機関誌『水の文化』76号
そばと水

そばと水
【文化をつくる】

「そば」と「水」の不可分な関係

ゆでたあとに冷たい水で締める「へぎそば」。つなぎには海藻が使われる 
撮影協力:小嶋屋総本店

ゆでたあとに冷たい水で締める「へぎそば」。つなぎには海藻が使われる 撮影協力:小嶋屋総本店

編集部

店では「もりそば」 家では「かけそば」

「そばと水にはどんな関係があるのだろうか」とスタートした本特集。あらためてそばを考えたとき、気軽に食べているのに意外と知らないことが多いのに気づく。五穀にソバが含まれないこと、ソバは水分に弱いこと、麺状のそばの正式名称は「そば切り」であることなど枚挙にいとまがない。

取材を開始して間もない頃、福島県喜多方市山都町を訪ね、その夜は会津若松市に宿をとった。夕食は機関誌61号の食の風土記「こづゆ」でご協力いただいた「籠太(かごた)」へ5年ぶりに伺う。そばの取材で来たと店主の鈴木真也(しんや)さんに話すと、鈴木さんが思いもよらぬことを口にする。

「今からうちの店で、会津周辺の有名なそば店主たちの会合があるよ。紹介しようか」

そばの取材中にそば店主の会合に出くわすとは……。だが、こちらの知識不足で躊躇う。「いやいや、これも何かの縁だし、ヒントが得られるかもしれないじゃないか」と鈴木さんに引っ張られ、そば店主が集まる別室へ伺った。

会津若松市、喜多方市、喜多方市山都町、磐梯町でそば店を営む「會津蕎匠會(あいづきょうしょうかい)」の方々から意外な話が次々出てきて、メモが追いつかない。

保科正之公由来の信州「高遠そば」が残る会津地方では、そばを「打つ」ではなく「ぶつ」と言うこと。延し棒は江戸そばに比べて太く、延し方も角を出す「江戸流」ではなく、丸いままの「丸打ち」であること。そば包丁の形状も少し違う。「会津の包丁は刀じゃない、のこぎりだよ」と言う。

会津では、大みそかは白飯、元日はそばを食べる。「年越しそばじゃないんだ。『元日そば』『元旦そば』と呼んでいる」。そばを切って食べるのは贅沢で、ふだんは「そばがき」や「はっとう」が多かった。そばはファストフードだけど、ハレの日の食べものでもあった。

意外にも、日常ではしょうゆベースの温かいつゆに浸した「かけそば」を食す。福島県は全国有数のソバ産地なので冷たい「もりそば」を食べるだろうというのは思い込みだった。ソバの収穫は晩秋で日々寒さが増す時期。体を温めるためにも自宅では「かけそば」なのだ。

籠太での邂逅によって、土地土地で食されるそばは全国一様でないことを実感した。

  • 「宮古そば 権三郎」の関口久美さんが使うそば包丁。農鍛冶につくってもらったそうだ

    「宮古そば 権三郎」の関口久美さんが使うそば包丁。農鍛冶につくってもらったそうだ。持ち手や形状が一般的なそば包丁(次の写真)とは異なる

  • 持ち手や形状が一般的なそば包丁

    持ち手や形状が一般的なそば包丁

そばの半分は「水」でできている

そばを、水との関係から考えると何が見えてくるのだろうか。その疑問にずばり答えてくれたのは、越前おろしそばの取材でお会いした宝山(ほうやま)栄一さんだった。

「そばは打つときに粉の量の半分ほどの水を入れますし、出汁も水からつくります。ゆでるのも締めるのも水がなきゃできません。極端なことを言うとね、そばを食べることは『水を食べること』でもあるんです」

そばを打つときの水の重要性を体感したのは、いばらき蕎麦の会が主催する「そば打ち講習会」。木鉢のそば粉に水を入れて、両手を交互に回してかき混ぜ、水をなじませる作業は難しい。「包丁三日、延し三月、木鉢三年」という言い伝えがあると聞いて納得する。0(粉)から1(そば)をつくり出すそば打ちは、手を動かして物を生み出す根源的な喜びを感じるものだった。

