修理や建て替えが重ねられてできた大森町のまちなみ
人口減少期の地域政策を研究する中庭光彦さんが「地域の魅力」を支える資源やしくみを解き明かす連載です。
多摩大学経営情報学部事業構想学科教授
中庭 光彦
(なかにわ みつひこ)
1962年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士課程退学。専門は地域政策・観光まちづくり。郊外・地方の開発政策史研究を続ける一方、1998年からミツカン水の文化センターの活動に携わり、2014年からアドバイザー。『コミュニティ3.0─地域バージョンアップの論理』(水曜社 2017)など著書多数。
2019年2月現在、日本には22の世界遺産がある。昨年登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のおかげで長崎県にはさらに観光客が訪れている。一方、二つの遺産を抱えるバルセロナでは観光客が増えすぎ、市中心部から生活者が逃げ出す例も出てきている。観光客と地元の暮らし。世界遺産には効果もあれば課題もある。
では、2007年(平成19)に登録された石見(いわみ)銀山はどうか?今回、世界遺産登録後の魅力づくりを調べるつもりで訪れたが、どうも他の登録地とは異なるように見える。石見銀山の入口となる島根県大田(おおだ)市大森町には「石見銀山 大森町住民憲章」が次のように掲示されている。
このまちには暮らしがあります。私たちの暮らしがあるからこそ世界に誇れる良いまちなのです。
私たちはこのまちで暮らしながら人との絆と石見銀山を未来に引き継ぎます。
記
未来に向かって私たちは
一、歴史と遺跡、そして自然を守ります。
一、安心して暮らせる住みよいまちにします。
一、おだやかさと賑わいを両立させます。
平成十九年八月 制定
「おだやかさと賑わいの両立」とはどのような意味なのだろうか。
石見銀山観光の中心地・大田市大森町は人口400人。ここに年間約37万人の観光客がやってくる。江戸時代には石見銀山の代官所、明治以降は旧邇摩(にま)郡役所があった中心地で、1956年(昭和31)に大田市と合併した。
銀山地区には鉱山、そして銀山を管理した武家、町家、代官所のまちなみが残り、1987年(昭和62)に、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
ユネスコ世界遺産委員会で世界文化遺産(以下、世界遺産)に登録されたのは2007年(平成19)。国際記念物遺跡会議(ICOMOS)による「登録延期」勧告を覆しての決定だった。
登録延期の勧告理由は、修景(注1)の繰り返されたまちなみに「顕著な普遍的価値があるのか」と疑問がもたれたためだった。大森町には人々が暮らしており、修理・建て替えは繰り返される。暮らす人々には、このまちなみが文化財という思いがあり、修景のときは景観の調和に協力してきた。この「使いながら手入れされてきたまちなみ」が世界文化遺産として保全すべき対象なのかどうかと議論を呼んだわけだ。結局日本政府は、石見銀山を鉱山と環境保全を両立した鉱山遺産と説明を変え、登録を勝ちとった。
この例は、木材特有の「腐る・朽ちる」という条件のなかで、暮らしつづけながら修理しつづけ景観を保全することと、「昔のまま」と考えて保全する常識の間に、空白領域があることを私たちに教えてくれる。
(注1)修景
都市計画・道路計画などで、自然の美しさを損なわないよう風景を整備すること。
ここで世界遺産としての石見銀山を説明しておこう。
登録地域は「銀鉱山跡と鉱山町」、そこから港まで銀を運んだ「街道(石見銀山街道)」、「港と港町」の三つの分野からなる。港は鞆ケ浦(ともがうら)と沖泊(おきどまり)、そして銀山に必要な物資を搬入した温泉津(ゆのつ)である。
銀山地区の目玉は、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道に入れることである。われわれは「大久保間歩」を実際に案内してもらった。ここは江戸幕府の初代銀山奉行・大久保長安の名を冠した坑道で、約1000ある間歩のなかでも最大規模という。予約制でガイドと一緒でなければ入ることができない。
大久保間歩の見学は、石見銀山世界遺産センターに集合してから10分ほどバスで移動、そこから徒歩で巡る約2時間30分のコースだ。途中、金生坑(きんせいこう)と呼ばれる水抜き坑を眺めながら歩くと目的の大久保間歩に着いた。手掘りの跡が残り、今も銀の痕跡がよくわかる。石見銀山ガイドの会、小沢忍さんの説明が実にわかりやすい。ガイドはおよそ60人いる。翌日、まちなかを案内していただいたガイドの伊藤壽美(すみ)さんも地元の人ならではの説明だった。ガイドの会は、石見銀山のすばらしさやまちの魅力を伝えている。
そういえば、まちなかに有料駐車場がない。中央部に無料駐車場があるだけで空き地に有料駐車場をつくらせない。しかもメインストリートは、日中は一方通行。まちなかの狭い道路が車の行き来で混雑しないようにコントロールされている。人々の暮らしに支障が出ないように、過剰な賑わいが上手に抑えられている。
