アールー族がつくり上げた壮大な棚田 撮影:西谷 大さん
西谷 大(にしたに まさる)
国立歴史民俗博物館 館長。1959年京都府生まれ。1985年熊本大学文学研究科修士課程修了(考古学専攻)。文学博士。中華人民共和国中山大学人類学系に留学。専攻は中国考古学・東アジア人類史。2020年より現職。
中国雲南省のベトナムとの国境沿いに、者米谷(ジェーミーだに)という場所がある。七つの少数民族が高さを変えて住み、各民族で生業が異なっている。フィールド調査を開始した2007年(平成19)当時、自動車が通れる道は、谷の底の川沿いに一本走っているだけだった。国境沿いにそびえる西隆山は3074mの名峰だが、その周辺にはトラの棲む原生林が広がる。冬のとても澄み切った日暮れ時は、塵が皆無のためか夕焼けしない。まっ黒な原生林の上に広がる、まっ青の空に、まっ赤な太陽が沈んでいく。
七つの少数民族の一つ、アールー族は、者米谷の北側斜面で、海抜およそ800~1300mに住み、壮大な棚田をつくり上げている。アールー族の棚田は、とても美しくみえる。しかしこの棚田は、けっして水に恵まれているのではない。むしろ利用できる水に限りがある。
この棚田はたった一本の用水路によって灌漑(かんがい)している。水は下から上へはのぼらないので、棚田より高い位置から流れ下る川から水を引く必要があり、その長さは10kmにも及ぶ。
引いてきた水を棚田に振り分けるのだが、日本の水田でも一般的におこなう上の棚田から畦畔(けいはん)越(ご)しに、下の棚田に水を落とすという方法とはまったく異なる。限られた水を、各水田に公平に分配するため、横木に抉(えぐ)りを入れた「分水木」を一筆ごとの水田の横に設置し水を入れる。水田は斜面にそって横方向に長く水路状の形をしており、長いものではおよそ400mにも達する。
しかし、この壮大な棚田で生産したコメは7~8カ月間で食べ尽くしてしまう。アールー族は、コメの収量を上げるために原生林を切り開き、利用できる場所はすべて水田にした結果、山全体を棚田にしてしまった。しかし皮肉なことに美しく映る棚田は、コメの自給もままならない。水が無ければ棚田はつくれない。水が少なければ少ないほど、水を可能な限り利用しつくす必要があり、必死の知恵が結集している。
その恐ろしいほどまでの努力が、アールー族の棚田をより美しくみせているのかもしれない。