新潟県には温泉が多く、30市町村すべてに必ず1つは温泉場がある。2019年度に「越後佐渡の温泉文化」を企画した浅井勝利さんに、江戸時代の湯治への認識と湯治場の様子についてお聞きした。
インタビュー
新潟県立歴史博物館 学芸課 課長
浅井 勝利(あさい かつとし)さん
1963年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部史学(日本史)卒業。2000年に開館した新潟県立歴史博物館で研究員として働き現在に至る。専門は日本古代史。2019年度冬季企画展「越後佐渡の温泉文化」を企画。温泉ソムリエマスター(一つ星温泉ソムリエ)。
昔から温泉を利用する人たちの一番の目的は「湯治」だったと思います。医学が発達する以前は、病にかかる、傷を負うと頼る手段がなかなかありません。最終的には温泉に頼る以外に道はなかったわけです。温泉に浸かって療養することで、病が治りやすい、傷が早く治るということを経験則として知っていたのでしょう。
湯治は「七日一巡りで、三巡りを要す」とされます。これは7日間を1クールとして、3回繰り返すとよいという意味です。江戸時代の人が湯治についてどう考えていたのかはいくつかの史料・書籍から窺い知ることができます。
貝原益軒(かいばらえきけん)の『養生訓』は江戸中期の1713年(正徳3)に出た大衆衛生書です。貝原は「病気によって入ってよいのと悪いのとがある」「湯治してよい病気は外傷で、内臓の病気には温泉は合わない」「温泉を飲んではいけない」「湯治が合わず他の病気がおきて死んだ人も多い」など、湯治が万病に効くと思うのは誤りだと警告しています。また湯治における入浴は、一日に3回以上入るのはいけない、体の弱い人は日に1~2回でよいと記しています。
一方、八隅蘆庵(やすみろあん)が1810年(文化7)に著した『旅行用心集』では、「症状に合う温泉をうまく使えば万病に効き、医者も薬もかなわない」として、湯治をする人は温泉の効き目を信じて大切に使うべきと説いています。入浴方法は、最初の1~2日は1日につき3~4回に留め、体に合うようなら5~7回までは入ってもいいとしています。また、湯治をしている間は、食べすぎ、飲みすぎ、性行為、冷たい食べものなどは控えることとも記しています。
貝原と八隅では100年の隔たりがありますから違いもありますし、今読むと「?」という部分も多いですが、温泉および湯治への興味関心の高さがわかります。
では、江戸時代の庶民はどんな湯治をしていたのでしょうか。
長岡藩領の庄屋の家の者が湯治旅をしたときの記録があります。その一つが『栃尾俣入湯ニ付入用并諸事覚書』。これは1855年(安政2)7月から8月にかけて栃尾又温泉(新潟県魚沼市)で湯治をした中村新平・政次兄弟の記録です。この兄弟は庄屋の息子で、7月3日未明に荷役の2名を伴い出発、同日夕方には栃尾又温泉の宿に着き、入湯しています。
兄弟は茶碗、飯椀などを運び込み、鍋釜は借りたようです。夜着や胴着などの衣類から煙草入、下駄までしっかり準備しており、食材は現地で調達したようですね。湯治場で親しくなった者たちとの会合に用いたとみられる出費もあります。弟の政次が21日間の湯治を終えて先に帰り、兄の新平は33日間滞在して家に戻ります。
この間の滞在費は二人合わせて一両一分銭四貫三八五文でした。江戸時代のお金を現代の貨幣に換算するのは難しいですが、数十万円かかっているとみていいでしょう。これは庶民が簡単に用意できる金額ではない。庄屋の息子たちだからできた湯治旅です。
ただし、こうした湯治客は食材や生活用品を現地でよく買っていますから、彼らに野菜や総菜を売ることは、地元の農民にとって貴重な現金収入だったでしょう。
また、あまり裕福ではない普通の農民に関する湯治の記録は残っていませんが、農閑期に近所の温泉へ行って骨休みする程度であればさほどお金はかかりません。江戸時代にはかなりの数の農民も湯治していたと考えられます。
(2022年8月4日取材)