総本家 更科堀井の堀井良教さんには、職人たちが「こうしたらどうか」と工夫を凝らすなかで、その店の水に適したつくり方が自然と定まっていくのだと教えられた。

水に弱い「ソバ」の収穫量と今後

一方、植物としてのソバは水に弱い。そこで「水を抜く」ことに力を入れているのが越前おろしそばに力を入れる福井県だ。

ソバの10a当たりの収量は30~60kg。米(水稲)は10aで500kg以上収穫できるので、ソバは米の約10分の1。しかも水に弱いソバは天候によって収量が大きく変わるうえ単価が安く、以前は流通経路に乗らなかったそうだ。

ここで全国のソバの作付面積と収穫量の推移を見てみる。(図1)

明治から大正にかけては全国でかなりの面積、量だったが、昭和に入ると減少に転じる。しかし平成にはソバが米の転作作物となったこともあり、徐々に増えてくる。都道府県別に見ると、産地としては北海道が圧倒的で2位以下は年ごとに順位が変わる。(図2)

ところが、経営所得安定対策の交付対象となる水田そのものに見直しが入った。2022年(令和4)から5年間のうちに主食用米、加工用米などの水稲作付、もしくは1カ月以上の灌水管理が一度も行なわれない農地は、2027年(令和9年)度以降、交付対象水田としないことになったのだ。これが水に弱いソバの収穫量や玄ソバの単価にどう影響するのかは注視したい。

  • 図1 国内産ソバの年次別生産状況(全国)

    出典:一般社団法人 日本蕎麦協会

  • 図2 2022年(令和4)産ソバ(乾燥子実)の都道府県別収穫量と割合

    出典:農林水産省統計部「作物統計」
    ※統計数値および割合については、表示単位未満を四捨五入しているため、合計値と内訳の計が一致しない

クロスオーバーする江戸と各地のそば文化

そばを巡る江戸・東京とその他の地方の関係。これも今回の特集で興味深く感じたことの一つだ。

江戸時代に商品経済が発展すると、「お金を払って食べる」江戸のそば文化が、つくり方も含めて地方に伝わっていく。ほしひかるさんによると、地方の人が特に驚いたのは江戸の「そばつゆ」で、紀伊田辺藩安藤家の医師が「江戸の蕎麦のつゆはうまい」と言い、文豪・志賀直哉も『豊年虫』で同じ主旨のことを書いている。「参勤交代は大名を苦しめた施策ですが、一方で食文化の広がりに貢献した面もあります」とほしさんは言う。

そもそも、そばを江戸流、会津流、信濃流と呼ぶようになったのはごく最近のこと。かつては祖父や祖母、父、母がつくる家庭料理だった。それを裏づける話を「宮古そば 権三郎」で関口久美さんから聞いた。

「昔からこの集落では外に住む親戚や知人に商売ではなく贈り物としてそばをぶって(打って)たんです。お客さんが来たときも『じゃあそばでもぶつか』とそばを振る舞った。それが『ふるさと創生事業』のときに、宮古は何もない、そばしかないとなって、そばで村おこしをすることになりました」

関口さんは子どもの頃から温かいそばしか食べなかったと言う。そばを打ってゆでておいて、食べるときは熱湯で戻して温かいつゆをかける。東日本大震災の後、温かいきのこそばをメニューに加えたものの誰一人注文しなかったので、県外から来る人は寒くても冷たいそばを望むと知ったそうだ。

一つひとつの藩が独立国のようだった江戸時代。参勤交代や買い付けで地方に出かけた商人からもたらされた、いわば人と人が出会って共有した情報がそば文化を変えた。その一端を見聞きして興味を抱くとともに、現代もさほど変わらないのではないかとも思う。

宝山さんは、月に一度は連休をとって首都圏や県外に足を運び、そばの見聞を広める。堀井さんは、京都のかけつゆなど各地に見習うことがあると話す。

「新潟へ行ったらへぎそばはおいしいなと思いますし、岩手に足を運んだときはわんこそばを食べたいです。決して江戸そばからの一方通行ではなく、互いにいろいろなところでクロスオーバーしているのではないでしょうか」

