米がなかなか育たない標高の高い土地や荒れ地でもソバは育つ。しかも、種を蒔(ま)いてから75日前後で実を結ぶため、米の代用品、いわゆる救荒作物としてもそばは古くから食されてきた。かつては水を動力に変換する水車を石臼につなぎ、製粉していた地域も多かったが、今は全国的に数えるほど。希少となった、水車で挽いた粉を手打ちして供するそば店があると聞き、北東北に向かった。
雪が舞うなかよどみなく回る「森のそば屋」の水車。この動力を用いてそば粉を挽く
川から引いた水流で回る水車。水車小屋では、その動力が3枚の木製の歯車を伝って、石臼を回す。
「畑から来た玄ソバに交じった異物を取り除き、きれいに磨きをかけたあと、石臼で粉にします」
在来種のソバを栽培し、水車小屋でそば粉を挽くのは、「森のそば屋」の髙家卓範(こうけ たつのり)さん。回る石臼で殻が分離され実が挽かれて落ちてきたそば粉を、篩(ふるい)にかける。
「粉になりきらなかった甘皮などの部分の方に、そばの風味や甘味がたくさんあるんです」
篩に残ったそれらを、床に穿(うが)たれた搗(つ)き臼に入れ、水車の動力を利用した杵(きね)でゴットン、ゴットンと搗く。「23kgの重さで1分間に50回ほど搗きます」と髙家さんは言う。それを石臼で挽いたそば粉に混ぜて完成だ。黒っぽい田舎そばの香しい滋味が生まれる秘訣が、ここにあった。
岩手県葛巻町(くずまきまち)江刈川(えかりがわ)地区の「森のそば屋」。盛岡駅から北東へ車で約1時間30分の山間地で集客は年間1万人を超える。土地の在来種を使い、昔ながらの水車でそば粉を挽いて、地元の「髙家領水車母さんの会」が手打ちする。近隣の産地直売所「みち草の驛(えき)」と合わせ、30人以上の「お母さん」が働いていたこともある。地域ならではの特長を活かして付加価値を高め雇用を創出したコミュニティビジネスの成功例として知られている。
と同時に、刈り取ったソバを束にして自然乾燥させる「島立て」と呼ぶ風景から水車挽きまで、水に関わる伝統の手法をそばづくりに残す貴重な営みでもあるのだ。
標高550m、昼夜の寒暖差が大きい江刈川地区は、ソバの栽培に適した土地だ。地元のお母さんたちは、昔からよく家でそばを打っていた。葛巻小学校江刈川分校(2005年に閉校)では、戦後まもない1951年(昭和26)の卒業式から、水車挽きの粉を使ったお母さんたちの手打ちそばが振る舞われた。以来、分校の行事があるたびに、そばを打つのが恒例になったという。
葛巻町役場の職員だった髙家さんは「そばで地域おこし」を考える。「平成の初め頃でしたから、町・村役場や商工会、農協ではなく一つの集落が『そば祭り』を主催するのは全国でも珍しく、マスコミが飛びついて人を集められるだろう、と自信はありました」
しかし、反対する人が出てそば祭りの企画は頓挫した。
折しも、髙家さんは近隣に自宅を新築。元の家が空き家になった。「『いっそのこと、ここでそば屋でもやろうか……』と呟いたら、妻がすぐ『やろうよ!』と飛びついてきました」と笑う。
妻の髙家章子さんが主導し卓範さんが夜間や休日に補助する家業として町役場からも認められた。
江刈川地区の集落「髙家領」では「髙家領水車組合」が水車を共同管理している。1987年(昭和62)に東京・日本橋髙島屋の催事「全国そば紀行」に招待され、髙家領水車組合のお母さんたちの手打ちそばが、2日間で1500食も売れたことがあった。
「水車組合のお母さんたちと一緒に旧宅でそば屋をやりたい、ついては水車も使わせてほしい――水車組合の会で、夫とそう持ちかけました。最初は渋っていた『お父さん』たちでしたが、しばらくして『やらせてみるべ』と言ってくださったのです」と章子さんは言う。
こうして55世帯、約200人の小さな集落に1992年(平成4)11月、「森のそば屋」が開店した。費用はすべて髙家夫妻が負担し「髙家領水車母さんの会」(髙家章子会長)が運営する。
「『こったな田舎まで誰がそばを食いに来るものか』という声も聞こえてきました」と章子さんは振り返る。しかし、「味には自信があったし、女性たちが地域おこしで立ち上げたそば屋、という話題でも人を呼べると思いました。数百万円(旧宅の改修費)の自動車を買って乗り潰したと考えれば、やらないで後悔するより、やって失敗したほうがいい、と思った」と卓範さんも話す。
そば好きの集まり「盛岡手打ちそばの会」の会員にハガキのDMを送ったり、チラシの新聞折り込みなどが功を奏し、開店初日から120人が詰めかけた。
この地域では鶏卵と豆腐をつなぎに使う。優しく滑らかな食感の後から、そば本来の風味が、ふんわり追いかけてくる。三角に薄切りしたそばをしゃぶしゃぶのようにして、にんにく味噌でいただく「そばかっけ」も独特の郷土食で、日本酒のつまみにぴったり。
そば屋の人気がすっかり定着した1997年(平成9)、近所に産地直売所「みち草の驛」を開設。働きたいお母さんたちの声に応えて雇用を増やそうと章子さんが提案した(現在は加工場として活用し、雑穀だんごなどの菓子類を盛岡市内各所に出張販売)。
水車で挽いた粉を使い、お母さんたちが心を込めて手打ちしたそばに、30周年が過ぎた今なお多くの人が魅了されている。
卓範さんは2008年(平成20)に町役場を退職した。ソバ栽培と経営事務、水車での粉挽きなど、裏方に専念し「森のそば屋」を支えている。
「ソバは水車組合の各家で栽培したのを買い取ったり、ウチの畑で賃金を払い栽培してもらっていたのですが、皆さんの高齢化で難しくなりました。会合で相談したら、ちょうど退職時期だったので『おまえが一番暇になるんだから覚えろ』と言われまして」とトラクターや軽トラを購入し「60の手習い」でソバ栽培に自ら乗り出した。農業短大出身で農業技術の知識はあったが「農機具屋さんに聞いたら『なんでも自分でやってみて、仕事から教わるのが一番』と言われ、下手なりに取り組みはじめました」と卓範さんは言う。
江刈川地区には元町川沿いに3基の水車が残り、2基が現役で「森のそば屋」のそば粉を挽いている。冒頭で触れた「髙領家水車」は1964年(昭和39)に建て替え、1995年(平成7)に増築した。使っていなかった下流の「江刈川水車」は2001年(平成13)に事業拡大に伴ない復元したが、6年後に水害に遭い水輪を補修している。
水車は、経年劣化する水輪と小屋内部の設備を15~20年周期でリニューアルしなければならない。その際は水車の新築を手がける工務店に依頼するが、歴代の大工の技術を継承する30代の若者が現れたのは心強い。他ならぬ髙家さんの娘婿、高橋孝仁さんだ。2018年(平成30)の江刈川水車の改修に参加し、親方から「あと一基つくれば一人前」のお墨つきをもらったという。
「粉挽きも経験し、水車の技術は習得してもらったので安心」と卓範さんも絶大な信頼を寄せる。
「自家栽培の在来種」「水車挽き」「手打ち」――この3条件が揃ったそばは全国でも稀だ。その風味が地域の貴重な文化遺産の一つとして末長く残されてほしい。
(2023年12月17~18日取材)