編集部
戦後、日本は経済成長を求めて走りつづけた。がむしゃらに働くサラリーマンが「モーレツ社員」と呼ばれたのは半世紀も前のこと。ある時期まで大量生産と大量消費は「よいこと」とされていたが、人間の経済活動が地球環境に影響を与えていることがIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書で明記されるなど、この社会は今、ある種の行き詰まりを見せている。
「インターネット元年」ともいわれる1995年(平成7)以降に生まれた人口層「Z世代」は、私たち先行世代とは異なる視野や価値観をもっているはず。そこで彼ら彼女らに「水」を切り口として話を聞き、そこからこの社会の次の姿、未来像を考えたい――それが本特集の出発点だった。
取材先に関してはかなり悩んだ。Z世代と一括りにしたところで一人ひとりはまったく異なるからだ。今回は学校の授業や個人的な体験など、何かのきっかけで水に興味をもち、水の研究や活動に取り組んでいる人たちに話を聞いた。だからZ世代のなかでも、水へのこだわりや知識を備えた特別な人たちかもしれない。
一つお願いしたいことがある。本特集を読んだZ世代の人たちには「私はこんなこと考えたこともない」「ちょっとレベルが高すぎる!」と思わないでほしいのだ。じっくり読めば、ちょっとしたきっかけで誰もがそうなる可能性を秘めていることがわかってもらえるはずだ。
取材に協力してくれたZ世代も、実は迷いながら生きている。「Refill Japan」にかかわる大学院生と大学生、そして座談会出席者5名には取材前後にアンケートをお願いしたが、「買い控えた方がよいとわかっていても、外出時はどうしてもペットボトルに頼ってしまいます」「水を出しっぱなしにしないようにしていますが、節水意識からそうしているわけではないです」という答えもあった。私の息子と娘もZ世代だが、ペットボトル飲料はよく飲んでいるし、自室の電気を消さないなど無駄遣いも多い。
また、SNSに「散歩中に出合った護岸のデザイン」「電車から見えた海の風景や滝を写真と動画で」「友人とカヤックした川の写真」などを投稿する一方、「就職活動中はほかの人の内定が気になるから」とアカウントを一時停止する人もいる。デジタルネイティブと呼ばれるZ世代も、使い方については試行錯誤しているのだ。
また、本特集を通して読んだ編集部のZ世代は、「環境や社会の問題を同年代がこんな風に語るのはすごい。自分も考えなければいけないです」と語った。ここで紹介した若者たちがZ世代の代表ではないけれど、それに刺激を受けたZ世代もいる。
Z世代による座談会では、編集部の認識が覆される発言もあった。例えば「水道水への意識」だ。生活意識調査座談会では、水道水の得点について、X世代は10点満点中5点台だったが、Y世代は8点まで上がり、Z世代はやや低めとなった結果に関して、2000年(平成12)あたりから高度浄水処理が進み、「水道水はおいしくなったから」と見ていた。
ところが、Z世代の座談会では、東京の水道水に対するイメージが予想以上に芳しくなかった。水道水の質そのものというよりも、都市部における河川や水路など目に見える水があまりきれいではないことから、「そういう場所にある水だったらおいしくないだろう」という深層心理に起因するようだ。河川や水路に蓋をして水の流れを見えないようにした戦後の都市設計も裏目に出たといえる。
これは水道水だけ見ていてもわからないことだ。水はイメージによって左右されるものだとすれば、浄水場でどれほど繊細に水質を管理していても、そしてどれだけ時間と費用をかけて上水道のシステムを維持しても、飲料としての水道水の優先順位は変わらないことになる。
水をきれいにするだけでなく、雨がどのようにして流れていくのかなど、見えなくなった水の通り道を再び目に触れるように都市の姿そのものを少しずつ、あきらめず変えていかなくてはならない。
巷では「Z世代は環境意識が高い」という声がある。実際はどうなのか。前述のアンケートでは、できるだけ水筒を持ち歩く、水道水を飲むように心がけているという回答とともに、「周囲の友人も含めて考えると水筒を持ち歩いている人はあまりいない」「環境によくないと思っていても便利なのでつい買ってしまう」「万が一のときの備えとしてペットボトルはやはり便利」という答えもあった。
これは何を意味するのか。
広井良典さんはインタビューのなかで「人の価値観や行動は基本的に『時代』がつくると思っている」と述べた。とすれば、私たち先行世代が生み出したペットボトルの万能性から、Z世代だけが逃れられるわけはない。みんな同じ時代を生きているからだ。
ここで疑問が浮かぶ。そもそも「世代」とはなんなのか?
