日本の多様な気候風土は、多彩なそばを育む。北前船と信濃川の舟運がもたらした海藻「ふのり」をつなぎとする新潟県の「へぎそば」を、織物との関係から探る。
のどごしがよく、歯ごたえもある「へぎそば」 撮影協力:小嶋屋総本店
新潟県南部の魚沼地方は山に囲まれた盆地で、日本有数の豪雪地帯として知られる。十日町(とおかまち)市や小千谷(おぢや)市を中心にこの辺りに伝わる「へぎそば」は、つなぎに「ふのり」という海藻を使うのが特徴だ。
海岸から遠く離れた内陸のこの地域で、海産物のふのりがそばのつなぎに使われたのはなぜなのか。そこには伝統の織物文化が関係していると知り、十日町市博物館を訪ねた。
「魚沼地方は米どころとして有名ですが、古来、織物の一大産地でもあり、江戸時代から明治時代初期にかけて越後縮(ちぢみ)は米と同じくらいの生産高を誇っていました」と学芸員の髙橋由美子さんは説明する。
魚沼地方の湿潤な気候は麻布の原料となるカラムシ(苧麻〈ちょま〉)の生育に適しており、特に冬の農閑期の副業としての機(はた)織りは人々の暮らしに欠かせない仕事だった。
中世には、この地でつくられた平織りの麻布は「越後上布(えちごじょうふ)」と呼ばれ重要な交易品となっていた。さらに江戸時代に入ると「越後上布」を改良し、縮織の技法を使った「越後縮」が誕生する。細かなシボが施され、薄くさらっとした肌触りの「越後縮」は、夏衣用の高級布として高く評価され、全国から引き合いがある特産品として、この地域を支えた。
「縮織は、緯(よこ)糸に強い撚(よ)りをかけ、経(たて)糸を糊にくぐらせて乾かしてから布を織ります。仕上げに川の水にさらして糊を落とすと、撚りが戻って布にシボが寄るのです。この糸の糊付けや洗い張りに使われたのが、『ふのり』でした。ふのりは越後国内のものだけでなく、おそらくは北前船で北海道や東北から新潟湊に持ち込まれ、それを信濃川通船の上り荷で大量に運んできたのだと思われます」と髙橋さんは解説する。
「越後縮」の商いが活発になると、十日町、小千谷、堀之内の3カ所で公認の縮市が開設された。江戸や京、大坂などから商人が集まり、大変なにぎわいだったようだ。
「大店(おおだな)の商人は半年くらい逗留して手厚くもてなされたという記録もあります。もともと当地では、ソバの実は粉にしてお湯を入れて練ったり、団子状にして焼いたりして食していたのですが、越後縮の流通に伴い江戸からそば切りの文化が持ち込まれ、普及していったのかもしれません」
かつて、この地のそばは、山ごぼうの葉や自然薯(じねんじょ)などをつなぎに使っていたが、いつしか身近にあったふのりをつなぎに用いるようになり、独自の「へぎそば」文化が確立されたようだ。
十日町地域へぎそば組合の組合長、小林重則さん(小嶋屋総本店 代表取締役)は、地元で「へぎそば」の振興に尽力している。
「へぎそばの一番の魅力は、ほかのそばにはないつるっとしたのどごしと歯ごたえでしょう。これはふのりつなぎだからこそ出せる食感です。最近は県外でもふのりを使ったそばが流行(はや)っていますが、始まりを見れば、この地に伝統の織物文化があったからこそ生まれた、まさに衣と食の文化の融合ともいえる物語性をもったそばなのです」
「へぎそば」は、盛り付けも独特だ。へぎと呼ばれる平らな木の器に、一口分ずつくるりと束ねた薄緑色のそばが整然と並べられる。かせ繰りした糸や織物を思わせる美しい意匠である。
「へぎそばは本来、日常食ではなく、親戚・知人の集まりや冠婚葬祭などのおもてなしに振舞われるものでした。3~4人前のそばを一つのへぎに盛り付け、それをみんなで囲んで食べるのです」と小林さんは言う。
雪深い土地で育まれた織物文化と信濃川の舟運が、海のふのりをこの地にもたらし、地元の人びとが愛する郷土食「へぎそば」は生み出された。宴席で最後に残ったひと振り、ふた振りのそばを互いに遠慮して「どうぞ、どうぞ」と譲り合い、そこからまた会話が弾む。そんな和やかな光景もまた、「へぎそば」ならではの楽しみかもしれない。
(2023年12月5日取材)