銀山の歴史についてくわしく教えてくれたのは、大田市教育委員会 教育部 石見銀山課の遠藤浩巳(ひろみ)課長と石見銀山資料館学芸員の藤原雄高(ふじはらゆたか)さんだ。石見銀山資料館の建物は幕府の代官所跡で、1902年(明治35)に建てられた郡役所をリフォームしたもの。県や市ではなく住民が化財資料館を自主運営しているのも珍しい。
魅力ある場にはおもしろい人々がいる。まずお会いしたのは三浦類(るい)さんだ。
大森町には石見銀山生活文化研究所(以下、生活文化研究所)という有名なアパレル・ライフスタイル企業と、義肢装具メーカーでこちらも世界的に有名な中村ブレイス株式会社が存在する。人口400人の町に二つの企業が立地している「企業城下町」と呼んだら言いすぎだろうか。しかも、どちらも「大森町・石見銀山」を前面に出しているところに、地元を愛しつつ世界展開を考える志向を感じさせる。
三浦さんは生活文化研究所の社員で『三浦編集長』という名の広報紙を編集している。自社の商品ではなく、大森町の暮らしの魅力を紹介しているのだ。
生活文化研究所は、まちの中心から少し離れた場所にある。外から見ると田んぼの奥にある庄屋のようだが、中に入ると現代的なオフィスが現れ「こんにちは」と一斉に挨拶された。三浦さんは「大森町の小学生は知らない人にもみんな挨拶しますから」と話すが、われわれは社員全員からその洗礼を受けたようだ。店舗、事務所、作業場、倉庫と拝見したが、皆さんから挨拶される。このような企業にはなかなかお目にかかれない。
三浦さんは愛知生まれで、東京の大学を出て大森町にやってきた。その彼が大森町を「都市コミュニティ」と呼ぶのは興味深い。大森町は、元は郡の中心地なので人々のつきあいがベタついていないのだ。「このまちの人はみんなこのまちが好きです。地元愛がすごく強い」と言う。三浦さんはまだ学生だったとき、生活文化研究所の創業者で現会長の松場大吉さんと出会ったが、松場さんは自身の会社の話をまったくしなかったそうだ。
「大森町の人や暮らしのお話ばかりでした。まちの人たちも見知らぬ学生にごはんを食べさせてくれたり、一緒に海へ遊びに行ったりする。とても心地よかったんです」。三浦さんは2011年の春に入社し、大森町で働きはじめる。
「住民憲章」に掲げられ、三浦さんも惹かれている「おだやかさ」とはどのような意味なのか?
三浦さんは「本来ある日常、平穏な暮らしということで、ないものは自分で工夫するということです」と言う。私たちは「ないときは買う」という一般的な経済の尺度で物事を考えがちだが、工夫して価値をつくるのが大森町の文化なのだろう。続けて三浦さんは「このまちに、文化財は大事だと気づいた人がいました。大森町文化財保存会の方々です」と言う。
三浦さんの口から出た大森町文化財保存会はまちづくりの推進役だ。その現会長である龍泉山西性寺(さいしょうじ)のご住職、龍善暢(たつよしのぶ)さんにもお話を伺った。
大森町文化財保存会は60年ほど前の1957年(昭和32)に大森町の全町民を会員として発足した。その後、大森小学校には石見銀山遺跡愛護少年団(以下、少年団)も結成され、「自分たちのまちなみが文化財である」という気持ちを強くもつようになっていったと言う。実際に昭和30年代のまちなみの写真を見ると、朽ちる建物も多かったようだ。それがどんどん修築(注2)、修景されて現在のまちなみ景観がある。なぜなのか。
少年団出身の住職は「そもそもこのまちには何をイイと感じるかの審美眼=センスをもっている住民も多い」と言う。このことが「家はどこでも買えるけれど、借景は買えないですから」と景観を大事にする気持ちにつながるのではないかと語る。
暮らしのおだやかさを求める心と、景観がみんなのものであるとの認識が融合した文化。ここに大森町の核心がありそうだ。
(注2)修築
建築物をつくろい直すこと(修理・修復)。
大森町のまちづくりにかかわった人々の聞き書き集『銀のまちをつくった人たちの話』(NPO法人緑と水の連絡会議 2012)という好著がある。そこには中村ブレイス・現会長の中村俊郎さんが住民と市と協力して60軒ものまちなみ保存を行なったことが記されている。古民家を壊しもせず、朽ちさせもせず、プレハブ住宅にもせず、集落消滅もさせず、「昔のまま」の景観が残っているのは驚きであるし、重要だ。
大森町の人々は、「住民による文化財保全」と「おだやかな生活重視」を結びつけ、「世界遺産登録はおだやかな生活の手段」と思っている。それを二つの有力企業が支援し、その企業は大森町の価値を前面に押し出している。
湿気の多い環境では、暮らしが変われば建物も変わる。環境に合わせながら何度も修景し「昔のまま」を追求する。この「適応的リユース(Adaptive Reuse)」によりできあがる「文化景観」は、今後さらに重要となるだろう。
大森町の人口は現在400人。しかし、私には、小さな都市の先駆例に思える。
あえて観光地にせず、生活の舞台を文化財と認識することで、価値を生み出す景観がつくられる。
(2018年7月20〜22日取材)