詩人の故・長田弘さんは、著書『なつかしい時間』(岩波書店 2013)のなかで、「『世代』という物差しが、いまはあらゆることがら、あらゆる出来事を測る目盛りになっています。」と記し、社会のさまざまな問題が「世代」の問題として語られ、異なる世代の経験が共有されなくなったことを嘆いた。かつて幸田露伴や夏目漱石が盛んに描いた「座談」は会議や討論に置き換わってしまい、「『変な事』が話せないような話の仕方、話の交わし方が、むしろ普通になってしまっているのです。」とも言う。
社会を生き生きとしたものにするために肝心なのは、「異世代」同士による「同時代」の共有。長田さんはそう主張した。
生活意識調査座談会で収録できなかった話題の一つに「小・中学校に水筒を持っていくようになったのはいつか?」がある。調べると、同時代に生きる異世代が当時の常識を覆した事実を知った。
文部科学省に水筒について電話で尋ねた。すると「教材ではないので特に指導はしていない」と言う。次に千葉県教育委員会に聞いてみると、今も熱中症対策ガイドラインに「水筒持参」とは明記されていなかった。ただし、「15年ほど前から『水筒を持ってくるように』と指示するようになったはずです」と電話に出た50代半ばの教員が記憶をたどって教えてくれた。
Z世代には信じられないかもしれないが、かつてスポーツの部活動中に水を飲むことは禁じられていた。先輩の目を盗んでこっそり水を飲んだ人も多いはずだ。25年ほど前までそれは続き、約20年前に「夏場なら飲んでもいい」となり、その後に水筒持参OKになった、というのが千葉県におけるおおまかな流れ。数年前に熱中症で児童が亡くなってからは、水分補給については注意深く対応していると言う。
興味深いのは、「水を飲むな」の時代から「水筒持参」に至るまで、上(国)からの指示ではなく、現場の先生たちが「水筒を持ってこさせよう」と判断したことである。先生が子どもたちの体と健康を考えて「水を飲むな」の妄信を払拭し、自主的に変えてきたことは、次の世代のためならば先行世代が慣習にしばられず正しい方向に導くことができるという点で希望が見える。
日本と諸外国の若者の意識を比較した内閣府「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査(平成30年度)」によると、社会における問題の解決や政策決定への関与、社会現象への参画について日本の若者の意識はやや低い(図1、図2)。それは同時代に生きている私たち先行世代の影響もあると考えると、「今の若者は……」というありがちな文脈で語ることはできないだろう。
没個性が求められたかつての反省から、個性がよいものと認められ、可能性に満ちているのがZ世代だ。青森県立名久井農業高校で宮木琢愛さんと松橋大希さんの課題研究を指導した木村亨さんは最近の生徒たちの気質についてこう語る。
「たしかに自分の道を歩いている感じを受けます。お互いに干渉し合うこともあまりないですし。ただし冷めているということではないんです。パッと見てもわからないかもしれませんが、目標を定めると一生懸命ですよ」
Z世代には、広井良典さんが言うように、これまでの一本道が終わった今だからこそ、恐れず臆せず自分のやりたいことを見つけてほしい。
そして私たち先行世代は、Z世代一人ひとりが「自分らしく」生きられるように、企業あるいはNPO・NGO、地域活動などあらゆる場面でいろいろな話題をしがらみなく座談してはどうか。そのときは私たち先行世代も「自分らしく」振る舞ってよいと思う。世代の違いから思わぬイノベーションが生まれたら痛快だ。人が集まりづらい今の状況から生まれたリモート式のシンポジウムやイベントに参加してもいい。クラウドファンディングで若者たちの夢を後押ししてもいいだろう。
先行世代の務めは、同時代を生きる仲間として、また先に消えゆく者として、安易な世代論に振り回されず、Z世代の意見に耳を傾け、その思いをできるだけ共有し、問題点を探り、少しでも状況がよくなるように行動することだ。
Z世代に「水」を切り口として話を聞き、この社会の次の姿を考えてきたが、Z世代の5名が語り合って互いに刺激を受けていたように、「水」はあらゆるものに通底する。世代を超えて、地域も問わず、みんなで共有できる問題であり、この社会を根底から支えるものの一つと言っていい。だからこそ今、その使い方や配分のシステム、それを生み出す自然も含めて、この社会が内包する問題点を「水」から見つめ直すことが、よりよい社会をつくりだすことにつながるのだと思う。