機関誌『水の文化』73号
芸術と水

水の余話
遙かなる大海原を越えて

宝順丸の音吉たちが漂着したと伝わるフラッタリー岬 2007年8月19日 筆者撮影

宝順丸の音吉たちが漂着したと伝わるフラッタリー岬 2007年8月19日 筆者撮影

 

斎藤善之

斎藤 善之(さいとう よしゆき)

東北学院大学経営学部教授。1958年生まれ。1987年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得。1995年「内海船と幕藩制市場の解体」で文学博士。日本福祉大学知多半島総合研究所嘱託研究員などを経て現職。専門は日本近世史、海運港湾史。

 
 

以前アメリカに滞在する機会があり西海岸の港町を調べて歩いた。その際念願だった西海岸に漂着した日本人漂流民の足跡も訪ねてまわった。

江戸時代の漂流事件は400件余り知られているが、そのうちアメリカ西海岸に漂着したのは4件のみで、うち2件は尾州廻船であった。ひとつは文化10年(1813)に漂流した名古屋の廻船督乗丸(とくじょうまる)で、知多半田出身の船頭重吉が残した『船長(ふなおさ)日記』で知られる。彼らは世界の漂流史上で最長記録とされる484日もの漂流の末、カリフォルニア沖でイギリス商船に救助され、サンタバーバラに上陸した。そこは当時スペイン領で、現在も残るオールドミッション(キリスト教伝道所)は1786年創建とされるから、重吉ら漂流民たちも目にしたであろう。彼らはどのような思いでこれを眺めただろうか。

もうひとつは天保3年(1832)に漂流した知多半島小野浦の廻船宝順丸(ほうじゅんまる)で、1年2カ月の漂流後、カナダ国境に接するワシントン州オリンピック半島フラッタリー岬付近に漂着したとされる。そこは今、オリンピック国立公園となり豊かな自然が残されている。森のなかのトレイルを抜けるとそこに壮大な太平洋の大海原が広がる。今から190年ほど前、遠州灘からおよそ1万km、14カ月の漂流の末に音吉たち3人の水主(かこ)がこのあたりに漂着したのであった。その断崖に立った時、この大海原がはるかな日本とたしかにつながっているという実感が押し寄せてきた。

ちなみに東日本大震災から1年9カ月を経た2012年12月、オリンピック半島のこのあたりに青森県の港から流出した浮桟橋(うきさんばし)が漂着している。

督乗丸の重吉たちが上陸したサンタバーバラにあるオールドミッション 2015年8月4日 筆者撮影

督乗丸の重吉たちが上陸したサンタバーバラにあるオールドミッション 2015年8月4日 筆者撮影

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