機関誌『水の文化』72号
温泉の湯悦

温泉の湯悦
概説

温泉地は今も昔も「平和のアジール(聖域)
──日本の温泉略史

日本は世界でも有数の温泉国だ。宿泊施設を備えた温泉地数は全国で約3000、著名な温泉地だけで660あるという。温泉は昔から保養や療養などに利用され、戦乱期には戦いで負った傷の治療にも使われた。農民たちの田植えが一段落したときの「泥落とし」や収穫した後など農閑期の湯治は「日常生活からの解放」でもあった。『温泉の日本史』を上梓し、日本温泉地域学会会長も務める温泉評論家の石川理夫さんに、日本における温泉の歴史についてお聞きした。

石川 理夫さん

インタビュー
温泉評論家
日本温泉地域学会 会長
石川 理夫(いしかわ みちお)さん

外資系出版社などを経て温泉評論家に転身。2004年から環境省中央環境審議会温泉小委員会専門委員を務める。『温泉で、なぜ人は気持ちよくなるのか』『温泉法則』『温泉巡礼』『温泉の平和と戦争』『本物の名湯ベスト100』『温泉の日本史』など著書多数。近刊に『一生に一度は行きたい温泉100選』。

共同湯を核とした温泉地域共同体

日本列島に住む私たちにとって温泉はとても身近なものです。痕跡こそ見つかっていませんが、縄文人も入浴や煮炊きなどに使っていた可能性もあります。

文献に初めて登場する温泉地は「伊余湯(いよのゆ)」、伊予国の道後(どうご)温泉(愛媛)です。712年(和銅5)成立と伝わる『古事記』に記されています。また、「温泉」という言葉が初めて使われたのは733年(天平5)に完成した『出雲国風土記』。玉造(たまつくり)温泉(島根)など5カ所が記載されています。その後の『万葉集』にもいくつか温泉の言及があり、平安時代には物語や日記などで温泉がいろいろな形で出てきます。

そして、仏教の伝来は温泉地の形成に大きな影響を与えました。奈良時代の行基、そして平安時代初期の空海、この二人が温泉を開いたという伝説が各地に残っています。二人とも社会事業に携わっていたこと、空海は山岳修験者として各地を巡っていたこと、鉱物資源や水、温泉などのありかに詳しいといった点で共通していますが、すべてがそうだったとは考えにくい。後を継いだ修行僧や聖(ひじり)らによって開かれた泉や温泉についても高名な二人の名がつけられた。それが実際のところでしょう。

室町時代になると、「惣湯(そうゆ)」と呼ばれる共同湯を核とした温泉場が形成されます。代表例が石川県の山中温泉。『山中温泉縁起絵巻』には、屋根を掛けた泉源に老若男女が湯ふんどしや湯文字(ゆもじ)(注1)などの湯具を着けて混浴している様子が描かれています。中世には、温泉や水、山林を天与の恵みと考え、皆で管理して使う惣村的な温泉地域共同体が発展します。

(注1)湯文字
腰巻あるいは身に巻きつける布のこと。女性が入浴のときに身につけた単(ひとえ)、湯具を指す。

山中温泉開湯の伝承をまとめた絵巻物『山中温泉縁起絵巻』。泉源浴場の周囲に物売りや琵琶法師も集まり、店や宿ができる 山中温泉医王寺蔵

山中温泉開湯の伝承をまとめた絵巻物『山中温泉縁起絵巻』。泉源浴場の周囲に物売りや琵琶法師も集まり、店や宿ができる 山中温泉医王寺蔵

平和中立地帯だった日本と欧州の温泉場

戦国時代には「隠し湯」が現れます。有名なのは武田信玄で、山梨県の下部(しもべ)温泉や増富(ますとみ)ラジウム温泉など「信玄の隠し湯」と呼ばれる温泉場が残っています。戦国武将は農閑期に領内の農民を兵士として雇って戦をしていました。現代より人口が少ない当時、兵士が傷を負うと戦力が低下しますし、そうした傷病者を放置すれば「あんな目に遭わされたらたまらない」と農民たちが領内から逃散(ちょうさん)するかもしれません。そこで療養の場として領内に温泉を整備しました。隠し湯は傷病兵士たちの温泉リハビリセンターだったのです。

ところが有名な温泉場は湯治(注2)で人が集まるので、隠し湯にはなりません。そこで信玄は草津温泉(群馬)を1カ月間「貸し切り湯」にするよう命じます。温泉場と戦にはそんな関係もありました。