文化の一翼を担うそば愛好家たち

いばらき蕎麦の会の仲山徹さんと掛札久美子さんを、宝山さんとほしさんはご存じだった。宝山さんは2023年(令和5)の全日本素人そば打ち名人大会で掛札さんが優勝したことを我がことのように喜び、ほしさんは「お二人とは仲よしですよ」と顔をほころばせる。宝山さんと同じように、いばらき蕎麦の会のメンバーは地元の高校生たちにそば打ちを指導する。

いばらき蕎麦の会も加盟する一般社団法人全麺協の会員数は約5500人、そば打ち段位認定者数は約1万5000人。そば打ち愛好家は多い。さらに一歩踏み出し、店を構える人もいる。

福島県南会津町の旧・舘岩村で、裁(た)ちそばを供する「滝音(たきね)」の星清信さんは、もともと在来工法の大工だ。

「還暦のときに息子から『大工も長くできないだろうから何かやったら?』と言われ、『じゃあそばでも打って遊ぶか』と始めました」

駒板を使わず、布を裁つように包丁で切る裁ちそばは、隣接する檜枝岐(ひのえまた)村が発祥の地。近所に裁ちそばを打つ友人がいたので毎日通って見て覚え、練習した。裁ちそばの実演者は少なく、2013年(平成25)晩夏に北海道幌加内町の「新そば祭り」に呼ばれ、200人を前にそば打ちを披露。これをきっかけに自宅を改修しそば店を開く。

裁ちそばは湯ごねだが、星さんはそばの香りを封じ込めるため最初だけ水でそば粉を湿らせる。厨房でゆでるところを見せていただくと、そばを釜の湯に入れてから40秒後にお椀1杯の水を注いだ。

「ここで水を入れると芯まで火が通ってそばがもちもちになる。これは自分で考えたやり方です」

さらに20秒待ってそばをすくい水で締める。打ち立て、ゆで立てのそばをその場で少し食べさせてもらうと、麺がもっちりしていて、甘い香りもする。「これが水そば。この瞬間が一番おいしい」と笑う星さんは、いばらき蕎麦の会に招かれて実演したこともある。

そば打ちに魅せられた各地の人たちが、それぞれの立場からそば文化のすそ野を広げている。

福島県南会津町の旧・舘岩村にあるソバ畑。この地域の在来種が大事に育てられている

福島県南会津町の旧・舘岩村にあるソバ畑。この地域の在来種が大事に育てられている

常に寄り添い そばを支えた水

荒れ地でも実を結び、かつて一部の地域を除けば年貢の対象にすらならなかったソバ。人びとは近場で手に入るものをつなぎとしてそばを打ち、命をつないだ。浮世絵版画にそばがさほど描かれていないのは、そばがあまりにも身近だったからだ。見落とされがちなところは、そばも水もよく似ている。

翻ってそばの現状を見ると、江戸時代から続く老舗があり、手打ちと食材にこだわる第四世代が現れる一方、手軽に腹を満たせる立ち食いそば店もあり、近頃は駅構内に無人の全自動立ち食いそば店まで出現した。今、海外では日本のラーメンが人気のようだが、そばだって負けないはずだ。そもそもフランスでそば粉はガレットとして食され、パンを焼くことも可能だ。ヴィーガンやベジタリアンにも対応できる。そばの文化はこれからもいくつかのカテゴリーに分かれ、それぞれが影響を与えながら研ぎ澄まされていくだろう。

今回取材したのは、そば全体のごく一部に過ぎない。私たちが知らないそばは全国にまだたくさんある。各地を巡って、そばを題材に地元の話を聞いてみたい。自分でそばを打てば他の人のやり方も見たくなるので、やっぱりそばを追って旅することになるはずだ。

水回し、つら水、洗い水、さらし水──そば打ち用語に水が使われるのは、そばと水が不可分な関係にあるからだろう。そばが文化となる過程で水が格別に大きな働きを担ったわけではないが、水は常にそばを支え、寄り添っていた。

世界を見渡せば水が乏しいから生まれる文化もあるが、そばに関してはきれいでおいしくて豊富な水が日本にあったからこそ文化となり得たのではないか。もっと言えば、そばをはじめとする和の食すべてが水なしでは成り立たないという、当たり前だが忘れがちなことにも思い至るのだ。

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