東川町の商業は、旭川市に隣接した都市近郊型として、家族経営を主とした小規模店が多い。東川町で生まれ育ち、家業を継いで商売を営む人たちは今の状況をどのように考えているのか。1986年(昭和61)の木彫看板設置事業を端緒に「木彫看板すとりーと」をつくってきた商工会の先輩と現役の青年部員に話を聞いた。
東川町の中心市街地にある店舗に掲げられた木彫看板。町内のクラフトマンの手によるもの
曽祖父の代から豆腐店を営んでいる宮﨑伸二さんは、東川町商工会青年部員でもある。
「お祭りなどのイベントを手伝ったり、町のためのボランティア活動が主体です。コロナ禍では、テイクアウトできる飲食店をピックアップして、いち早く町内にチラシを撒きました。それが波及し、町も力を貸してくださり、出前システムにまで発展したのが、最近の大きな出来事です」
2020年(令和2)4月から町役場では、事業主や個人の「少しだけ手伝ってほしい」要望と住民の「少しだけ働きたい」要望をつなぐ「しごとコンビニ」のしくみを始めた。パートやアルバイトの雇用契約ではなく、案件ごとの業務委託契約で自分の都合に合わせ、登録した東川町民が働く。商工会青年部のテイクアウトのチラシをきっかけに町が動き、このしくみを活用して出前に対応──速やかな官民コラボに東川らしさの一端が窺える。
青年部員は賛助も含めて16名。移住者も加盟しているが、地元の商工業者の後継ぎが8割という。ちなみに伸二さんは、兄と父を相次いで亡くし5年前に知的障がい者施設の仕事を辞めて家業に入った。考案した豆乳ソフトクリームなどの新商品が観光客にも人気だ。青年部として目下の課題は「OBも賛助部員として手伝ってくれますが、45歳定年制なので新部員の獲得が重要」と話す。
そのためには、東川町へ移住して起業する人たちに期待したい。
「町内のイベントでは協力し合っていますし、私より少し下の世代は移住者と地元民が一緒に独自のイベントも行なっていますよ」
東川町の飲食店は不定休の店が目立つ。仕事は楽しく生きるための手段と考え、趣味などを犠牲にしない。そんなスローライフで商売している人が結構多いようだ。「そこが東川らしさかもしれません」と言う宮﨑さん。スローライフの店が増え、休業日が各々ずれれば利用客も不便を感じない。
「東川町に移住して起業する方は今も増えています。これをきっかけに、多くのお客さまを取り込み、事業を継続していきたいです」
中心市街地の商店には木彫看板を掲げている店が多い。木工芸が盛んな東川らしさのシンボルの一つといえる。この設置事業を進めたのは約35年前の東川町商工会青年部。創業60年を超える洋菓子店「ゝ月庵(てんげつあん)」二代目の高島郁宏さんは当時、部員として携わった。
「始まったばかりの『写真の町』事業に合わせ、写真映りのよいまちにしようと、僕らの先輩がヨーロッパの視察旅行で見た鉄の突き出し看板から発想しました。最初は自分たちで彫ったのですが、素人だから当然うまくいきません。ふと気づけば、東川にはクラフトマンがたくさんいます。専門家の力を借りたら、自ずと新たなつながりも生まれてきたんです」
仕事を終えて仲間が集まり言いたいことを言い合いながら、町の未来に思いを馳せる。高島さんはそんな時間を大切にしてきた。
「東川らしさってなんだろう。それを考えつづけてきました。いつも見守ってくれる大雪山の旭岳、そこから流れてくる地下水など自然の恵みではないか、と言う人もいれば、空港や旭川に近い地の利ではないか、と言う人もいます。立場や職業でそれぞれ違う。答えは出なくても、そういうことを熱く語り合うのが一番大切ではないかという気がしています」
高島さんは高校を卒業し28歳までケーキ職人の見習いのため、東川を離れていた。帰ってきて商工会青年部の活動を始めたとき、先輩が親身になって話を聞いてくれたことを今でも忘れない。この町の人は移住者にも同じようにやさしく広い度量で接するのだろう。新参者も10年ほど経てば歳を重ねてすっかり地元の人になる。
「そうやって世代がつながり価値観を共有し、うまく回っていくと、いつまでも元気な町でいられるのでは」と高島さんは考えている。
(2020年11月19、21日取材)