興味深いのは、昔から温泉は誰もが安らげる場所として「平和」が保障されていたことです。山中温泉は柴田勝家が制圧した加賀一向一揆の一拠点だったのですが、取り潰しはしませんでした。それどころか勝家は自らの軍勢に温泉場における乱暴狼藉を厳しく禁じます。戦乱の時代でも、温泉は敵味方なく傷を癒やし、安らげる場所でなければいけないと考えていた証です。

それはヨーロッパも同じで、18世紀中期にオーストリアとプロイセンとの間で行なわれた「七年戦争」では、傷病将兵のリハビリのため、カルロヴィ・ヴァリなど4つの温泉地を国際協定で平和中立地帯としました。

敵味方なく互いに安らげる場としての温泉──これは温泉を考えるうえで、湯に浸かる喜びと並んでとても重要なポイントです。

(注2)湯治
病気や傷の治癒を目的として温泉や薬湯に浸かる、あるいは石風呂(蒸し風呂)で汗を流すこと。のちには温泉宿に滞在して自炊しながら保養することをいう。「湯」は薬湯、「治」は治療を意味する。

時代によって変わる温泉地の魅力

戦乱が治まり江戸時代になると、温泉好きな大名は自分専用の湯殿をつくったり「御茶屋」を設けたりします。ただし自分で独占することはしませんでした。一の湯は藩主専用、二の湯は重要な家臣たち、三の湯は庶民が入ってよいとします。これは身分秩序に厳しい西日本の大名に多くて、東日本の大名はそうでもなかったようです。

幕府が倒れ明治時代を迎えると、鉄道をはじめとする交通機関が急速に発達します。すると、かつては湯治や保養の場だった温泉地が「観光温泉地」に変わり、温泉地を訪ねる人が増えるので旅館も大型化し、客が宿で入れる内湯を求めるようになる。掘削や引き湯の技術が発達したため、各宿が泉源を探して掘削を行なうと、そもそも温泉は天水がもとの有限資源ですから湧出量が減ったり、ひどいと枯渇するケースも出てきます。

さらに時代が下り新幹線や道路網が整備されると、特急列車の停車駅として賑わっていたのに新幹線が通じて素通りされ、経営に苦しむ温泉地も現れます。

ではどうするか?好例は峠の下を通るトンネルが開通した土湯峠(つちゆとうげ)温泉郷(福島)。自然は豊かで泉質もいいし、源泉かけ流しです。「うちは秘湯です」と不便さを逆にセールスポイントに切り替えました。有名な黒川温泉(熊本)にしろ由布院温泉(大分)にしろ、自分たちの特色、魅力をつくったから人が来る。

温泉地の魅力とは、未来永劫変わらないものではないのです。

混浴の誤解を正し皆で楽しめる場へ

今、日本の温泉文化をユネスコの無形文化遺産に登録しようという動きがあります。フィンランド式サウナは2020年に登録されましたが、国民がサウナを愛して大事にしています。ところが、日本人はみんな温泉が大好きなはずなのに、なんとなく温泉を「娯楽」や「遊び」と捉えている感じがします。例えば私が「国民保養温泉地」の調査で現地を訪ねたとき、同行者は「昼間から温泉に浸かるのは……」と人の目を気にして入浴しなかった。これは残念なことです。

古来、温泉は疲れた体を回復させる場であり、敵味方なく傷を癒やした平和な聖域であり、戦時中に子どもたちが疎開した場所でもある。それを忘れてはなりません。

混浴に関する誤解も温泉が軽んじられる理由の一つかもしれません。『山中温泉縁起絵巻』では、男性は湯ふんどし、女性は湯文字などを着用し和気あいあいと混浴しています。「混浴は裸で入るのが伝統だ」などと主張する人もいますが、裸で入る方が実は歴史は浅い。湯あみ着を着用すれば、たとえ体に傷がある人も入湯しやすいですし、ジェンダーレスの時代にもそぐうことになります。

私たちは、コロナ禍で不便な生活を強いられています。テレワークで自宅にこもるとストレスがたまりがちですが、温泉は硫化水素など有毒ガスの問題があるため、換気には十分注意していますので、リラックスとリフレッシュの場として温泉を積極的に楽しんでほしいと思います。

My favorite hot spring

石川さんお気に入りの霊場温泉「姥子(うばこ)温泉」(箱根)湯治場と山岳信仰の起源を今に伝える 提供:姥子温泉秀明館

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(2022年8月8日/リモートインタビュー)

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