捨遺(うじしゅうい)物語』に、能登国(石川県)の鉄掘り集団の長が佐渡国で金を採取する説話があり、その舞台が西三川川流域とされている。そうならば、ここが佐渡の金採取のルーツだ。
笹川集落の荒神山(あらがみやま)は中世に山伏が修行したと伝わる岩山。砂金山の発見と開発には山伏が深くかかわったらしい。なるほど山伏なら野山に分け入るのはお手のもの。
水神を祀る諏訪神社の跡地に松浪遊仁(まつなみゆうにん)なる人物を紹介した立札がある。1555年(弘治元)から3年間、砂金採りをして、水神様よりも稼ぎ優先とばかりに、採取に邪魔な神社を別の地に移したそうだ。
1589年(天正17)、佐渡を平定した上杉景勝は砂金を豊臣秀吉に上納。大規模な開発が始まり、砂金稼ぎのため全国から多くの人々が笹川集落にやってきた。大山祇(おおやまずみ)神社は鉱山の安全と繁栄を祈願して1593年(文禄2)に建てられたもの。今も4月15日の例祭では「朝から晩まで集落の1軒1軒を回りながら酒盛りをする」ならわしと金子さんは言う。
一つの稼ぎ場から砂金18枚(180両、約2.9kg)を毎月上納した笹川集落は「笹川十八枚村」と呼ばれた。江戸期以降の砂金山の隆盛は、佐渡奉行所から派遣された金山役の役所および屋敷跡とされる平坦面と石垣、そして名主を務めた金子勘三郎家の茅葺屋根の佇まいなどに残されている。
1872年(明治5)の閉山後も大半の住民は離散せず炭焼きなどで生計を立てた。やがて砂金採掘の跡地や堤を田畑に替え、採掘用の水路を耕作用の水路に転じて、鉱山技術を活かした農地開発が進み、明治末期には農村へと姿を変えた。やはり「水」が集落を存続させる命綱となったのである。
ちなみに今も、集落を流れる笹川川で佐渡の小学生が親子で砂金採りのイベントに興じている。
「佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観」は、全国で63件(2018年10月時点)しかない国の重要文化的景観の一つに選定されている。
砂金採掘のため一つの山を大規模に掘削し、急斜面の孤立した山々になった景観。大山祇神社や阿弥陀堂などの信仰施設。砂金採掘で堆積したガラ石を利用した敷地境界や道路法面の石垣。鉱山技術を淵源(えんげん)とし農業に転用された水路や堤。江戸時代の絵図と大差なく集落内に継承されている、こうした重層的な価値が貴重とされた。
しかし、重要文化的景観に選定されると景観を損なわない土地利用が求められ、家屋の改修も認可が必要。なかでも道路の延長・拡幅計画が凍結される点が論議の的になり、集落で合意に達するのに3年かかった。
29軒、100人弱の笹川集落全員で構成される「笹川の景観を守る会」は、重要文化的景観に選定された2011年(平成23)の前年に発足した。副会長の盛山保さんは、「昔は砂金が採れたらしいと知ってはいても、自分たちの住んでいるところにそんな価値があるとは思いもよりませんでした」と振り返る。そして「自分たちの住んでいる地域を自分たちで守る意識が生まれたし、地域の歴史をよく知るきっかけにもなって、結果的によかったと思います」とも言う。
7〜8年前から始まった行事が秋の収穫感謝祭と冬の笹話(さわ)会。笹話会では飾り寿司や「おこしがた」と呼ばれる菓子、清冽な水が恵む手づくり豆腐など、昔ながらの郷土食を復活させている。「笹川の景観を守る会」の発足と重要文化的景観の認定は、コミュニティの活性化にもつながっているようだ。
しかも、見学や視察に来訪する人を会のメンバー、すなわち住民たちが案内している。
「地域の保全が目的なので観光客を誘致しようとは考えていません。生活の場を勝手に回られるのは困るから保全費用の足しになる程度の料金でガイドしましょう、というくらいのスタンスです」と会長の金子さんは今後について話す。
水を軸に鉱山から農村に転じ存続した笹川。砂金山由来の農山村景観は今また、住民たちの手によって未来へと引き継がれてゆく。
(2018年11月11日取材)